第18話「沈黙の戦い」

寒さの残る春の朝。目覚まし時計の音もなく、自然と目が覚める。


 影宮里香──十五歳。


 目を開けて最初に飛び込んでくるのは、天井の古びた染み。

 鉄骨造の団地。壁は薄く、隣の咳払いまで聞こえてくる。冬には隙間風が入り、夏には熱がこもる。エアコンは壊れて久しい。


 母と二人暮らし。母は朝から夜まで、パートを掛け持ちして働いている。朝に顔を合わせることはほとんどない。代わりに、いつもテーブルにはメモと、冷蔵庫に作り置きのご飯が残されている。


『ごめんね、今日も遅いと思う。ちゃんと食べて、無理しないで』


 あたたかいのに、申し訳なさそうな文字。

 里香はそれを見て、毎朝きゅっと胸が締めつけられる。


「……大丈夫、私が頑張るから」


 高校に進学するか、すぐ働くか、迷った末に選んだのは「探索者」という道。

 短時間で高収入──そう謳われる広告を信じて登録した。

 けれど、現実は違った。


 初めてダンジョンを目にしたとき、足がすくんで動けなかった。冷たい空気、漂う血の匂い、協会職員の説明すら耳に入らず、ただただ恐怖が支配した。


 それでも、母にこれ以上負担をかけたくなかった。自分が稼げれば、少しでも生活が楽になる。制服を買い替える余裕だって、生まれるかもしれない。


 怖くてたまらないけど、諦めたくなかった。


 そして昨日、あの人と出会った。


 仮面の奥に光る瞳。冷たくて、それでもどこか、あたたかい。

 危険も、理不尽も、すべて理解した上で、それでも私の手を取ってくれた。


 影宮里香は、昨日初めてモンスターを倒した。小さな勝利だった。でも、心の奥が震えるような喜びを感じた。


 帰宅後、母の寝顔を見ながら、涙が止まらなかった。


 だから、今日もダンジョンへ行く。

 怯えても、怖くても、逃げたくない。


 冷たい水で顔を洗い、制服に着替え、痩せた鞄を背負って家を出る。


 この足が向かうのは、昨日よりも少しだけ強くなった自分。


 そして、信じたい未来。


* * *


 教室のざわめきは、いつもとは違った熱を帯びていた。


「なあ聞いたか? また別の学校で、探索者デビューしたやつがいるってよ」

「昨日も誰かがモンスター倒したって。SNSで動画回ってた」

「うちの学校にも、もう何人か登録してるらしいぜ」


 澪は静かに自分の席につきながら、その話題に耳を傾けていた。

 探索者。つい最近までは都市伝説のように囁かれていた言葉が、今や日常の一部になりつつある。


「澪ちゃんは? ダンジョンとか興味ないの?」


 クラスメイトの何気ない質問に、澪は微笑むだけで答えず、教科書を開いた。


(興味、ないってわけじゃない。でも……今は、言えない)


 仮面を外した日常と、戦いの中にある非日常。

 澪の中で、二つの世界は確かに重なりながらも、交わることはなかった。


 やがてHRの時間になると、担任が前に立ち、探索者制度について改めて口を開いた。


「最近、探索者登録する生徒が増えているが……しっかり聞けよ。まず、未成年が登録するには保護者の同意が必要だ。それから、学業との両立ができない者には、協会からの資格停止処分もある。最優先すべきは、学校生活と進学だ」


 静まり返る教室。


「面白半分で登録するようなもんじゃない。命あっての人生だ。よく考えて行動すること」


 担任の言葉が、教室の空気をさらに重くする。


 澪は少しだけ目を伏せた。


 ──誰よりも、その意味を知っている。


 それでも、澪は何も言わず、ただ日常の仮面をかぶり続けた。


放課後、澪の携帯に連絡が入った。

 差出人は──千堂葵。


『東南アジアの小島でスタンピードが発生。国際部隊が対応中。日本にはまだ要請はないが、情勢は不安定。引き続き、探索者としてダンジョンへ潜り、現地の変化を報告せよ』


 短くも、緊張感をはらんだ命令。


 澪はそれを読み、制服のまま協会へと足を向ける前に、ある少女との約束を思い出す。


 ──影宮里香。


 ダンジョンの前で彼女と再び落ち合った澪は、軽くうなずき、再び声をかけた。

「約束通り来たわね。…行こう、無理はしないように」


 里香は緊張しながらも、頷く。その小さな決意に澪はわずかに目を細めた。


『──すべてを救おうとは思うな。我の綾里も、それで命を落としたのだ。』


 天霜祀神(アマシモツカミ)の声が、再び澪の胸奥に囁いた。


『お前はまだ若い。全ての災厄に手を差し伸べれば、いずれ燃え尽きよう。守るべきものを見誤るな。』


 澪はわずかに唇を引き結ぶ。「……わかってる」


 すべてを救えなくても、自分にできる範囲で、誰かを支える。

 そのために──今は、前へ進む。


 澪と影宮里香は、二人で再びダンジョンの入り口をくぐった。


 今日の目的は、里香のスキル精度の向上。斥候としての基礎の確認、そして実践。


 澪は戦闘中も細かく助言を与え、時に実演して見せる。「不用意に間合いに入るな、視線を切るな」「腰の重心が甘い、次は後ろを取られる」


 里香は緊張しながらも、前より確実に動けるようになっていた。

そして、次の戦闘。  小型のゴブリンを一体発見した里香は、即座に草木の影に身を隠しながら静かに距離を詰めていく。


 ──スキル発動気配遮断


 気配が霧のように消えゴブリンの鼻先をすり抜ける。短剣を両手に握りしめ、緊張で指先が汗ばむ。


 息を殺し気配を読まれぬよう背後に回り込む。

 次の瞬間、渾身の力で──喉元へ、鋭く突き立てた。


 ゴブリンは声をあげる間もな、崩れ落ちる。


「……やった」


 まだ震える指。けれど確かに自分の力で勝ち取った勝利。


 澪は少し離れた場所からその様子を見守り、静かに頷いた。

「少しずつ、進めばいい」


 影宮里香は初めて自分だけの力で命を刈り取ったのだった。

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