後編

「……」


 暴力的な雨のシャワーに言葉を失う。


 どうしてこんなことになったのだろう。玲たちとはぐれた時から何かの歯車が狂ってしまったのだろうか。それとも、このトレッキングの計画自体がそもそもの間違いだったのか。


 脳裏には、そんなネガティブな考えが浮かんでは消える。それが何だか情けなくて。鼻がツンとした直後、視界がじわりとにじんだ。


「なあ、こんなとこで何してんの?」


 不意に、頭上から知らない声が聞こえてきた。


 反射的に顔を上げると、目の前に黒と朱色の山伏衣装を着た長身の男性が立っていた。青みを帯びた黒く長い髪が、時折吹く風になびいている。


(え、誰……!?)


 つい先ほどまで、そこには誰もいなかったはずだ。少なくとも、近づいてくる足音は聞こえなかった。


(かっこいい……)


 突然現れたことにももちろん驚いたが、それ以上に彼の美貌に目を奪われた。眉目秀麗びもくしゅうれいで、麻美が今まで出会った男性の中でもトップクラスのかっこよさだ。山伏衣装も普段から着ているのだろう、とってつけたような違和感はなかった。


「そんなに見つめられると、照れるんだけど?」


 と、彼は苦笑しながら告げる。


「あ、ごめんなさい! えっと……」


 彼の言葉で我に返り、麻美はあたふたと言葉を紡ごうとする。


 ふと、つい先ほどまであった雨の暴力がなくなっていることに気がついた。自分に降り注いでいた雨が、彼の出現と同時に止んだのだろうか。いや、雨はいまだに降り続いている。耳に届く雨音と半透明のベールに包まれたような周囲の景色が、それを物語っている。自分たちがいるこの場所だけが、スポットライトが当たっているかのように雨を避けることができていると言った方がより正確だった。


「え、嘘!? 何で!?」


 と、周囲を見回した麻美が驚きの声をあげる。


 その反応が予想通りのものだったのだろう、彼はくつくつと笑った。


「そりゃあ、俺が力を使ってるからかもな」

 と、したり顔で告げる。


「力って……まさか! それに、その服! 貴方、もしかして烏天狗!?」


 麻美はすくっと立ち上がると、彼の顔を見上げて身を乗りだした。先ほどの昇の言葉を思い出して問いかける。その目にはもう涙はなく、焦げ茶色の瞳はキラキラと輝いている。


「お、おう。確かに烏天狗だけど……」


 と、彼はぐいぐいと迫る麻美に圧倒されている。


「やったー! 本物に出会えたー!」


 麻美は小さくガッツポーズをすると、満面の笑みでそう言った。


「あー……興奮してるとこ悪いんだけど、あんた、烏天狗が好きなの?」


「はい! 子どもの頃から大好きで、ずっと会ってみたかったんです!」


 麻美は、彼の言葉尻にかぶせるように力強くうなずいた。


 幼い頃から雪白岳の天狗伝説を聞いて育った麻美にとって、烏天狗は憧れの存在と言っても過言ではない。この瞬間までは、烏天狗に限らず、数多あまたの妖怪の存在を信じ切れていなかった。だが、それが目の前に実在しているのだ、興奮しない方がおかしいというものだろう。


「そっかそっか。そう言ってもらえるなんて、ちとくすぐったいけどうれしいぜ」


 はにかみながら、彼は影臣えいしんだと名乗った。


 麻美も慌てて自己紹介をすると、


「影臣さんは、どうしてここに?」


「呼び捨てでいい。この土砂降りの中、うなだれてるあんたの姿が見えたから」


 だからここに来たのだと、影臣は当然のことのように告げた。


 確かに、雨脚が強まった時、麻美は地べたに座り込んでうつむいていた。それが、うなだれているように見えたのかもしれない。だが、どこから見ていたのだろう。影臣が現れるまで、ここには麻美しかいなかった。雨のせいで視界は悪いが、圭祐や昇よりも背の高い彼を見かけないはずはない。


 自分の行動と周囲の状況を思い返して、はたと気がついた。


(――烏天狗だったら、千里眼くらい使えるじゃんね。それで見られてた……?)


 心の内まで見透かされていたような気がして、麻美は両手で顔を覆った。


「んで、どうして泣いてたの?」


 影臣が優しくたずねる。


 麻美がそろそろと顔を上げると、目線を合わせるように彼がかがんでいる。春先の若葉のような黄緑色の瞳に見つめられ、麻美の心臓は飛びだしそうなほど高鳴った。


(ちょ……! 近い近いっ!)


