雪白岳の烏天狗
倉谷みこと
前編
「んー、いい天気!」
車の後部座席から外に出ると、
「気温もちょうどいいし、絶好のトレッキング日和じゃない?」
と、助手席から降りた女性が、麻美の言葉に続くように言った。
麻美の中学からの親友、
時折吹くそよ風が、玲のシルバーグレージュの前髪を優しくなでていく。
「でもさ、山の天気は急に変わるって言うじゃん?」
麻美とは反対側の後部座席から降りた茶髪の男性、
「ちょっと村井! 到着早々、変なこと言わないでよ!」
麻美が抗議すると、
「だって、本当のことだろ?」
と、圭祐はいたずらっ子のような笑みを浮かべながら告げた。
「三人とも、忘れ物はないか?」
麻美と圭祐の不毛な言い争いが起きそうになる中、運転席から降りた黒髪の男性が確認するようにたずねた。
彼は
四人にはアウトドアレジャーが好きという共通点があり、高校時代からよく一緒に遊んでいた。社会人になった今でも、こうして定期的に集まって、釣りやトレッキングに興じている。
麻美たちは、昇の問いにほぼ同時に大丈夫だと、忘れ物はないと答えた。
「それじゃあ、行こうか」
と、微笑む昇にうながされ、麻美たちは駐車場から登山道へと向かった。
ここは、
本日、麻美たちがここを訪れたのは、雪白岳でトレッキングをするためだ。目的地は、この登山口から片道三時間ほど歩いた場所にある展望台。そこから見える景色を堪能することが目的である。
鼻歌交じりで一行の先頭を歩く麻美。スキップでもしそうなほど上機嫌で、肩までの長さの栗色の髪がふわふわと踊っている。
「ずいぶん楽しそうね、麻美」
麻美の後ろを歩く玲が声をかけると、麻美は後ろを振り返り大きくうなずいた。
「私、この四人で遊びに行くのが大好きなんだ」
「自然体でいられるから?」
「そう! 変に緊張しなくていいんだもん」
「わかる!」
そう言い合って、二人はからからと笑った。
彼女たちから少し遅れて、圭祐と昇が続く。圭祐は風景を眺めながら歩いているが、昇の優しげなまなざしは、風景よりも麻美たち二人に向けられていた。
薄手の長袖Tシャツでも心地よい陽気の中、四人は景色を楽しみながら歩みを進めていく。足もとに目をやれば、視界に映るのは色とりどりの
時折聞こえる鳥のさえずりが、耳に心地よいオーケストラのようだ。
ふと、麻美が足を止めた。取り出したデジタルカメラのファインダーをのぞく。その先には、小柄の野鳥が枝に止まっていた。呼吸を整えてシャッターを切る。その瞬間、野鳥はどこかへと飛び去った。
すぐに画像を確認すると、その中央に黒いベレー帽をかぶったような見た目の鳥が写し出されている。どうやら、木の実をくわえて休んでいるところだったようだ。
思い通りの写真が撮れたとにんまりしていると、
「麻美? いい写真でも撮れた?」
と、玲にたずねられた。
「うん。もう、ばっちり!」
大きくうなずいて、麻美は玲にデジタルカメラを見せる。
「いいじゃない、きれいに撮れてる。それ、あとでちょうだい」
画像を見た玲は、茶色の瞳を輝かせながらそう言った。彼女は、動物のかわいらしい画像を収集するのが好きなのだ。
「もちろん! グルチャの方にも上げとくよ」
男性陣にも見てほしいからと、麻美は笑顔で告げた。
グルチャとは、麻美たちが四人で利用しているグループチャットのことである。遊びの予定をすり合わせるために利用しているのだが、お気に入りの画像を載せることも多々ある。麻美の場合、今回のようにトレッキングの最中に撮影した画像を、帰宅後に載せるのが習慣になっていた。
(これ以外にも、いっぱい写真撮ろうっと)
次はどんな写真を撮ろうかとわくわくしながら考えていると、
「みんな、ちょっとこれを見てくれ」
