第16話 赦しのスープ
太郎は歩き始めた。
まず三途の川に沿って上流へ向かった。しばらく歩くと横に大きな森が見えてきた。獣道のような細い道があるので、そこを入る。
(船頭さんに教えてもらった通りだ)
細い道に入ると、霧が一層深くなり、道もぬかるみ、少しずつ暗くなっていく。
三途の川を流れる灯籠の光から遠いことも関係しているだろうが、なにより大きな木が鬱蒼と葉を茂らせているので、なかなか足元まで光が届いてこない。遠くで何かの不気味な唸り声まで聞こえる。
(ホラー映画のラスボス線みたい)
太郎は震えながら、道を進んだ。
額から水滴がつぅと流れた。霧が肌に張り付いたのか、汗なのかわからない。太郎は腕でぐいっと拭った。
しばらく森の中を歩いていたのだが、遠くに大きな岩が見えてきた。
(忘れ去られた領域、に到着したのかな?)
細い道を塞ぐ大きな岩が太郎と対峙した。
高さも幅もある。グラリと倒れてきたら、下敷きになってそれだけでおしまいだ、と彼は後ずさった。
後退したことで、その岩に隠れていた巨大な影の一端が見えてしまった。
(で……出たぁ)
大きな岩からはみ出る巨大な影。
太郎の目にはそれが、大きな男の姿に見えた。顔のあたりに、赤い光が燃えている。
禍々しさが周囲の空気を歪ませているのか、輪郭がぼんやりしていた。
「イザナギ……イザナギの裏切り……裏切り……赦さない……」
(イザナギ!? イザナミさんの旦那さん?)
太郎は巨大な影から発せられる音に耳を澄ませた。
彼が一歩踏み出そうとすると、巨大な影が咆哮し、霧が嵐のように渦巻いた。
「うわぁぁぁっ」
風圧に負けて地に手をついた。太郎は、驚きながらも影を見上げた。
(これ、俺の手に負えるの!?)
太郎は背負っていた荷物を下ろした。
側に小さなかまどを作り、鍋を置き、材料を掴む。どれだけ落ち着こうとしても、手の震えが止まらない。かまどは風で何度も崩れたし、材料を落としそうになった。
けれど、太郎は懸命に料理を作る。
(怖がっていたら何もできない。俺がやれることはこれだけだ)
鍋に未練の根、記憶の霧を入れる。大きなスプーンで掻き回し、どろりと溶けてきたら魂の灯火をほんの少し加える。
巨大な影の怒りを癒やすための、「赦しのスープ」を作った。
地を這うような咆哮がまだ続いている。太郎は、その音の中心に向かって鍋を差し出した。
「こ……これ、良かったら、食べて?」
だが、巨大な影は「誰も信じない!」と叫び、影から伸びてきた黒い手が鍋を叩きつける。
中身が飛び散り、未練の根が連鎖したのか、軽い爆発音まで聞こえる。
「うわぁ、鍋、待って!」
逃げるように転がっていく鍋を、太郎は慌てて捕まえに行く。
巨大な影は、岩の側から動こうとしない。
太郎は自分を叱咤し、魂の声に耳を傾けた。
(集中しろ、俺。イザナミさんに、魂の声を聞けって教わっただろ)
両手を耳にあてて、目を閉じた。
「イザナミを許したかった……だが、食事が……魂を縛ると知らなかった」
太郎は、『忘却の茶』を飲んで脳裏を駆け巡ったイザナミの過去を思い出した。
(巨大な影の怒りは、イザナミの過去に繋がっている?)
イザナミは黄泉の国の食べ物を食べたことで、現世に戻れなくなったのだ。
飢えから逃れるように食べたおにぎりが、イザナミの魂をここに縛り付けた。
太郎は小さく頷き、もう一度鍋をかまどに置いた。
鍋の中にもう一度、未練の根、記憶の霧を入れる。スプーンでかき混ぜる。魂の灯火を加え、さらに川の涙と黄泉の灰を足した。
(俺も黄泉の国に来たばかりの頃は怖かった。けれど、みんなと笑い合えるようになった。それは魂も同じはず)
太郎は、イザナミの過去を思い出し、自分の恐怖と重ねた。
川の涙が怒りを和らげ、魂の灯火が希望を加え、黄泉の灰は過去を浄化してくれるはず。そう信じて料理を作る。
どろりとしたスープが、少しずつサラサラの液体に変わり、表面からうっすら輝き始めた。
スープが完成した。太郎は鍋を持ち、巨大な影に差し出そうとしたが、見えない何かに阻まれて動けなくなった。
「裏切りは……消えない!!!」
黒い影が鍋を拒絶する。そして、太郎をそのまま黒い影の中に閉じ込めた。全身が冷たくなっていく。動かすこともできない。
(助けて……助けて、みんな)
太郎はこのままどうなってしまうのかわからない恐怖で震えた。震えながら、仲間を呼んだ。
「映える瞬間、見逃さないで」女子高生幽霊がスマホを構えながら言う声が聞こえた。
太郎は足に力を入れる。
「爆発で勝て!」子供幽霊の元気な声が聞こえた。
太郎は鍋を持ち直した。
「死ぬ気で立ち上がれ」老幽霊の静かな気迫の込められた声が聞こえた。
太郎は大きく息を吸った。
「君の失敗が、私の後悔を越える」イザナミの威厳に満ちた声が聞こえた。
太郎は勇気を振り絞り、スープを巨大な影に差し出した。
「飲んでくれ。イザナミも、君も、赦せるよ」
彼を包み込んでいた黒い影が、左右に割り開かれた。巨大な岩に隠れていた影から、手のようなものが伸びてきて、鍋を掴む。
一瞬、戸惑うようにスープを見た影は、それから一気に鍋を傾けて飲み干した。
「……ありがとう」
太郎は、その言葉を聞いてへなへなと座り込んでしまった。
「どう……いたしまして」
巨大な影は溶けるように消え去り、いつもの白い霧が我が物顔で森を満たす。
カランと乾いた音を立てて、鍋が地面に置かれていた。それを回収しようと立ち上がった太郎の足元に、桃が転がってきた。
(俺……魂を救えた?)
シンと静まり帰る森の中、太郎は辺りを見渡した。
巨大な影がくっついていた岩に近づいて、その裏側をこわごわ覗く。けれど、そこには何もなく、ただ細い道が続いているだけだった。
(とにかく帰ろう)
守護者として、やりきった満足感を胸に、太郎は来た道を歩き始めた。
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