「えっと、実は――」


 麻美は影臣から視線をそらしながら、友人と四人でトレッキングに来たこと、ふと空を見たら雨が降り出しそうだったこと、空を見ていたら友人たちとの距離が開いてしまったこと、彼らに追いつこうとしたら雨が降ってきたことを話した。


「なるほど、そいつは心細くもなるわな。それで、目的地は?」


「展望台に行こうとしてて……」


 麻美はそう言って、目指していた方を指差した。


 道の先に人の姿はなく、雨にけぶる景色だけが広がっている。


 影臣が、目を細めて麻美の指の先を見やる。何やら思案しているように見えた。


「あんたの友達って、三人だったりするか?」


 しばらくして、影臣が道の先に視線を向けたままたずねた。


 麻美がうなずくと、影臣はニッと笑って彼女に向き直る。


「三人とも展望台にいるぜ。まだ止みそうにねえし、俺が送ってってやろうか?」


「え、いいんですか!?」


 驚きの声をあげる麻美に、影臣はもちろんと笑顔を見せる。


「けど、相応の対価はもらうぜ」


 影臣のその言葉に、麻美は何かあっただろうかとバックパックに手を伸ばす。


 その瞬間、影臣は麻美を抱き寄せ口づけた。


「――!?」


 いきなりのことに、麻美は動けなかった。


 軽く触れるだけのキスは、とても優しくて甘いものだった。思わず、身を委ねてしまいそうになる。


 そんな麻美の心情を知ってか知らずか、影臣はゆっくりと身を離す。


(わ……た、し……今……)


 確認するように、麻美は自身のくちびるに触れた。まだ影臣の感触が残っていて、一気に顔が熱くなる。


「顔赤くしちゃって……かわいい奴」


 そうつぶやくと、影臣は一枚の羽をどこからか取り出した。それは、彼の髪色と同じ青みを帯びた黒色をしている。


 動揺した心を整えつつ、麻美は影臣の手のひらに乗った羽をじっと見ていた。何の変哲もない羽だが、次第に青みがかった光を放ち始める。


 何が起きているのかわからない麻美をそのままに、影臣はその羽を空中へと放り投げた。それは二人の頭上数メートルのところまで浮かび上がり、音もなく弾けて消えた。


 すると、どしゃ降りだった雨はぴたりと止み、空を覆っていた灰色の厚い雲は蜘蛛の子をちらしたように跡形もなく消えていった。

 青空を見上げていた麻美は、影臣に向き直ると、


「すごい! 今の何!? どうやったんですか?」


 と、目を輝かせながらたずねた。


「何って、術を使っただけだぜ?」


 影臣にとって、それはごく普通のことなのだろう。はしゃぐ麻美に不思議そうなまなざしを送る。


「術って、妖術ってこと!? 呪文を唱えなくても使えるんだ、すごい! ……あれ? でも、天狗のうちわがあるんじゃ……?」


 矢継ぎ早に言葉を紡ぐ麻美。


 そんな彼女に、影臣は苦笑しながら落ち着けと諭す。


「うちわはあるけど、威力がありすぎるからめったに使わねえんだ。その点、術は威力を自分で調節できるから使い勝手いいんだよ」


 そう言って、麻美に右手を差し出した。


 小首をかしげてきょとんとする麻美。


 影臣は一つため息をついて、


「言ったろ? 友達のところに送るって」


「え? でも、私、まだ何も渡せてない……」


「もらったぜ。あれで充分だ」


 と、影臣は妖艶な笑みを浮かべる。


 その艶めかしさにドキリとした麻美は、顔が一気に紅潮するのを感じ、とっさに顔を背ける。


「なーに照れてんだよ。ほら、友達のところに行くんだろ?」


 影臣に腕を引かれ、麻美は瞬く間に彼の腕の中にすっぽりと納まってしまった。


 麻美の顔が、ちょうど影臣の胸の位置にあるので、彼の心音がダイレクトに聞こえる。そのせいで、変に緊張してしまい体が強張ってしまう。


「そんなに緊張すんなって。大丈夫だから」


 と、影臣はなだめるように麻美の背中を数回なでた。


 すると、次第に麻美の緊張はほぐれていき、紅潮していたほほも落ち着きを取り戻す。


「それじゃあ行くぜ。しっかりつかまってろよ!」


 ほっとした表情を浮かべた直後、影臣はそう言って背中にしまわれていた髪と同じ色合いの大きな翼を広げた。


 数回ほど羽ばたくと、二人の体は地面からふわりと浮き上がる。浮遊感に不安を覚え、麻美は影臣の背中に回した腕に力を込めて目を固く閉じた。


 その反応にわずかに笑みを浮かべると、影臣は上空へと一気に上昇し、展望台へと羽ばたいていく。


 少し冷たい風を受けながら影臣にしがみついていると、ものの数分で足が地面を捉えた。計ったわけではないから実際にかかった時間はわからない。だが、目を閉じていたこともあって、体感では本当にあっという間だった。