と、興奮気味の昇が、麻美と玲のもとへやってきた。
少し離れて写真を撮っていた圭祐が合流すると、昇はスマートフォンの画面を三人に差し出した。そこには、一枚の大きな緑色の葉が写し出されている。
「先輩、これは?」
麻美がたずねると、
「ハウチワカエデだよ」
と、興奮冷めやらずといった様子で昇が告げた。
「ハウチワカエデ?」
と、聞き返す圭祐。
聞き慣れない言葉に、麻美と玲も小首をかしげている。
「カエデの種類の一つなんだけど、天狗のうちわに似た大きな葉っぱが特徴なんだ。でも、ここまで大きなものは初めて見たよ」
と、昇は瞳を輝かせながら説明する。
スマートフォンの画面では、実際の大きさはわからない。だが、彼の喜びようを見るに、通常の倍以上の大きさだったのだろうと想像できた。
「それが、ハウチワカエデだっていうのはわかったけど、何でそんなに興奮してるの?」
意味がわからないと首をひねる玲。
「いや、これだけ大きなハウチワカエデがあるなら、
「烏天狗の伝説?」
少年のような昇とは対照的に、圭祐が
「それ知ってる! 昔、山菜採りに来て帰れなくなったおじいさんが烏天狗に助けられたって話でしょ?」
と、麻美が
雪白岳の烏天狗伝説。それは、この周辺に古くから伝わる民間伝承である。
――その昔、雪白岳に山菜を採りに来た老人がいた。山菜取りに夢中になっていて、気がついたら周囲は薄暗くなっていた。生憎、明かりになりそうなものは持っていない。どうしようかと思案していると、背後からガサガサという音が聞こえてきた。振り向いた老人が、警戒しながら声をかけると、一人の烏天狗がそこにいた。
驚いた老人が尻もちをつくと、
「怯えてくれるな。取って食おうというわけではない。明かりが見えたから気になって来てみただけだ」
と、烏天狗が言った。
老人のかたわらに、山菜がたくさん入ったかごがあることに気がついた烏天狗。
「山菜取りか、精が出るな。ここの山菜は美味いからな。ただ、こんな時間までいるのは感心せんぞ」
と、優しく
老人が、家に帰ることができず困っていると告げると、烏天狗は山菜を少し置いて行くことを条件に、老人を山のふもとまで連れて行くと提案する。
その程度ならと、老人が烏天狗の提案を受け、採集した山菜の半分を烏天狗へとわけ与えることにした。
まさか半分もわけてもらえるとは思っていなかった烏天狗は、老人の心遣いに感謝しつつ、老人を彼の家まで送り届けた――。
「伝説は残ってるけど、烏天狗なんて本当はいないんじゃないかって話もあるんだ。口伝で残されてるだけだから、尾ひれがついたんじゃないかってね」
昇がそう言うと、
「えー。そんなの、ちっともロマンがないじゃん!」
そんなものはつまらないと、麻美が口を尖らせる。
麻美は、幼い頃から烏天狗が好きなのだ。もちろん、出会ったことはない。だが、もしかしたら実在するかもしれないという点に、非常に興味を惹かれるのだ。
「もし仮に、本当に烏天狗がいたとして、怖い奴だったらどうすんだよ? 襲われるかもしれないんだぜ?」
そう問う圭祐に、麻美はそんなことはないと断言した。
「もし、烏天狗が怖い存在だったら、人助けしたなんて伝説は残ってないはずでしょ」
だから、襲われることはないはずだと、根拠のない自信で胸を張る。
「烏天狗がいるかどうかの話は、一旦そこまでにしましょ。とりあえず、目的地には行かないとね」
玲の言葉に、麻美、圭祐、昇の三人はほぼ同時にうなずき、目的地の展望台を目指して歩き出した。
風にそよぐ木の葉の音や鳥のさえずりが聞こえる中、しばらく進んでいくと、周囲の木々が背の高いものから低いものへと徐々に変わっていく。頭上を
(あれ? もしかして、雨降ったりする?)
