#12 兄妹契約


☆─新四谷玲視点─☆


 自室に戻って最初にやったことは兄の写真を破ることだった。


「ムカつくムカつくムカつく……!!」


 思い出しただけでも腹が煮えたぎって、十二指腸が茹で上がりそう!

 まったく感情の奔流が収まらないんだけど……!!


 ああもうあのクソ兄貴、本当に腹が立つ!

 忘れたとかありえないんだけど!!

 なのに悪びれもしない顔に一発叩き込んでおけばよかった!


 感情のまま兄の写真がぐちゃぐちゃになる。つい最近補充したばかりだから、机の引き出しにはまだ兄と仲良かった頃に撮った写真が何十枚も仕舞われている。

 思い出を引き裂くように毎日写真を破くのは私の日課だった。

 兄を嫌うための手法として始めた、ある種の願掛けのようなこの行為。

 実際嫌いにはなれた。兄との関係は気付いた頃には険悪で。

 でも絶対じゃなかった。

 ちょっとの衝撃で解けてしまう程度のものだったんだ。


「はあ……」


 自分でも驚くくらい深い吐息が漏れた。

 中学に入ったばかりの兄の写真。

 まだあどけなさを残しつつも、スマホを構える私に向けて困ったような笑みをする兄。

 激情は去り、その代わりについ過去を思い出してしまう。

 でも私にとってそれはパンドラの箱だ。

 自己嫌悪で身が引き裂かれそうになって、兄の写真を破こうと力を込める。

 ……もう破っても仕方ないのに。

 写真がそのまま床にはらりと落ちる。勉強机の影が兄の顔に降りかかる。


 中学一年生の春。

 学生生活の始まりと兄妹関係の終わり。

 二つのマイルストーンが交錯して、歪になって、ぐちゃぐちゃになって。


 そうして生み出された明確な結論がただ一つ。

 あまりに残酷で、どうしようもなくて、呼吸が浅くなって、肺から酸素が抜けて行って、脳裏が白く強烈な光でチカチカと明滅しそうになるくらい、私に不都合なこの世の事実。


 ───全部全部、私が勇気を出さなければ良かっただけの話だったんだ。







★───★







 当時の兄は私にとってヒーローだった。


「ったく、あいつらすぐ玲を揶揄うんだよな……大丈夫だったか?」

「う、うん」


 小学校の頃、私は気弱な方でよく男子から弄られてはふらっと現れた兄に毎回助けられていた。


 きっと兄は妹である私を意識的に守ってくれていた。昔から兄は妹は守るべきものみたいな、そういう考え方が強かったように思える。

 それが嬉しく、眩しくて。

 私の前にはいつも頼りがいがあって優しい兄がいた。

 その姿をずっと見ていた私が、兄のような人と結婚したいと幼心ながらに思うのは仕方がなかったことなのだろう。


 微かな憧憬はいつしか淡い恋心に転化して、気付けば兄のことばかり目で追うようになったのが小学生高学年の頃。

 兄妹という事情もあってクラスが同じになるわけでもないのに毎年クラス替えの時は兄と同じクラスになれるよう神社でなけなしのお小遣いを投じて神頼みをしたりもした。それが叶うことはなくて、次の日、腹いせに賽銭箱へ石を投げ入れるなんて馬鹿な真似をしちゃうくらいには私は兄に惹かれていた。


 そんな兄への感情は萎むことを知らず、中学一年の春が来た。

 新しい桜と、微妙にダサい制服を着こんだ私と兄はそのまま予想通りに別々のクラスへと振り分けられて中学生活が始まった。

 ……でも私は不安だった。

 新学期特有のナイーブさに精神の安定を崩しかけていた私は絶対を欲した。

 絶対というのは要するに不変。

 過ぎていく時間に変わりゆく環境に対して楔を打つための、変わらない何か。


 それを私は兄との思い出に求めた。

 兄との確固たる兄妹関係に求めた。

 いや……分かってた。

 この気持ちが兄妹関係なんかに留まるわけがない。

 一度言ってしまえば最後、私でもどこまで吐き出すか分からない。


 それでも私は選んでしまった。

 さりげない会話の中に混ぜ込む程度の、最後の理性だけはあった私はその言葉を日常会話に紛れ込ませることでその絶対を手にしようとした。

 

