第13話「氷神、目醒めと代償」

――氷の嵐が、世界を包んでいた。


ボスの咆哮が轟いた瞬間、澪の身体から吹き出した魔力は狂気じみた冷気となり、ダンジョンの空間すら歪めていた。刀を握る手も、意識も――もう澪のものではなかった。


その身は、氷そのものと化し、意思なき神のごとく、周囲を拒絶していた。


巨大なボス――多腕の獣魔は氷の神気を前に、抗う間もなく凍りつき、やがて砕け散った。


戦いは、終わった。


だが、暴走は終わらなかった。


ダンジョン深部の空間そのものが氷に浸食されていく。天井から垂れる氷柱、地面を覆う白霜。魔物の死骸すら、氷像のように美しく変貌していた。


その中心で、澪は氷の玉座に座るように静止していた。白銀の髪、冷たく澄んだ瞳。彼女の周囲では、触れようとするものすべてが拒絶される――生きている者も、魔法すらも、近づくことができない。


「……氷華、応答して」


ダンジョンゲートが再び開き、特殊戦闘部隊が突入してくる。その先頭に立つのは、千堂葵。顔に焦りの色を浮かべながら、澪の名を呼んだ。


「澪! 私よ、葵よ!」


だが、その声は届かない。氷神に憑かれた澪の耳には、人の声はもはや意味を成さなかった。


隊員が一人、様子を見ようと近づいた瞬間、氷の棘が突如として地面から突き上がり、彼の脚をかすめた。


「退避! これ以上の接近は危険だ!」


葵は叫び、全隊に後退を命じた。だが、その瞳は澪から決して離れない。


(あなたは、こんなところで終わる人間じゃない……)


――その時。


氷の奥底で眠っていた澪の意識が、かすかに震えた。


(……葵……?)


彼女の声が、凍りついた精神のどこかで、確かに響いた。


だが、その瞬間、別の意志がそれを押し潰す。


『不要な感情だ。』


澪の意識に語りかけてきたのは、氷神。


女神の姿――白銀の衣に身を包み、長く揺れる氷の髪。冷たく美しい瞳が、澪を見下ろしていた。


『力を求めたのは、そなたであろう? ならば代償を払うは当然』


(私が、望んだから……)


『我はおまえを、守るために力を与えた。それがそなたの自我を侵すことになると、なぜ理解できぬ』


氷神の声は冷たくも優しく、怒りはなかった。あるのは、ただ純粋な“所有欲”と、“孤独”。


『我は長きにわたり人間を見守ってきた。愚かしく、だが愛すべき存在。 そして、おまえ――澪。 我の力に最も適合する者。 長く、ずっと……見ていた』


(……そんな……私を?)


『そなたの成長、戦い、悩み、すべて……見ていた。我に応えたのは、嬉しかった。だが……』


その瞳が、一瞬だけ悲しみを宿す。


『あの女……葵とかいう女が、おまえに干渉するのは……我、好かぬ』


澪の心臓が跳ねた。


(まさか……嫉妬、してるの?)


『我は、そなたを誰にも渡したくない。我だけを見ていてほしいのだ。おまえが我を呼び出したのに……不要なのか? もう……いらない存在なのか?』


氷神の声がかすれ、目が潤む。氷でできた女神の瞳に、涙が浮かぶ幻想。


『我は……我は、おまえに必要とされたいだけなのに……』


(……違う、違うよ。必要だよ、あなたがいなければ私は……)


『嘘つき……』


澪は胸を締め付けられるような痛みを感じながら、氷神へ手を伸ばす。


(ごめん……ごめんね、私の言葉が足りなかった。あなたがいたから、私は今ここにいる。だから……)


その瞬間、氷神の表情が一転した。


『……我はそなたに傷つけられても、そなたを傷つけることはできぬ。愛しているから。だから、もう誰にも触れさせぬ。我の澪……我の愛し子よ……』


瞳は狂おしいほどの愛情に染まり、声は甘く溶けるような熱を帯びていた。


『澪は我だけを見ていればよい。葵など……我が氷に葬ってやろうか』


(ダメ……そんなこと、言わないで……)


『……妬ましいのだ。そなたの心が我以外に向くことが……耐えられぬ』


澪は再び氷神に向き合い、そっと微笑んだ。


(私は、あなたを拒んでるんじゃない。あなたがいてくれるから、強くなれる。でも、私は私として、生きたいんだ)


『……我の澪は、優しすぎる』


氷神はそっと澪の髪を撫でた。


『良い。今は、引こう。だが忘れるな、澪。そなたが望めば、いつでも我は現れる。そして……そなたを誰よりも強く、冷たく、美しく守ろう』


そして、その言葉を最後に、氷神の姿は澪の内側へと引いていった。


外の世界。


澪の氷が、ほんのわずかに揺らいだ。


葵は、その兆しを見逃さなかった。


「澪……!」


凍てつく檻の中心で、澪の瞳が微かに揺れていた――。

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