第8話 白鷺 楓

白鷺 楓は、朝の冷たい空気を切り裂くように、鋭く踏み込んだ。


「次」


金属がぶつかる音が短く鳴り響き、対峙していた若い男性がたまらず後退した。動揺が表情に浮かぶより先に、白鷺 楓の紅刃が、寸止めで喉元に突きつけられる。


「……はい。終了」


その声に応じて、見守っていた他の二人の男が顔をしかめた。


白鷺 楓――十八歳。つい先月、高校を卒業したばかりの年齢だが、その名はすでに会社の内外に轟きつつあった。

白鷺総研の社長、白鷺 竜胆の孫娘という肩書きに甘えることなく、誕生日が来てすぐにヒル適合手術を受け、変体能力の訓練を半年早く開始。

まだ実戦経験はないが、能力値はプロ顔負け。紅刃の展開速度、硬度、制御性、そのすべてが既に訓練生の域を超えていた。


彼女の紅刃は指先から発現していた。しなやかに湾曲した刃は、爪のようでもあり、短剣のようでもある。その切っ先がわずかに揺れるだけで、周囲の空気が鋭く震える。


今朝も、白鷺総研に所属する若手社員たちが数人、楓のもとを訪れていた。いずれも現場に出ている正規のヒルで、名目上は「紅刃制御の見直し」だが、実際は訓練と称した実力試しに過ぎない。


しかし、彼らの挑戦はすべて無残に終わった。


「揃いも揃って、反応遅いのよね」


楓は軽くため息をつくと、紅刃をすっと引っ込めた。爪のようだった刃が瞬時に皮膚に吸い込まれるように消え、整った手指だけが残る。動きに無駄がない。


「悪いけど、こっちにも時間はあるの。もう少しマシな人、連れてきてくれる?」


楓の瞳は笑っていない。冷ややかに、しかしどこか物足りなさを含んだような眼差しで、正面の男たちを見つめていた。


「もちろん、変血の適合率に個人差があるのは分かってます。でも――」


楓は肩をすくめ、手に巻いた黒いリストバンドを軽く叩いた。


「それを差し引いても、体の動かし方がなってない。紅刃の質以前の問題。ヒルとして白鷺の名を背負って戦ってるなら、最低限の動作は染み込ませておくべきじゃない?」


先ほど圧倒した男が苦い顔で頭を下げる。反論はなかった。ただただ、情けなさと恥が顔ににじんでいる。


「……精進します」


「お願いしますね。社員なら、責任持って」


楓はすでに彼らに対して興味を失っていた。つまらない試合の後のように、足早に振り返ると付き従うスーツ姿の女性――秘書に目を向けた。


「次の予定は?」


秘書はタブレットをスライドして確認しながら、手短に答える。


「本日午後から、訓練生の班に合流していただきます。正式に社員として戦闘部門に配属されるには、最低でも一年間の訓練課程の修了が義務ですので」


楓の表情が一瞬だけ固まる。だがすぐに、納得したように小さくうなずいた。


「……社員になるなら、白鷺家でも特別扱いはできない、ってことね。祖父の方針?」


「はい。竜胆社長からの指示です」


「了解。じゃあ、車の用意お願いね」


再び微笑むその目に、わずかな期待と、ほんの少しの退屈の色が混じっていた。




 * * * * *




初研修から、一週間が経った。


先週は、ほとんどが講義と検査ばかり。変体時の反応を細かく計測されたり、紅刃の硬度や生成量の測定を繰り返されたり――戦いらしいことはほとんどなかった。


だが、今週から本格的な訓練が始まる。


「やっとだな」


朝の光を浴びながら、紫音は伸びをした。隣では、いつものように猫背気味の杉岡が眠そうにまばたきしている。


「ねえ紫音くん、あんまり前に出すぎないでね……僕、ああいうの注目されるの苦手だから……」


「心配すんなって、俺だって大人しくしてるよ。どうせ目立つほどの能力もないし」


「そ、それは……うん、まあ……」


杉岡と並んで歩きながら訓練棟に近づくと、周囲はすでに制服姿の訓練生たちで賑わっていた。どことなく殺気立った空気が、これまでの研修棟とは違う。ざわざわと、互いに牽制し合うような視線が交錯していた。


そのときだった。


角を曲がった瞬間、正面から歩いてきた訓練生と、紫音の肩が軽くぶつかった。


「っと、すまん」


ぶつかってきた相手は、清潔感のある整った顔立ちで、白に近い金髪をなびかせた長身の少年だった。どこか育ちの良さが滲み出ている――いわゆる"お坊っちゃま"というやつだ。