「あのさ……妹と結婚ってどう思う? 私その……アリだと思うんだけどさ……」


 放課後に一緒に下校している最中に私はついに脈絡も無く口火を切った。

 今思うと迂遠にもほどがあるこの言葉だけど、その時の私にとっては開戦の火蓋を切って落とすのと同義で、兄の判断一つで死すら覚悟していた。

 兄は不思議そうな目をしながらも笑って言った。


「無いだろ。妹と結婚なんかあり得ねえって、恋愛漫画の読みすぎだぞ玲」


 冗談だと思われた。

 間違いなく茶化すように言い放ったのだ。

 それが溜まらず悲しくて、でも私は何も言わなかった。いや、言えなかった。

 兄妹でそういう感情を抱く非倫理感は分かっていた。直感的に良くないよねとも思っていた。

 そういう意味で兄の言葉は真実だ。この社会の規範だ。

 だからこそ恋心を無碍にされた悲壮感を自分の中に閉じ込めて、兄の逃げるような発言を私は何も言わず鵜呑みにした。兄の言葉に浅く頷いた。

 心の奥底にこの想いを仕舞いこもうって強く考えたんだ。


 でも、それからというものの兄は私を避けるようになった。

 平日は登下校を共にして、土日も何処に行くにしても二人手を繋いで遊んでいたような仲良し兄妹だった私たちは、兄の一人行動が増えたことで徐々に一人でいる機会が増えた。

 最初は告白が原因だと思って後悔した。関係性を変えてしまったのだと。告白を受けて距離感を空けたのだと。それは無理も無いなって私も思った。恋愛の敗戦処理はそういうものだとドラマとか少女漫画で子供ながらに私は理解していたから。


 どうにか兄の気を引こうと思った。恋とは関係なく、兄との関係性を断絶したくなかった。

 奥手な私じゃ直接的な手段を講ずるのは難しかったから、妹に関心を向けるように仕向けた。ドラマもメインキャラで妹が出てくるものをリビングで良く観てたし、さりげなく親に買ってもらった雑誌も妹っぽい印象のモデルが載った表紙のものを兄の目に付くところに置いた。妹を恋愛対象とする小説なんてものもあったから買って兄の部屋にこっそり配置したりもした。後で知ったことだけどそれはライトノベルというジャンルの小説だったらしい。最近本屋で見て、過去の私はどうかしていたと思った。

 

 そうやって対策を取り始めてから暫くして、私はそれが誤解であることを知った。


「お前最近彼女と一緒じゃないよな~。別れたの?」

「妹だ! 彼女じゃねえっての。いつも一緒の訳が無いだろ、兄妹だぞ?」


 偶然学校の昼休みに廊下で話す兄とそのクラスメイトの会話を盗み聞いて、頭が真っ白になった。同時に私がこれまで大事に磨き上げてきた宝石に罅が入った気分になった。

 

 兄は恐らく思春期だった。男友達に揶揄われて恥ずかしいと、それだけの理由で私から距離を取った。私達の15年に及ぶ兄妹関係を否定した。関係性を壊した。私よりもたかが教室が同じだけのクラスメイトを兄は優先したのだ。その事実に気付いた時の私の絶望感と失望感は語る術も無い。とにかく胸にぽっかりと穴が開いたような感覚。


 塞ぎ込もうかと思った。兄を問い詰めようかと思った。親に相談しようかと思った。

 でも全部しなかった。

 代わりにじくじくと胸の隙間から沁み出してきたこの感情に身を任せることに私は決めた。それが一番良いと思ったから。

 思えばそれは憎悪の念ってやつだ。

 兄への好意が反転して、私の中で業火となった。


 中学二年生辺りから私は兄と徹底的に決別した。

 兄の話を無視して、兄の誘いを断って、思い付く限りの悪口も言って。


 でも時折兄とのあの取り戻せない過去を思い出して、過去と現在を比べては死にたくなる瞬間もやってきた。勿論本気でそう思ったわけじゃないけど、心臓を木っ端微塵にしたくなったのは事実で。


 そんな時に部屋の中に飾っていた兄の写真を見つけた。兄妹仲が良かった頃の写真。こんなことになってもどうしても破棄することが出来なかったあの頃の象徴。


 それを破り捨てれば───私は過去を本当の意味で決別できるのでは?