「着いたぜ」


 その声を合図に目を開けると、目の前には柵に囲われたちょっとした広場があった。目的地の展望台である。


 左側に視線を向けると、簡素な造りながらもどっしりとした東屋があり、そこに玲たち三人の姿があった。


「あ……ありがとうございます!」


 慣れない浮遊感がまだあるのか、麻美の足もとはおぼつかない。けれど、精一杯の感謝を伝えなければと頭を下げた。


「礼には及ばねえさ。……そうだ! これやるよ」


 思いついたように言って、影臣は一枚の羽を麻美に差し出した。それは、ほのかに青みがかった光を放っている。


「そんな……! ここまで連れて来てもらっただけでもありがたいのに、受け取れません!」


 麻美が全力で辞退するも、影臣はいいから持っておけと強引に麻美に手渡した。


「何かの役には立つと思うぜ。じゃあな」


 そう言い置くと、影臣は飛び去っていった。


 彼の後ろ姿に、麻美はもう一度深々と頭を下げる。すると、背後から麻美を呼ぶ声が聞こえてきた。


 羽をポケットにしまってから振り向くと、玲、昇、圭祐の三人が走って来るところだった。


「遅いよ、麻美! 大丈夫だった?」


「心配したんだよ」


「何かあったのかと思ったぜ」


 合流するや否や、三人は早口に気持ちを吐露する。だが、その表情は、どこかほっとしているようにも見えた。


「うん、遅くなってごめん」


 と、麻美は素直に謝罪する。言い訳じみた釈明をする気は、もとからなかった。けれど、どうにも表情を取り繕うことはできなかったようで。


「ねえ、麻美。何で、そんなににやけてんの?」


 と、玲がいぶかしげにたずねる。


 その茶色の瞳は、何があったのか正直に話せと問い詰めているようだった。


「えへへ。実はね、烏天狗に助けてもらったの!」


 満面の笑みで麻美がそう告げると、三人は一様に驚きの声をあげる。


 どしゃ降りの中で影臣という名の烏天狗に声をかけられたこと、彼が術を使って天候を変えたこと、ここまで彼に連れて来てもらったことを話した。ただ、彼にキスされたことは言わなかった。少し恥ずかしいというのもあるが、胸の奥に大切にしまっておきたかったのである。


「へえ、烏天狗って本当にいるんだ」


 その存在を疑っていた圭祐が口を開くと、


「烏天狗に会うには、どうすればいい?」


 と、昇が身を乗りだして麻美に質問する。


「え……ちょっと、わかんない」


 瞳を輝かせる昇に圧倒されて、麻美はそう答えるのが精いっぱいだった。


「そんなことより、せっかくここまで来たんだし、景色を楽しみましょ」


 少年のような昇の問いかけを『そんなこと』で一蹴すると、玲は気持ちを切り替えるようにそう言った。


 麻美と圭祐はうなずくと、見晴らしのいい場所へと移動する。その後に、玲と昇も続く。


 展望台から見える景色は、絶景だった。雨上がりだからか、輝いて見える。


「あ! 虹!」


 唐突に、圭祐が叫んだ。


 麻美、玲、昇の三人は、ほぼ同時に弾かれたように圭佑を見る。


 あれだと圭祐が指し示す先には、大きくてきれいな虹がかかっていた。


「きれい……」


 と、玲が思わず感嘆の声をもらす。


 確かに、七色の色彩が鮮やかで、麻美が今まで見たどの虹よりもきれいだった。


(……今、影臣も見てるのかな?)


 麻美は、無意識にそんなことを考える。影臣との出会いは、麻美が思っている以上に衝撃的だったようだ。


 その後、四人はそれぞれに景色を堪能し、スマートフォンやデジタルカメラに収めていく。


「そろそろ帰ろうか」


 しばらくして、昇が三人にそう声をかけた。


 どうやらたくさんの収穫があったようで、玲も圭祐も満足そうな表情でうなずいた。もちろん、麻美も同様である。


 四人は、抜けるような青い空に見送られながら、帰路についた。

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雪白岳の烏天狗 倉谷みこと @mikoto794

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