ホールド・ユー・タイト

高村 芳

 彼は私のことを「ユー」と、イニシャルで呼ぶ。私がいつしか、「本名で呼ばれるのが苦手で」とこぼしたからだ。彼はさらりとそういうことをやってのける人間だ。相手に気を遣わせず、いつのまにか心地よい空気をつくってくれる。今夜、駅前の居酒屋で酒を飲もうと誘ってくれたのも、私からの連絡がしばらく無かったからだろう。「予約しておいたよ」というメッセージとともに送られてきた店の地図を見ながら、私はぺらぺらの暖簾をかきわけて引き戸を開いた。


 外の寒さとはうってかわって、むせかえるような熱気が私を襲う。すぐさま「いらっしゃいませー!」と大きな声が次々と投げかけられる。近寄ってきた若々しい店員に彼の名を告げると、店員は「こちらへどうぞー!」と店内を進む。私はコートを脱ぎながら店員の後ろをついていった。すだれで区切られた半個室からは、男女問わず大きな声が漏れ出ている。年の瀬のこの時期だから、きっと忘年会なども多いのだろう。


 店員は廊下の中腹で立ち止まり、「こちらでーす!」と声を張り上げた。すだれの隙間からのぞきこむと、綺麗な金色の短髪が目に飛び込んでくる。


「おつかれー」

「すみません、遅れました」


 店員に「生ビールふたつ」と注文してから、用意されているプラスチック製のハンガーにコートをかける。彼はいじっていたスマートフォンを机に置き、画面に伏せた。掘り炬燵に足を滑り込ませながら、彼の目の前に座る。


「今日寒くない?」

「雪が降るかも、って言ってましたよ」

「嘘」


 温められたおしぼりで手を拭くと、冷えた指先がじんと痺れた。


「もうすぐ着くって連絡くれたから、テキトーに頼んだけど。何か食べたいものあったら」


 彼は机の端に置かれたメニュー表を私に手渡そうとする。「頼んでくれた料理が来てから考えます」と、そのメニュー表をもう一度端に追いやった。


「生ビールでーす」


 突然開かれたすだれの隙間から、細身の腕がぬっと入ってきた。その手にはビールが注がれたジョッキがふたつ握られている。私はそれを受け取り、ひとつを彼に渡した。彼の温かい指が触れる。


「ありがと。じゃ、おつかれー」


 乾杯して、彼はジョッキをあおいだ。「うう〜」と唸ったその唇には泡がついている。私は彼の半分くらいの量をちびりと飲んだ。


 そこからは料理が続々とテーブルに並んだ。明太ポテトサラダ、冷やしトマト、ささみのフライドチキン、そしておでんの三種盛り。ほら、やっぱり。私がよく頼む料理ばかりで、追加で注文する必要など無かった。彼は瞬く間にジョッキを空け、通りすがりの店員を呼び止めて「もう一杯」と頼んだ。酒の弱い私は、彼の食べっぷりと飲みっぷりを肴にすこしずつビールを口にした。


 私がやっと最初のジョッキを空にして、店内の暑さに耐えかねてスーツのジャケットを脱いでいる最中、彼はまた店員を呼び止めて私のビールのおかわりを頼んでくれていた。わずかに赤らんだ顔がこちらを向く。


「そういえば、ユー」

「はい?」

「会社、どうなの。新しいとこ」


 私はワイシャツの腕をまくって「ああ」と場をつなぐ。


 彼は気が遣えるから、私がビールを飲み進めて口が滑りやすくなるのを待ってくれていたのだ。それも、たったいま、思い出したような口ぶりをして。


 私はおでんの大根を取り皿へ運び、箸で割りながら答える。


「まあまあです。給料もあがりましたし、良い人たちばかりで。でも……」


 私が言い淀むと、彼の薄い唇が一瞬、きゅっと引き結ばれる。私は彼にそういう表情をしてほしいわけではなかったから、努めて明るい声を出す。


「親しくなると、よくあるでしょう? 今日も退勤するときに同僚の方が『彼女とデート?』って聞いてこられたり」


 「生ビールでーす!」と私の横にジョッキが置かれる。私はすぐさまジョッキを傾け、口を湿らせる。泡はへたっていて、薄く苦い。


「それが普通、ってわかってるんですけどね。誰だって、十パーセントの人間を意識して会話なんてしないんですから」


 どうやら私はもう酔っ払っているらしい。目の前がふわりふわりと揺れ動いている。そんな視界のなかで、目の前に座る彼の眉が困ったように垂れ下がる。


「わかるよ。俺もこのあいだ、また面接落ちちゃってさ」


 大学を卒業して就職した私とは違い、彼は大学院へ進学した。いまは就職活動中だと、先日連絡したときに言っていた。


「『その金髪は染めないんですか〜』とか『英語は話せますか〜』とか、もう聞き飽きたっつーの! 英語が苦手だから、英語を使わない会社を選んでるっていうのにさ」


 彼はぬるくなったトマトを口へ放りこむ。わずか一歳のときに外国人の両親とともに日本へ移住した彼は、英語がまったくできない。


 私の口からふ、と笑いが漏れてしまった。


「何笑ってんの」

「いや、大学時代の英語の授業で、単位を落としていたあなたを私が助けたことを思い出しまして。『ノート見せましょうか?』って尋ねたら、あなたはもう恐縮しきりで……」

「あったねえ、そんなこと。恥ずかしいから忘れてよ」


 周りから聞こえる喧騒のなか、照れながら笑う彼を見て、私も不思議と笑みがこぼれた。やっぱり、彼は笑顔がよく似合う。



 あっという間に二時間が過ぎ、私たちは居酒屋を出た。食事をしているあいだに降り始めていたのか、夜空にふわふわと雪が舞っている。年の瀬の飲み屋街には、いろんな人間が往来している。私たちもその一部だった。


「もう一軒行きますか?」


 酒の強い彼はまだ飲みたいだろうし、私はソフトドリンクを飲めばいい。そんな私の考えとは裏腹に、彼は首を横に振った。


「次の面接の履歴書を書かなきゃいけないから、今日は帰るよ」

「そうですか。頑張ってくださいね」


 「では」、と私が駅に向かおうとしたそのとき、「ユー」と彼が私を呼ぶ。


 途端、彼が私を抱き締めた。彼のネイビーのダウンジャケットに、私の顔が埋まる。彼も酔っているのか、力は強く、からだは熱かった。私は動けなかった。


「頑張ろうな、お互い」


 彼は私の背中をポンポンと叩く。私は「はい」とだけ、しぼりだした。


「じゃ、また連絡するわ」


 彼はニカッと赤い頬をもちあげて、彼の自宅の方向へ歩いて行った。私も彼に向かって手を振る。彼の長身が、曲がり角の向こうへ消えていった。


 ひと呼吸置いてから、私はふたたび駅に向かって歩き出す。途中、酔っ払った大学生グループを避けながら、彼の腕にこめられた力を思い出す。


 今度は、私から彼に連絡を入れよう。すこしでも彼が笑顔で過ごせますようにと、私は降り続ける雪に願った。



 

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ホールド・ユー・タイト 高村 芳 @yo4_taka6ra

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