「どうかいつまでも、」

☁︎


 初めてその文章を読んだとき、なんて悲しくて、悲痛に満ちて、それなのに優しいんだろうと、思った。

 それは、とある夏の放課後。夏期講習を終えて、トイレに行って戻ってきた教室。もう他の人たちは帰ってしまって、空っぽの教室。

 そのノートは、窓側から二列目の、後ろから二番目の席にぽつんと置かれていた。傍には淡い紫色のシャーペンが転がっている。

「これ_小説?」

 ポツリと溢れた言葉が、すぐに蝉の声にかき消される。視線を落として文面をなぞっていくと、鮮やかにその情景が思い浮かんできた。

 それは、とある少女の物語。現実と理想の差に悩み、悩んだ末に、哀れな自分を救ってくれる女神の幻覚に救われる物語。きっと講習の合間に書いたのだろう、短い文章だった。なのに、嫌と言うほど明確に、その文章は音楽を伴って私の頭を駆け巡ったのだ。

「っ!?」

 突然、息を呑む音に振り返ると、ドアの脇に一人の少女が立っていた。

「あ、えっと、ごめん」

 咄嗟に謝罪の言葉が口をつく。艶やかな黒髪を鎖骨のあたりまで伸ばしたその少女は、恐る恐ると言ったふうに口を開く。

「み、見た…?」

 鈴を鳴らすような、細くて繊細な声だった。

 さながら、ホラー映画のセリフのような言葉を溢し、彼女は机に駆け寄る。もう手遅れなのに、その白い手がノートを慌てて閉じる。

「…うん。見た。ごめんね」

 私よりも五センチほど低い位置にある瞳が、大きく揺れてそれから逸らされる。名前も知らない彼女と私の間に、居心地の悪い沈黙が降りた。

「…っあ、えっと、私、C組の渡辺詩っていい…ます」

 とりあえず名乗ってみるが、依然として気まずい空気に語尾は萎んで敬語になる。彼女はおずおずと視線を持ち上げると、小さな桜色の唇を開いた。

「桜田…澪です。あ、F組の…」

 みおちゃん、と、心の中で復唱する。綺麗な名前だった。また、開放的で美しいメロディーが脳内で再生される。

 気がつけば、口が言葉を紡ぎ始めていた。

「ねぇ、歌詞、書いてくれない!?」

 私って、こんなに大きな声が出せたんだ、と自分で驚く。私は一歩彼女に近寄り、その両手を握る。

「私、あなたの物語を音にしたい!」

「え、えっ?」

 突然の懇願に、大きな黒瞳がさらに見開かれている。と、思ったら、今度はポンっと音がしそうなほど急激に頬が赤く染まった。

「ふえっ、あっ、ちょっ…!」

「お願い! 桜田さんの力が…必要なの…!」

 私の言葉に、ハッとしたように彼女は息を呑んだ。その瞳が、光に照らされたように輝く。

 この子を逃してはいけない。私の奥深くにある『音楽』が、本能のようにそう告げている。この子となら、私は最高の曲が作れる。そんな、確証もない確信があった。

「私なんかの、文で、良ければ…」

 お互いの顔が吐息を感じられるほどに近づいた頃、彼女はついに、消え入りそうな声でそう言ったのだった。


「詩?」

 名前を呼ばれて、我に帰る。昔作った曲を聞き返していたからだろうか、随分と懐かしい出来事を思い出していた気がする。

「ごめん、なんだっけ」

 彼女の_澪の声がちゃんと聞こえるように片耳だけにはめていたイヤホンを外し、そう聞き返す。全く、話自体をちゃんと聞いていないようではせっかく片耳にしていた意味がない。

「もう! 次の曲のコンセプトの話! ストーリー性のあるやつもいいけど、韻を踏むのにも挑戦してみようかなって話だよ!」

 子供のように頬を膨らませて、前の席に座る澪が怒った声を出した。ごめんごめん、とそれを宥めながら、私は挽回するようにちゃんとした意見を返す。

「私的には後者かな。作る曲の幅も広がるし」

「なるほど、そう言うもんなんだ…」

 私の言葉をちゃんと真正面から受け取って、しっかり咀嚼して飲み込む。私の大好きな、澪の習慣だ。ちゃんと伝わっていることがわかるから、安心する。

 でも、と心の中で私は言葉を溢した。

 きっと彼女は知らない。私が貴女に依存して、勝手に崇拝して、勝手に恋心を抱いていることを。きっとこれは誤解に誤魔化しと嘘を重ねた、空っぽの恋心。きっとこれは偽物で、でもそれでも満たされていると錯覚してしまっている。でも、私はそれで良かった。

「ねぇ澪」

 そう呼ぶと、なぁに、と甘い声が返ってくる。満面の笑みを向ける彼女の艶やかな髪を、私は左手で軽く漉いた。

「私、澪が死んだら迷わず後を追うよ」

 突拍子もない言葉だった。澪は一瞬驚いた顔をして、顔を輝かせた。

「なにそれ、むっちゃいい歌詞書けそう! 良いよね、そう言うドロドロ愛!」

 ほら、伝わらない。でも、きっとちゃんと救えてる。今、彼女は笑ってくれているから。

 こうやって時々言葉にしないと、私の心はおかしくなりそうになる。これはきっと、あの日あんなにも痛々しい悲鳴をあげていた彼女を、私が勝手に救いたい。ただそれだけのエゴだから。


 どうかいつまでも、私を神様でいさせてね。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「どうかいつまでも、」 ☁︎ @kumori-0401

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