癒しの薬草、絆の歯車

チャプタ

第一話 雨音と孤独なハーブティー

午後の陽射し、なんてものはここ最近、とんとご無沙汰である。

エリアーナは、窓の外でしとしとと降り続く雨を眺めながら、淹れたばかりのハーブティーをすすった。カモミールとレモンバームのブレンド。鎮静作用がある、と薬草図鑑には書いてあったが、今日に限っては気休めにもならないらしい。


「……まったく、女神様も意地が悪い」


誰に言うでもなく呟く。

左足の古傷が、湿気を含んだ空気に応えるようにズキズキと疼くのだ。これは呪いだ。高名な神官にも解けなかった、いわば神に見放された証である。元クレリック、つまり聖職者だった彼女にとって、これほど皮肉なことはない。

――まあ、今となっては「元」も「元」、ただの薬草好きのハーフエルフ、ということになっているのだが。


辺境の町ストーンクレスト。そのまた外れにあるこの工房兼住居は、亡くなった祖父、ノームのフィンブルが遺したものだ。伝説的なアーティフィサー、なんて呼ばれていた変わり者の祖父が作っただけあって、家の中はやたらと仕掛けが多い。壁のスイッチを押せば棚が回転したり、床の一部が持ち上がって隠し倉庫が現れたり。初めて来た時はずいぶん驚いたものだが、今ではすっかり慣れてしまった。

工房には、祖父が使い込んだ道具やら、用途不明のガラクタやら、作りかけのカラクリやらが、雑然と、しかしどこか秩序を保って並んでいる。埃っぽい空気の中に、オイルと金属と、そして乾燥させた薬草の匂いが混じり合って漂っている。それが、今のエリアーナの世界の全てだった。


「さて、と」


カップを置いて、エリアーナは重い腰を上げた。足を引きずりながら窓辺に寄り、外を見る。いつの間にか雨は上がっていた。水滴をたっぷり含んだ庭の薬草たちが、洗われたように鮮やかな緑色を見せている。中には、この世界の固有種で、夜になると淡く光るものや、触れるとくすぐったそうに葉を震わせるものもある。普通の人間なら気味悪がるかもしれないが、エリアーナにとっては見慣れた光景だ。


「少し、様子を見ておくか」


雨上がりは、ナメクジや変な蟲が薬草を狙って出てくることがある。これも、今の彼女にとっては大事な日課の一つだった。

重い扉を開けて外に出ると、ひんやりとした土の匂いが鼻をついた。庭を一通り見回り、特に異常がないことを確認して、工房に戻ろうとした、その時だった。


「……ん?」


工房の壁際、雨樋の下あたり。普段なら見過ごしてしまうような物陰に、何か茶色い塊がうずくまっているのが見えた。

最初は、泥か、あるいは捨てられた麻袋か何かだと思った。だが、よく見ると、それは微かに動いている。そして、泥の中からぴょこんと、二つの尖った耳が覗いていた。狐のような、それでいて人間の子供ほどの大きさの。


「……獣人?」


エリアーナは眉をひそめた。辺境とはいえ、町に獣人がいないわけではない。キャラバンで訪れる者もいるし、中には定住している者もいる。だが、こんな子供が、一人で、こんな場所にいるというのは、どう考えても普通ではない。

そっと近づいてみる。泥まみれでよく分からないが、どうやらキツネ族の子供のようだ。ぐったりとして、意識がないのかもしれない。


「……面倒な」


思わず舌打ちが出た。

人間不信。いや、正確には、世界そのものへの不信感、とでも言おうか。トラウマを抱え、信仰にも揺らぎが生じている今のエリアーナにとって、他人、それも厄介事を抱えていそうな存在に関わるのは、極力避けたいことだった。

このまま放置して、誰か他の親切な人が見つけてくれるのを待つか? いや、この場所は町の外れだ。誰も来ないまま夜になり、低体温で…なんてことになったら、さすがに寝覚めが悪い。たとえ、元聖職者の義務感という、とうに捨てたはずの感情に突き動かされた結果だとしても。


エリアーナは深々と溜息をついた。空には、雲間から頼りなげな陽が差し始めている。


「……仕方ない」


結局、彼女はその泥まみれの小さな塊を、壊れ物を扱うように、そっと、しかし躊躇いがちに抱え上げた。思ったよりも軽い。汚れた毛の下の、か細い体温が伝わってくる。


工房の中に運び入れると、とりあえず古い毛布の上にそっと寝かせた。ぴくり、と耳が動き、小さな寝息のようなものが聞こえた気がした。

さて、どうしたものか。

エリアーナは腕を組み、目の前の小さな「拾い物」を眺めた。温かいスープでも作るべきか? それとも、まず体を拭いてやるべきか? いや、その前に、この子はいったい何者で、なぜここにいたのか?

疑問は尽きないが、答えは目の前の子供が目を覚まさない限り、分かりそうにない。


再生のハーブティーは、まだエリアーナ自身の心を癒すには至らない。

そして、絆のカラクリ工房に、思いがけない小さな歯車が一つ、迷い込んできた。

この出会いが、止まっていたエリアーナの時間を、そして工房の運命をどう動かしていくのか。それはまだ、誰にも――もちろん、エリアーナ自身にも、分からなかったのである。

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