第10話 始まりの朝

“過去は消えない。なら前を見て楽しく。”ね。


──そう、きっぱりと言われた。

まるで、それを待っていたかのように。

実際、その言葉は驚くほどあっさりと、胸に落ちた。


「簡単に言うなよ。この二年、何も考えなかったと思うか? 簡単には変われないんだよ」


「……そうだな」


慎太郎は、一瞬だけ寂しげに目を伏せ、

けれど、すぐに静かに続けた。


「でも。変わろうとすることはできる。

それに、今回は──1人じゃない」


その言葉と一緒に、ヴァイオリンのケースが差し出された。

視線を落とし、手にしたそれを見つめる。

ゆっくりと顔を上げると──


慎太郎は、まっすぐに、余計な色を纏わず、ただ俺を見ていた。


その瞬間、気づかされる。

──ああ、目を逸らしていたのは、俺のほうだったのか。

少なくとも、こいつは、俺を見てくれていた。


誰も、俺を見てくれない。

誰も、助けてくれない。

そう決めつけて、殻に閉じこもり、

“他人”に線を引いてきたのは──俺自身だ。


過去を乗り越えられるかなんて、わからない。

けれど、こんな近くに、俺を見てくれている人がいた。

俺の音を、まだ聞いてくれる人が──確かに、いたんだ。


冷え切っていた心に、少しずつ。

けれど、確かに。

温かい水滴が、静かに染み込んでくる。


恵は、そっと手を伸ばし、

慎太郎の手から、ヴァイオリンを受け取った。



二人は、皆のいる場所へと戻った。

すると、何やら人が集まっていて、騒がしかった。


「おーい!」


こちらに気づいたのか、皆が手を振ってくる。

どうやら、簡易的にステージを作っていたらしく、

僕らを待っていたようだった。


「弾くんだろ?」


慎太郎が、隣で問いかけてくる。

──やられた、と思いつつも、不思議と嫌な気はしなかった。


「しょうがないな」


軽くほくそ笑みながら、そう答えた。


「只今より、葛城恵によるヴァイオリン演奏が始まります──」


拡張機から、洸平の声が流れる。

「何してんだよ」と思いながらも、思わず2人で笑った。


慎太郎が、背中を優しく押す。


「何を弾く? みんな、待ってんぞ」


「もう、決まってる」


恵は、頼もしげに、はっきりとした声でそう答え、

小走りでステージへと駆けていった。



ステージへと向かう間、恵は静かに弓を握った。


手の中にある、この懐かしい感触。

──どれだけ遠ざかっていたのだろう。

それでも、不思議と、怖くはなかった。


むしろ、心の奥底から、何かがじんわりと湧き上がってくる。



ステージに立つと、簡素なライトが恵を照らす。

その光の中で、恵は静かに一礼した。

客席に、皆の顔が並んでいるのが見えた。


恵は、一度、深く息を吸い込む。

胸いっぱいに、空気を満たす。

呼吸とともに、心のざわつきが、少しずつ静まっていく。


──もう、大丈夫だ。


弓を構えた。

指先に、力を込める。

そして──


静寂の中で、最初の一音が、そっと響いた。



ゆっくりとした曲調から始まる、

まるで朝日を感じさせるような旋律。


“パッヘルベル:カノン”


音は、澄んでいて、穏やかで。

けれど、どこか懐かしく、胸の奥をそっとくすぐる。


恵は、目を閉じた。


ただ、音に身を委ねる。

そして、心のままに、指を動かす。


──ああ、これから始まるんだ。

その想いだけが、音となって溢れていく。


朝焼けのような旋律が、広がっていく。

澄んだ水面に、静かに広がる波紋のように。

冷えた心を、そっと、優しく包み込んでいく。


観客席で、慎太郎が、微かに目を見張った。

洸平も、思わず口元を緩める。

志穂は、何も言わずに、目を細めて──ただ、聴いていた。


「……楽しそうに、弾くなぁ」


誰かが、ぽつりと呟いた。

その言葉に、隣の誰かが頷く。


──これが、葛城恵の、本当の音。


さっきの、魔王のような“支配”の音ではなく、

静かで、温かい。そんな音だった。


心地いい──。


演奏は、静かに続いていく。



そして、その音色に包まれながら、恵の心にも

ある想いが、芽生え始めていた。


──あぁ、これが俺か。


弓を滑らせながら、心の奥で、ふと呟いた。


──幸せだった、あの頃を思い出すたびに、今が辛くなった。

だから、押し殺した。


忘れようとして、無かったことにしようとして、

今の自分こそ“本当”だと、言い聞かせた。


──でも。


“本当の自分”って、なんだ?

あの頃の俺も、今の俺も──

どちらも、嘘じゃない。


逃げたことも、諦めたことも、

こうして、また音を奏でていることも。


全部──俺なんだ。


──あぁ、信じてもいいのかな。

失ったものが、すべてじゃない。

俺にはまだ、何かを奏でることができる。

何かを感じて、何かを届けることができる。


なら、もう一度──。


信じてみたい。

もし、まだ誰かが、

見てくれているのなら。

聞いてくれているのなら──。


まだ、間に合うのかな。


……でも、そんな想いも、すべて。

このメロディに、込めて──。

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