「あ、気にしないで……って」


紫音が返そうとした瞬間、その少年が目を細めて笑いながら言った。


「ところで――君、浅野紫音クンだよね?」


「……なんで知ってんの」


「高校時代、初の刀術三連覇してる君が有名じゃないわけないじゃないか。映像も何度か見させてもらったよ。まさか本物と会えるとはね」


口調は丁寧だが、どこか含みのある声音だった。紫音は無意識に肩をすくめる。


「……そう。で、あんたは?」


「僕? まあ名前はいいよ。そんなことより測定結果はどうだった?」


ヒル候補生の身体データや変体測定値は、全訓練生に公開されていた。プライバシーなんてあったもんじゃないが、能力を隠されたまま訓練して、実戦時にトラブルになるのを避けるため――とされていた。


「見ようと思えば見れるだろ、自分で」


紫音が面倒くさそうに返すと、少年は軽く端末を操作しながら小さく笑った。


「……ああ、これはひどいな。意外だよ。てっきりもっと高いものかと」


しばらく沈黙してから、訝しげに呟く。


「……これって、本当に変体後の数値? 変体できてなかったんじゃないの?」


周囲で聞いていた訓練生たちの間に、さざ波のようにざわめきが広がった。


「今の聞いた? あれ、浅野紫音だってよ」

「え、マジで? 刀術の大会で連覇してたっていう?」

「でも測定値最低なんだって」

「結局、身体能力高いだけじゃダメなんだな。素質なんだよ、やっぱ」


紫音はあからさまな嘲笑に眉をひそめつつも、涼しい顔を崩さない。


「……ま、せいぜい今のうちに見下しときなよ」


紫音はそれ以上何も言わず、杉岡と並んで訓練棟へと向かう。その背に、さっきの少年のあきれたような、けれどどこか苛立った視線が突き刺さっていた。



訓練場に到着すると、すでに数十名の訓練生たちが列をなして立っていた。朝の冷たい空気が、ぴんと張りつめた緊張感をさらに増幅させる。


「おはようございます。一班の方はこちらにお並びください」


訓練棟のスタッフが声をかけ、紫音と杉岡は他の訓練生たちに混じって整列した。前を見ると、さっきぶつかったあの“お坊ちゃま”が、別の列――第二班の方にいるのが目に入る。


(あいつ、二班だったのか)


と、そこへ梶が姿を現した。背筋を伸ばし、静かに列の前へと歩み出る。


「おはようございます。皆さん、集合ありがとうございます」


梶は、落ち着いた丁寧な口調で口を開いた。口調こそ柔らかいが、背後にある鍛錬された冷厳さは隠しきれない。


「第二班の教官は、昨夜の緊急討伐任務の影響で、まだ現場から戻っておりません。そのため、本日は一班と二班、合同で訓練を行います。人数が増える分、連携と秩序を大切にしてください」


一部の訓練生たちがざわっと反応したが、梶は眼鏡を押し上げながら、さらに続けた。


「それと、もう一点。今日から第一班に、新たに合流する訓練生が一名おります。どうぞ、お入りください」


自動ドアが音もなく開き、漆黒の訓練服に身を包んだ少女が静かに現れた。整った顔立ちと落ち着き払った所作、その一歩ごとの無駄のなさに、周囲がざわめく。


「白鷺楓……!?」

「白鷺総研の孫……」

「え、ここで訓練すんの?」


視線が一斉に彼女へと集中する中、紫音はぽかんとした表情でその少女を見つめていた。


「……誰?」


横に立つ杉岡が、そっと説明する。


「白鷺楓。白鷺総研の社長のお孫さん。たしか……高校卒業してすぐヒル手術受けて、半年早く訓練始めたんだよ。実戦経験はないけど、今年の訓練生の中で能力値はダントツって噂」


「ふーん……」


紫音は楓を観察するように見つめた。


(つまり……超エリートってことね)


楓はすでに梶の隣に並び、周囲の視線にも動じず、静かに立っていた。


「改めてご紹介いたします。こちらは白鷺楓さん。紅刃操作および格闘の基礎訓練は既に修了しており、現段階での能力評価は非常に高い水準にあります。しかしながら、実戦経験はございません。ですので、彼女も他の皆さんと同じ訓練生として扱います。特別な扱いはいたしません」


「よろしくお願いします」


凛とした声が場を包み、一瞬、全員が言葉を失った。


紫音はその姿を見ながら、ふと胸の奥に小さな火が灯るのを感じた。

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