 私は試しに一枚、破ってみた。心が悲鳴を上げるその代わりに、不思議と兄への嫌悪感が湧いてきた。

 これだ。

 今の私に必要な感情は。

 中途半端な"嫌い"は私にとって毒で、やるなら徹頭徹尾嫌いにならないと。

 そうじゃないと私が救われない。

 私は兄から解放されない。


 そうだ。そうだよ。

 このままじゃ駄目なんだ。

 兄は私がいなくても普通に過ごしている。私もそうじゃなきゃダメだ。兄妹と言っても突き詰めれば他人だ。数年後、成人してしまえばお互いに居を別にして、全く縁も所縁も無い相手と結婚して私たちは家庭を持つ。

 ……正直まだ想像も難しいけど、その未来が確定事項になるのは分かる。


 だから私はこのままじゃダメだ。

 少なくとも兄が好きな妹だなんて異常で、良くないんだ。

 殺し切らないと。私の想いも過去も、その全てを炎に焚べて、天まで高く伸びる黒煙にして、私は新しい私になる。


 そうやって私は兄を嫌うことに成功していた。

 兄を見る度に殺したいと思った。なんで同じ家にいるんだと思った。時折話しかけてくれば無視した。高校に入学して少し、両親がどっちも長期出張になった時には俺が家事をやるとか言い出して今更優しくするなと思った。全部全部嫌いで最悪だった。兄の姿なんて見たくない。直視したら私の心が痛むから。だから部屋に籠るし、家には遅くまで帰らず兄の足跡すら見ない生活を心掛けた。


 兄が外で見知らぬ女の人と仲睦まじげに街を歩いている様子を見たのは、そんな生活が安定してきたときだった。

 金髪で少し派手な装いをしていた女は兄と手を繋いで、気心知れたような表情で兄に笑いかけていた。後から分かったけど、その時はなぜかその女に既視感を覚えた。従姉だから当然だ。親戚の集まりにほぼ来ないし、前見た時は黒髪だったからすぐにピンと来なかったのはしょうがないと我ながら思う。


 ともかく、すぐさまそれが兄の彼女だと私は思った。彼女以外に有り得ない。手を繋ぐなんて、兄妹でもなければカップルくらいしかやらない仕草だ。


 その推察に到達した途端、私の心は左右に巨大な力で引き裂かれそうになる。

 痛い。分からないけどとても痛い。目を抉られるかのような、心臓をじりじりと痛めつけられるような気分。最悪だ。


 でも何で?

 兄に彼女が居ようが居まいが私には関係ない話じゃん。嫌いな奴の恋愛事情なんてどうでもいいでしょ。どうぞご勝手にどうぞ。

 理性がそう主張するのに対して私の感情面が痛みで抵抗する。お前は間違ってる、そう言いたげに深層心理が殴りかかってくる。

 そして遂には一部屈服する形で兄の身辺を調べることにした。どうでも良いけど、興味が無いかと言われれば少しはあるからと自分に言い訳をして。


 兄が居ないタイミングで兄のバイト先のコンビニに行って西平という人と話した。兄が最近潤戸さんという人と仲が良いことを知った。それと同時に、彼女が従姉であると言う情報も得た。

 兄のクラスにも行った。そこでは特にめぼしい収穫は無かった。精々分かったのはクラスに馴染んでこそいるものの、友人と言える友人がいなそうってことくらい。あと兄の後ろの女子生徒……確か去年一緒のクラスだった小宮さんだったか、と偶に話しているところを見るくらい。ただクラスメイト同士の雑談って感じで特段意味は無さそうだったから私からすればどうでもいい。兄の日常生活に興味なんてないんだ私は。


 更に兄の放課後も目で追った。放課後の多くは潤戸さんとのデートで消費されていることが分かった。仲が良い……なんて言葉で片付けることはもう出来ない。やっぱりデートだ。これはカップル同士なんだ。また理性に反して心がズキンと疼いた。


