第10話 成長
五月八日。
研修室に足を踏み入れると、ちらほらと視線が集まる。だが、以前のような羨望や関心の色は、もう見当たらない。
「おはよー、紫音ちゃん」
軽快な声が飛んできた。声の主は、茶髪にくしゃっとした笑みを浮かべた藤森黎翔だった。
「おまえ、今日もテンション高ぇな」
「そらもう。朝から暗い顔してたら、数値まで下がりそうやろ?」
にやにやと笑いながら肩を組んでくるが、紫音はうるさそうに振り払う。
「うるせぇ、暑苦しい」
「ええやん、同じ班なんやし。そろそろ慣れてくれてもええと思うけどなあ」
いつも通りの軽口。だが、紫音の心の中にはモヤモヤとしたものが渦巻いていた。
楓に勝って以来、周囲の目は一度だけ変わった。だが、一か月たっても数値が一向に上がらない日々が続くうちに、それはすぐ失望に変わった。中には、見なかったことにするかのように紫音を避ける者すらいる。
「藤森君、あれで講義は真面目に聞くし、頭いいのがほんと謎だよね」
隣で杉岡が呆れたように言うと、藤森は振り返りながら、指を立ててウインクした。
「お勉強も戦闘も、どっちもやれるんが“モテ”の第一歩やで?」
「モテたいとか言ってる時点で無理だろ」
「うわ、手厳しい」
茶化されながらも、紫音はぼんやりと前を見る。楓に勝った実感すら、今では遠く霞んでいた。
* * * * *
午後。O型専用訓練室。
ここは、ヒルたちが血液型ごとに特化した戦闘スタイルを学ぶための空間。その中でも「O型」は、最も古典的かつ肉体的なカテゴリだ。
ヒルは通常、自身の血液型に対応する「変血」を注入してヒル化する。血液型と変血の適合性がヒルの性能に直結するため、訓練も血液型単位で分けられるのが一般的だ。
紫音は「O型」――特殊能力やからめ手が少ない代わりに、肉体性能が高いヒルだ。
スピード、反応、打撃力、瞬間的な集中力。すべてを鍛え上げた末に、最も「強い個体」が生まれる血液型とも言われている。
しかしそれは、すべての血液型の中で、最も「強さを求められる型」ということでもある。
突出した力がなければ、他の血液型の“強者”の下位互換になる。
「おー、来た来た。うちら二人だけや思ってたけど、意外とおるんやな」
藤森黎翔がストレッチしながら軽く手を振る。軽い口調。だが訓練中の姿勢は一転して鋭いものを持っていた。
重い足音とともに、教官が入室してきた。
「――静かに。今日の訓練から内容を変更する」
教官は無駄のない口調で、視線を一人一人に走らせる。年齢は四十代前半くらい、くたびれた軍用服に飾り気はない。
「今日は、実際の紅獣と戦ってもらう。制圧目標は、種族コード《RD-002》鳥竜種。安全管理は万全だが――油断するな。事故が起きれば訓練は打ち切り、対象者は再評価に回す」
空気が変わった。誰かが息をのむ音が聞こえた。
「2人1組で部屋に入る。初戦、藤森・浅野組。準備しろ」
紫音と藤森が互いに目を合わせた。
「お、うちら初戦か。えらい目立つやん。楓ちゃんおらんのに張り切ってもなあ……」と、藤森が苦笑しながらぼやく。
「行こう」と紫音が答える。緊張はしていない。
部屋に入る前、教官がモニター端末を確認しながら紫音を一瞥した。
「……お前にはきつい相手かもしれん。無理するなよ」
紫音は無言で軽く頷くだけだった。藤森のほうが「そのへん、ほどほどでいきましょか」と苦笑を重ねる。
金属の扉が開き、二人は室内に入る。
暗めの照明が点滅し、人工林のようなフィールドが広がっていた。床は土と石。湿気があり、かすかに獣の匂いがする。
その中央に――紅獣が三体、身構えていた。
鳥型。大型のカラスにも見えるが、二足歩行で両翼の関節には異様な腫れと紅の光。羽根は鋭利な刃のように変質し、嘴は鋭く歪んでいた。
藤森が小さく息を吐く。「うわ、緊張してきたわ」
直後、二人の腕に装着された端末に通知が届く。教官からの情報データだった。
《種族コード:RD-002》
幼成体 鳥竜種 量産型
再生力 90
エネルギー量 100
紅刃硬度 80
体表硬度 80
筋量 70
紅刃量 70
