牛のタメ吉

後藤いつき

牛のタメ吉

あの山の裾野のあたりに酪農の、もうけのあるやつがいて、タメ吉といって、タメさんとか、タメゴローとか、タメ吉とか、呼ばれてたんだが、5年前、そいつが突然姿を消した。夜逃げとか、金目当ての輩に殺されたんだとか、いや奴に恨みを持つ人間の犯行だとか、みんないろいろうわさしたんだが、警察に捜索願を出してしばらく経っても一向に消息がつかめなかった。

あいつが消えてから3か月くらい経って、朝、タメ吉んとこの職員が寮から牧場へ歩いていくと、牛舎の前に見慣れない牛がでんと一頭牛らしく堂々と、のほほんと屹立している。そいつは黒々とした雄牛で、ここにいる牛はみんな乳を出す雌牛だから、職員、ユー助も最初は慄いたんだけれども、まぁ牛は牛、年がら年中共に過ごしてる奴らだから近づいていって撫で回してやって、おめえどっから来たんだなんて言ってやったりして、牛のほうも特に暴れる様子もなく撫で回されていると、そうしているうちにほかの職員も集まってきて、なんだこの牛はと、こいつは一体どうしたもんかと牛を囲んで話し合うでもなく話し合っていると、一人がこれ、タメ吉さんじゃねえか?言い出して、はじめはみんないやまさかぁ何言ってんだおめえはなんて笑ったりしたんだけれども、その牛の黒くつぶらな瞳を見ているうちに、全く似ていないはずなんだけど、決して違うとは言い切れない、表情というか、佇まいというか、いやこの広々とした背中がとか、このがっしりとした足腰なんてタメさんらしいじゃないかとか、段々々々その牛がタメ吉としか思えなくなってきて、そうだこの牛はタメさんだ、そうにちがいない、牛になって戻ってきたんだタメさんは!なんて話になり、何だか知らんが泣き出す奴もいて、ひとまずこれを奥さんに伝えに行こうとなって飛脚役のひとりがタメ吉邸へ飛んでってピンポン鳴らして朝の早くからどうのこうのと言いながら出てきた寝ぼけ眼の奥様相手にかくかくしかじかお宅の旦那は牛になって今牛舎の前にいますなんて興奮して息を切らして説明するんだけれども当然奥様ちんぷんかんぷんで、朝の早くからどうのこうのと欠伸をつきながらむにゃむにゃ言うのを相手してると飛脚も居ても立っても居られないから奥様の手を引っ張ってそのまま牛舎に飛んでった。

引きずられていくうちに奥様ようやく目を覚まして、貴様の主たるタメ吉の妻にしてこの牧場経営の中核をなす存在たる私にこのような無礼を働こうとはおのれただでは済まさんぞなどと憤激するんだけれども飛脚の太一は聞く耳持たず、まあまあいいからいいから来ればわかるからの一点張りであしらって、さあ到着いよいよご対面、細君牛を見るなりぴたりと止まって立ち尽くし、

「………………タメ吉……」

と零したからには拍手喝采大団円めでたしめでたしというのがそこにいた職員全員の思い描いた筋書きだったのだけれども無論そんな風に行くはずもなく、奥様激昂職員全員一列に並ばせて説教説教説教説教説教。

この牛が一体何なのだか知らんが私をここまでコケにしてくれようとは覚悟はできているのだろうな貴様らタメ吉は牛だなどと訳のわからん戯言をのたまって寝惚けるのも大概にしておけ全体腑抜けておるのだ貴様らそうだろうタメ吉不在のこの危機に例えば近藤貴様昨日云々かんぬんくどくどくどくど説教というものは得てして長いものだが奥様の弁舌留まることを知らず話題は些事から些事へあちらに来てはこちらへ移り、再び戻ってきたかと思えば全く予想外の方向へ飛び、抑揚は豊かで時に激しいシャウトがあったかと思えば湧水の深山を流るるが如くゆるやかな調べが奏でられ、そこにはまさしくひとつの音楽があった。

