【さよなら世界】

 風が大きくなる。

 ぱさついたわたしの髪が、上空に引っ張られるほどの力強さだ。

 舞い上がる日がそこまで迫っていて、わたしは今ここにいるのだと実感する。


「わたしにできることは」


 ガラクタの山の上で、わたしは呟いた。

 隠された庭で起きているのは、化け物たちによる一方的な蹂躙。生死の狭間で風を気にしている者はいない。

 ダルマの咆哮や、刃と刃が交じり合う金属音。人と人がぶつかる音。次第に強まる風に音が飲み込まれて行くのを知っているのは恐らく自分だけだろう。


「やってみる、じゃない。絶対にやらないとだめだ」


 マドンナとスミが襲い掛かって来た侵入者を蹴散らしていく。頼もしい背中の元から抜け出したわたしは、宮路と都司がいる方向へ走った。

 もう目と鼻の先だ。

 暗いけど、まだ見える。まだ走れる。そう思っていたら地面に足を取られた。足に絡まったものを必死に解いて、起き上がる。


「ちょうどいいや」


 風はわたしを鼓舞するように勢いを増す。これが追い風というものかもしれない。足が軽くて、思ったよりもずっと早く宮路のもとまで辿り着いてしまった。だからもう後戻りはできない。

 暗い中でも宮路の赤い目はよく見えた。人間離れしたその目がわたしを捕えると、柔らかく緩んだ。


「また会うたなあ」

「うん」

「で、それで何するん?」

「終わらそうと思って」


 宮路は意地悪そうに鼻で笑ってから、わたしの真後ろに目を向けた。


「お前の姉ちゃんはそう言ってるけど?」


 わたしの肩に手が置かれる。振り向くことはしなかったけれど、名前を呼んだらひくりと震えたのが伝わってきたから誰だか分かる。

 呼吸を整えて、風を待つ。タイミングなんて分かるはずもないから勘でしかないのだけれど。


「小町!」


 その時、風を引き裂くようなスミの声がして、思わず振り返ってしまった。


「スミ」

「こっちへ来い、早く!」


 伸ばされたスミの手が空を切るのを見た。

 わたしは少しでも良い顔でいたくて、にいっと口角を上げた。


「ごめん、スミ。あとさ、ありがとう。スミがいたからこの世界を好きになったよ」


 今だ、とわたしの勘が告げる。

 足元が浮く感覚。わたしは咄嗟に宮路に抱き着き、片手に握り締めていたロープを自分もろとも巻き付けた。それから都司の手を掴む。

 風がわたしを地上に帰そうとするから身を委ねた。

 どんどん地面が遠ざかって行く。スミの顔はあっという間に見えなくなった。

 これで本当に良かったのか、スミたちを助けることができたのかも分からない。ただ、抵抗しない宮路がここにいることが全てだった。


「あっついなあ、これは無理やわ」


 蛍石がもうそこまで迫ってきている。そんな中、宮路が呟いた。

 わたしが聞き返すよりも先に、宮路の体が突然ぼうっと燃え出した。


「姉ちゃん、ロープを外せ! 巻き込まれる!」


 焦った都司がわたしの手を離してロープを引っ掴む。

 ただただ熱かった。視界の端に映るのは、炎を纏った黒い塊がぼろぼろと砕け落ちていく光景。それが宮路の一部だと理解した時には、もう宮路はいなかった。ロープを解いてくれた都司に抱きしめられながら、わたしは地底界から去った。


 わたしは宮路ではないから、どんなに考えたって彼の気持ちが分かることは無いだろう。それでも、何の力も持たないわたしに抵抗することなく身を委ね死んでいった彼のほんの一欠けらだけは、何となく分かった気になった。


「急に、全部怖くなったんだ」


 地上に戻って来た後、都司は項垂れながらそう零した。

 宮路にも恐怖があったのかもしれない、と思ったのだ。地底界を終わらそうと決めた覚悟を上回るほどの。それは例えば人を逸脱した自分に対してかもしれないし、自分を殺そうとしてくる地底人へ対して感じたものかもしれない。

 他人の考えなんて、永遠に答え合わせなんてできないものだと分かっているけれど。わたしはそう結論付けて、地上に帰って来てから三日目の朝を迎えていた。

 地上に戻ってきた後、それはもう大騒ぎだった。

 洞穴の前で横たわっているわたしと都司を発見したのは憔悴しきった母だった。わたしはただ意識が無かっただけだったのだけれど、都司は酷く衰弱していて一時は命の危険まであったのだ。

 病室で目を覚ました都司は、わたしの手を握り締めてぼろぼろと泣いた。


「もう少し遅かったら、俺もあの人と同じように消えていたと思う」


 舞い上がる風に乗って地上に帰れるのは人間だけ。地底人の肉を食べてきた宮路は人間だと思われなかったから燃えてしまった。薄っすらと都司の手のひらに残る火傷の跡を見て、わたしの心臓は冷たい汗をかいた。


「よかった、戻って来れて」

「俺さ、一生許されないことをしてしまったって分かってる。今になって何であんなことしてしまったんだろうって、どうしてあんな風に考えてしまったんだろうって」


 取り乱す都司を宥めるのは何度目だろうか。目を覚ます度に許しを請う都司を見て、都司を見つけるのが遅かった自分を責めたりもした。

 それでも、過ぎたことをやり直すことはでいないのだと分かっているから。

 病室の窓を開けるとそよ風が入って来た。


「わたしにも都司にも、今があってこれからに続いてる。だから生きよう、生きてたらどこかでごめんが伝わる時が来るかもしれないじゃん」

「・・・姉ちゃんらしいね、その考え方は」


 都司は眩しそうに目を細めて弱々しく笑った。

 天気は雲一つない晴れだ。


 濃霧の山で、スミはやっと会いたかった人に会えた。


「晴馬」

「スミじゃねえか。久しぶりだな」


 からりとした笑顔を浮かべるのは、人間の青年だった。スミはこれが幻覚だと分かっている。晴馬の隣に腰を下ろし、豊かな色彩が咲くスケッチブックを覗きこんだ。


「晴馬は本当に絵が好きだな」

「地底界はこんなに綺麗な景色で溢れているんだ、画家の血が騒ぐってもんよ。まあ残念ながら画家では無いんだけどな」

「なれるさ。俺がいい値で買ってやる」

「そりゃ嬉しいね」


 スミは晴馬の描く絵が好きだ。地底界をこれほど美しく描いてくれるのは彼の他にいないと思っている。晴馬に見えている世界が少しでも良いものであるように、スミはよくお気に入りの場所に案内したりもしたのだ。少し前に。でも、人間の晴馬にとっては遥か昔に。


「晴馬が地上に戻ったあと、寂しかった。こうして幻覚に縋るくらいにはな。それだけ晴馬は楽しい奴だったから」

「俺だって友達に会えないのは寂しかった。でも大丈夫だ、その代わり地上にいっぱい力作を残してきた。だから、いつか隠された庭に落ちるかもしれないぜ」

「それは絵か?」

「絵だ。それと家族。あ、でも家族を落とすわけにはいかないか、危ないもんな。でもよ、もしも俺の子供や孫がこっちに来ることがあったらさ、よろしく頼むよ。きっと俺と同じように、みんなお前のこと大好きになるぜ」


 スミは力強く頷いた。

 にかりと笑った晴馬は霧の中に消えて行った。

 スミは立ち上がってマドンナたちが待つ場所へ戻る。自分のコロニーに帰ったら、隠された庭で絵を探そうと決めた。

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【完結】落ちたわたしは帰るために地底人の手をとった 白宮しう @sironekogo

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