端末の隅には、戦闘アシストシステムが自動計算した総合脅威値:490の表示。対象は三体。
すぐ下に、自分たちの数値も自動表示された。
【藤森黎翔 総合値:1220】
【浅野紫音 総合値:340】
紫音が無表情で数値を眺めていると、隣の藤森が苦笑気味に言った。
「ま、見ての通りやな。俺が二体やるから、紫音くんは一体、任せるで」
「わかった」と紫音は短く返し、木刀を持ち直した。相変わらず紅刃は見るに堪えないサイズ感のため、いまだに木刀をメインとしている。
扉が閉まる音と同時に、鳥型紅獣たちが一斉に羽ばたいた。バサリ、と耳をつんざくような音。瞬時に距離を詰めてくる。
紫音の前に回り込んできた一体――他より一回り小柄な個体が、くぐもった鳴き声を発しながら嘴を開いた。
次の瞬間、小さな火の玉が吐き出された。
「ッ!」
紫音は即座に身をひねって避けた。火球は軌道をわずかにずらしながら飛び、後方の金属壁に当たり、ジリジリと赤く焼き焦がす。
(直撃したらまずいな)
紫音は冷静に判断しつつ、再び紅獣へと向かって踏み込む。
構えは基本に忠実な正眼。だが紅獣はその剣筋をあざ笑うかのように、翼で弧を描きながら回避し、再び距離を取る。そして、再び火の玉。
だが――今度は避けなかった。
紫音は一歩だけ前に出て、火球の直前で木刀で弾いた。強烈な熱気が手を焼いたが、間合いが縮まった。
(この距離なら――)
そのまま跳び込む。打ち込みは肩ではなく、翼の付け根――火球を生み出す器官の根元を狙った。
紅獣が悲鳴のような声を上げて仰け反った。
鋭く叩き込んだ一撃は、狙い通り関節の可動を乱した。
「やるやん!」
藤森の軽口が遠くから聞こえた。すでに彼は一体を無力化し、もう一体を相手にしている。
紫音は汗を拭わず、構え直す。木刀では致命傷にはならない。鳥型紅獣は羽をばたつかせて距離を取ろうとする。
「逃がさねえよ」
紫音はすかさず踏み込み、左脚を紅獣の脚部に巻きつけて崩しにかかる。同時に、もう一撃――喉元を横に殴り、息を止めさせる。そのまま地面へ叩きつけるように引き倒すと、紅獣の羽ばたきがにわかに弱まった。
「……!」
チャンスを見た紫音は、紅刃を出した。
カチリ、と低く鳴る金属音。手からわずかに顔を出した深紅の刃が、紅獣の首元へと突き刺さるように滑り込む。
ズシュッ――
低く、濡れたような音。
刃を引き抜いた瞬間、紫音の中にまた“あの感覚”が流れ込んできた。
……まただ。
ぬるりと、冷たい液体が血管の奥に入り込んでくるような感覚。心臓が、一瞬だけリズムを乱す。
「っ……」
紫音は手を押さえ、立ち上がった。
するとすぐに、腕の端末がピコン、と控えめな音を鳴らした。
《戦闘能力値更新。総合値340→389に上昇。詳細データ確認可能》
「……やっぱりか」
一か月間、まったく変化のなかった数値。それがようやく、上がった。よりによって、紅獣の生き血を浴びたあとで。
普通は訓練と共に数値が上がる。変血を繰り返し取り込み、体が少しずつヒル化に順応していくはずだった。
なのに紫音だけは、それが起きなかった。
「紅獣の……生き血じゃないと、成長できないってことか」
――この体は、なにでできてるんだ。
血の滴る紅刃をひっこめる。すると背後から声が飛んできた。
「なあ、倒したあと――ちょっと気持ちよさそうな顔してたやろ、おまえ」
振り返ると、藤森黎翔が軽く笑って立っていた。火の粉で少し焦げた肩を払いながら、どこか呆れたような顔。
「なんかヤバいもんに目覚めたんちゃうかって顔やったわ」
「……うるせぇよ」
紫音はそっぽを向くが、その表情はほんの少しだけ、引きつった笑いになっていた。
_________________________
《浅野 紫音》
再生力 60→69
エネルギー量 60→70
紅刃硬度 60→68
体表硬度 60→68
筋量 80→87
紅刃量 20→27
総合値 340→389 (103位/103人)
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