なんのかんの言いつつも理が誰にあるかといえば奥様にあるわけで、聴衆達も時が経つにつれ次第に集団幻覚の熱狂が冷めていき、タメ吉が牛になっただなんてそんなわけあるか馬鹿馬鹿しい、誰だ最初にそんなこといったやつは、腹減った、眠い。とひとりが欠伸をついたのを女王陛下しかと見逃さず、青筋立てていざ怒鳴らんと大きくブレスをとった瞬間どん、と背後から牛が突いた。緩やかな弧を描いて飛んだ奥様は、一度地面でバウンドし、そしてうつ伏せに着地したまま動かなくなった。

朝の澄んだ空気が牧場の牛達の背中を撫でた。

朝露が陽光に輝く。

鳥が鳴く。

牛が鳴く。

遠くで電車の走る音がした。

気がした。

世界に動きが生まれた。懸命に力を振り絞って片肘で体を支え、よろよろと振り返ると女は言った。

「………………タメ吉……」


タメ吉の家庭内暴力は有名だった。気に入らないことがあるとよく妻を殴った。奥方は時々そうしてできた痣を勲章の如く周囲に見せつけた。その度に皆タメ吉を非難した。その度にタメ吉も反省して妻に謝った。三倍返しに殴り返して妻は夫を許した。そういう夫婦だった。

青痣夫婦と誰かが言った。痣が増えて広がるとそれを牛の柄に見立てて牛痣夫婦と誰かが言った。二人はまんざらでもない様子だった。

酪農家の妻というものは大概夫と一緒に牧場で牛の世話をするものだが、彼女は朝が弱いうえに牛も嫌いだったのでそれをしなかった。代わりに商才に長けていたので広告営業ブランディング、業者と提携して商品開発などと幅広く自家製の牛乳を売り出し、実際タメ吉の出荷する牛乳も質がいいと評判だったので経営は鰻上り、タメ吉失踪の原因は奥さんがDVに耐えかねて殺してしまったんだと言うやつもいて、警察も同じことを考えたようだったが、DVを除けばすごくうまくいっている夫婦で、それはないだろうというのが大方の見解だった。


さて奥様ゆっくりと身を起こし、職員に肩を支えられながら彼女を突き飛ばした牛のもとへ近寄ると、その大きな頭蓋に激しく抱擁。この暴力の力加減、味はまさしくタメ吉のものに他ならない。会いたかった。タメ吉。愛してる。皆の者聞け。この牛は、否、この男はまさしくタメ吉だ。と宣言したからにはやんややんやの大喝采。

「そうだ」

消えかけていた火がよみがえり、先よりも更に勢いをまして

「この牛はタメさんだ!」

夫婦の再開を祝した宴は翌朝まで続いた。


それからこの牛もといタメ吉は牧場で世話されることとなり、そのうち誰かがタメさんの種で牛を仕込んでみたらと言い出して、はじめ奥様反対しつつも渋々了承して、試してみるやタメ吉の精を受けた牛は特別に良い乳を出すので、金になるのはいいけれども嫉妬の色は隠せずといった様子だったのが、それが仔牛を産んだからにはこれは我が子だと言って長年子供のいなかった故に奥様泣いて喜ぶ始末。そうして牛もといタメ吉は評判となって牧場は大儲け、牧場の入り口にはタメ吉の、雄牛の銅像が建って、今度はタメ吉パークなるものが建設される予定だとかいううわさが流れている。

今じゃタメ吉と言えばみんなあの牛のことを言い、なんであの牛がタメ吉と呼ばれるのかさえ忘れてるやつもいるが、やっぱり俺にとって牛は牛、タメ吉はタメ吉、特別仲がいいでもないけどお前はお前であるわけで、だからタメ吉、生きてたら連絡ください。

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牛のタメ吉 後藤いつき @gotoitsuki

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