 兄を観察して得た事実を組み合わせれば、やっぱり兄は潤戸さんと付き合っているんだろう。

 血の繫がりはあるけど法的には問題はない。従姉だから。兄妹じゃないから。

 ……異常にムカつく。

 兄のことなんて嫌いなのにいつも以上に腹が立つ。

 でも一番腹が立つのは、普段なら理性でコントロールできるはずの嫌悪感が、今回に限って私の管理下に無いこと。まるで私が未練がましいみたいじゃん。あのクソ兄貴に。


 そんなことを思いながら迎えた体育祭。

 足を挫いた私にアイツは優しく接してきた。助けられた。

 あれだけ私に嫌われて、無視されて、それでもアイツは私から逃げなかったんだ。

 それが何だか無性に悔しい。

 思えばアイツは表面上は言い返してくるけど、根っこでは私を妹だと思っている。守る対象として認識している。


 ……それを考えたらさ。

 なんだか、私が負けたみたいじゃん。

 私の方が逃げてるじゃん。

 色々と感情的に理由を纏わりつかせても、結局私は本心を直視出来なかった。正面から向き合えなかった。不器用すぎて失笑する。


 自覚はしてるんだ私。

 私の根っこは同じだ。昔と変わらない。見えなくなったふりをしてたけど。


 だけどその気持ちを隠蔽しなくてはならないことには変わりはない。

 兄が気付いていないのだとしたら誤魔化さなきゃならない。

 その上でこの関係性を変える必要も無い。

 だから私は私を無視する。


「玲、さっきの続きの話をさせてくれ」


 扉の外から兄の声。いつもよりほんの少し穏やかで、こちらの機嫌を気に掛ける声。

 私は口角が天に引っ張られるのを我慢して、無愛想に言う。


「話すことなんてもうないんだけど」

「俺、玲の言葉を思い出したかもしれない」

「は……?」

「昔確かにさ、好きとか何とか言われた……よな俺? その時は気恥ずかしかったから誤魔化したかもだが……」


 頭の中で用意していた言葉が透明になって消える。


 まさか覚えて…………いや。


 多分だけど、完全に思い出したわけじゃないみたい。

 でもあの時私が伝えた告白のニュアンスだけは兄の記憶にも残っていたってこと?


「なに言ってんの?」

「あの時の俺は多分何も言えなかったか……それかはぐらかしたからな。すまなかった」

「今更なにを……」

「だから改めて言うぞ。お前はとんでもなく手がかかる妹だが、それでも俺はお前のことを妹として好きだ」


 その兄の言葉が私の心に踏み入ろうとする刹那、私はシャットアウトする。心と外界を遮断する。

 今更だ。今更すぎる。


「嘘言わないでよ。どこに私を好きになる要素があるっていうの」

「確かにお前には心底イライラさせられることも多い。クソ生意気で唯我独尊、爆発しろと思うことも毎日だ」

「なら好きなんてことを言わないで!」

「───だがな、俺にとっては妹ってのはそういうもんなんだよ。手が掛かって当然だ。俺はお前のことを嫌いになったことはないんだぜ、玲」


 あれだけ毒を言われて?

 散々無視されて?

 ゴキブリ同様の扱いを受けて?

 それで嫌いにならなかった?


「そ、そんなの……嘘だ!」

「嘘じゃない」

「嘘でしょ嘘、私に取り入るための薄っぺらい嘘!」

「だから嘘じゃない。完全に嫌いなら家事とかやんねえだろ、多分」

「う、嘘……私が好きなんじゃなくて妹という概念が好きなだけ」

「それは否定できない」

「否定してよ!」

「お前はなんなんださっきから……」


 声音からして、やらやれという表情をして頭を振っているような気がして少しイラっと来た。

 でもそれ以上に……困惑。

 私はどうすればいいんだろう?


 兄のことは嫌い……じゃない。

 だけど今更それを表に出して、お兄ちゃんの背を追いかける妹にはなれない。淡く灯る恋心だってそうだ。こんな不純物を外に出すべきじゃない。

 これは仕舞っとくべきものだ。

 その意見に変わりはない。


 しかし、潤戸さんに兄を取られたくないという気持ちもそこにはある。

 だって私の兄だ。潤戸さんの兄は別にいる。恋人という立場ならまだ1万歩……いや、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議レベルで譲ってもいいけど、あの人は妹という私だけに許された私だけのポジションを掠奪しようとしてきている。嫌いだ。嫌い嫌い。大っ嫌い。


 潤戸さんのことを考えれば考えるほど、兄に今まで抱いていた感情とは全く別種の黒い感情が胸から溢れ出してくる。

 だっておかしいじゃん。

 理想の兄? 理想の妹?

 そのために従姉が妹になる?

 頭悪いんじゃないの?


 でも二人は本気でやっているというのも今日話してみて分かった。

 本気なんだ。

 少なくとも潤戸さんは本気で妹に成りにきている。家族でもない癖に。私のこの想いなんて知らない癖に。

 ほんっとずるい。

 他人の癖に妹を名乗ろうだなんて卑怯だ。

 それで好きになったらきっと、付き合って、結婚して、子供作って、生涯寄り添おうだとか甘い将来像を考えるに違いない。何なんだ、あの女は。


 もう嫌悪とか憎悪とかどうでもいい。

 私はもう少し自分の気持ちに正直であるべきなんだ。

 我慢して我慢して、その先にあるものが妹の座の陥落だとするならば───そんな都合良すぎる関係性、私が認めてやらない。


「ねえ……ちょっと話あるんだけど」

「なんだよ? つか今日何回言うんだよそれ」

「うるさい。それより……さ」


 私は大きく息を吸った。ドア越しに感じる温もりで全身を弛緩させて、吸った息を静かに吐いた。


「───兄妹契約、私とも結ばない?」


 言ってやった。

 きっとドア越しに唖然としているだろう兄に向って私は舌を出した。

 絶対に妹の座を他人には譲ってやらない。


 そこは私の場所だ。

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