そんな疑問が浮かび、麻美は立ち止まって空を見上げた。
そこには、先ほどまでの青空はなく、どんよりと曇った灰色の空が広がっている。
「清高? どうかしたのか?」
「うん、ちょっと空模様がね……」
圭祐に声をかけられて、麻美はそうあいまいに返事をする。
「単に曇ってるだけじゃね? 天気予報じゃ雨は降らないって言ってたわけだし、たぶん大丈夫だって」
ちらりと空を見上げた圭祐は、明るくそう言って麻美をうながした。駐車場で不穏な発言をしたとは思えない手のひら返しである。
麻美が視線を前に戻すと、先を行く玲と昇とはだいぶ距離が開いていた。
「……うん」
二人の後を追うように歩く圭祐の後ろ姿にそう言うが、麻美は立ち止まったままもう一度空を見上げる。
重たい灰色の空は、今にも泣き出しそうだ。
(お願いだから、帰るまで雨が降りませんように)
曇天に願うと、麻美は三人を追って歩き出した。
数メートルほど進むと、肌に触れる空気が先ほどよりも湿っている感覚があった。そう遅くないうちに、雨が降り始めるのは確実だろう。
嫌な予感に眉根を寄せた麻美は、少し歩くスピードを上げる。だが、舗装されている道ではないから走ることはできない。木の根につまずいたり、わずかな段差に足を取られる危険性があるのだ。
慎重にかつ急いで、三人に合流しようとする麻美。だが、彼女の願いもむなしく、ぽつぽつと降り始めた雨が彼女を濡らしていく。
小さく舌打ちをすると、麻美はスマートフォンを取り出した。電波が届いていることを確認して、グループチャットに『雨、降ってきた!』と書き込む。
数秒後、玲から返信があった。
『降ってきたね。みんな、レインコート持ってきてる?』
彼女の問いかけに、昇と圭祐はもちろんとスタンプで返す。
「えっと……」
と、麻美はバックパックの中を漁る。トレッキングの必需品は、いつもバックパックに入れたままにしているのだ。レインコートも例外ではない。
「……あ! あったあった」
手探りでレインコートを見つけると、麻美は半ば無理やりに取り出した。どうやら、バックパックの底の方にしまい込まれていたらしい。手早くそれを羽織ると、スマートフォンの画面に視線を落とす。麻美を心配する書き込みが三人からあった。
『ごめんごめん、レインコート探しててさ。バックパックに入ってたから着てた』
と書き込むと、あまり間を置かずに『心配させないでよ』と、呆れたような絵文字とともに玲から返信があった。
『ごめんって。で、これからどうする?』
このまま進むか、それとも戻るのか。三人に意見を求めた。どちらにしろ、雨脚が強くなる前に決めなければならない。
『このまま進もう。登山口より展望台の方が近い』
少しの沈黙の後、昇からそんなメッセージが届いた。
自分たちがトレッキングコースのどの辺りにいるのか、詳しいところは地図を見なければわからない。だが、結構な時間を歩いて来たのだ、目的地の方が近いと考えるのは当然だろう。
『了解。遅れててごめん、ペース上げて行くから』
そう書き込むと、麻美はスマートフォンをしまって前を見据える。前を行く圭祐の背中が、いつの間にか小さくなっていた。
(急がなきゃ!)
ポケットで震えるスマートフォンをそのままに、麻美は気合を入れ直して歩き出した。
白糸のような雨は、しとしとと降り続き、木々を濡らし地面に染み込んでいく。
レインコートを着ているとはいえ、濡れねずみになっているような感覚は拭えない。だが、山の天気は変わりやすいし、急な雨には慣れているからあまり不快ではなかった。ただ、自分が遅れているせいで、三人に迷惑がかかってしまうと考えると申し訳ない気持ちになる。
「――っ!?」
声にならない悲鳴を上げて、麻美は前のめりに転んでしまった。焦りと地面のぬかるみのために、足を滑らせてしまったのだ。とっさに手をついたが、その勢いは殺しきれずに地面に倒れ伏す。
「いってて……」
小さくつぶやいて起き上がる。しびれるような痛みに手のひらを見ると、わずかに傷跡があった。どうやら、手をついた時にすりむいたらしい。
「とりあえず、消毒しなきゃ」
その場に座り込んだ麻美がバックパックから携帯型救急セットを取り出そうとした瞬間、雨の勢いが一気に増した。
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