第2話
――死ぬかと思った。
いや、ここに至ってなお「思った」程度に留まっているあたり、俺は意外と図太いのかもしれない。
さっきまで「あら、宇宙船って意外と快適ね」なんてのん気に言ってた隣の彼女が、今や全身で操縦席にしがみついているのだから笑える。いや、笑えない。軌道が逸れたのだ。よりによって、月面すれすれ。
「やばいやばいやばいやばい、ほら、月、近っっ!」
「ちょ、ハンドル切れ。いや、ハンドルあるのかこれ?」
「私、文系なの。テック系は任せた」
「俺も文系だよ!」
哀しき文系二人、月面すれすれで阿鼻叫喚のUターンをかます。
かますと言っても、正確にはUターンさせられている。俺たちの意志など、この金属の巨体には一ミリも届かない。まるで、気まぐれな神のラジコンである。
Uターンしたら今度は地球が見えてきた。そして、その姿がぐんぐん大きくなっていく。
誰がどう考えても、俺たちは今、天体に向けてただの特攻兵器である。
彼女はカチカチとパネルを叩くが、画面は“NO SIGNAL”の一点張り。
俺たちの運命が、もはや電波にまで見捨てられたことを示している。
「嘘でしょ、なんでどこも反応しないの……」
「お前が押しまくったせいだろ。電子レンジじゃねえんだから」
ふと、俺は思い出した。
高校の頃、図書室の隅で『星新一』全集を読んでいたあのときのことを。
「どうしたの、目が遠くなってるよ?」
「いや……人間って、終わりが近づくと回想が始まるって聞いた」
「へえ、私はまだ未来を見てるけど?」
彼女はそう言って、窓の外を指差した。
地球だ。
驚くほど、青かった。あまりに、青すぎた。
そして、近い。異常なまでに近い。
青い丸というより、青い壁である。大気のシームが眼前に迫る。
俺はまじまじと操作盤を見た。無数のボタン。意味の分からないラベル。やたらと未来的なパネル。だがそこに、“STOP”の三文字はどこにも見つからない。
あるのは“EJECT”と“EMERGENCY”と“CINNAMON”である。最後のはなんだ。香料か。
「ブレーキは?」
「そもそもこの船、ブレーキないんだわ。気取ってるのね」
「まさかハードSFっぽい演出で“慣性で止まる”とかやりたかったんじゃ」
と言い終わるころには、船体が震えていた。
外殻をひっかくような音が響く。重低音のうなり。空気と金属の相性の悪い接触音。エレガントとは程遠い、工業製品の断末魔。
「……これ、もしかして」
「そう。“落ちてる”のよ」
ごく普通に、当たり前のように、宇宙船が地球の重力に捕まっていた。抗いようのない引力の抱擁。軟着陸?寝言は寝て言え、俺たちは今、地球にぶつかろうとしているのだ。しかも、わりとまっすぐに。
彼女の指が最後に“CINNAMON”をかすめたが、船内に甘い香りは漂わなかった。漂ったのは焦げた金属と、オゾンと、どうにも説明のつかない“湿った恐怖”の匂い。
香るだけで止まるなら、俺は今後スパイス業界を全面的に信用する。
が、その瞬間――視界が白に塗り潰された。
轟音。反転。激震。脳が上下左右を喪失した。内臓という内臓が全会一致で不満を表明している。目を開けようにも揺れでなかなか定まらない。耳の中で遠雷のような音が鳴り続け、やがてそれは――
「…………!」
叫び声だった。
――ちがう、これは“声”と呼んではいけない何かだった。
それは、音ではなかった。空気を震わせる以前の、喉の奥、肺の根、あるいは心臓の底から滲み出すような、圧力の塊。苦し紛れでも絶叫でもない。もはや“痛覚のうねり”だった。
代表取締役(仮)が泣いていた。
いや、泣いてなどいなかった。“泣いている”という語彙では到底足りない。叫びでもない。嗚咽でも、絶叫でも、慟哭でもない。すべてを溶かした、そのさらに先。言葉の届かない沼地で、ただひとつの感情が吠えていた。
「……っ、……っっ……!」
口が開かれているのに、声は出ていない。いや、たしかに鳴っていた。船内を満たす振動の半分は、あの女の喉から来ていたはずである。
震えていた。彼女の肩も、指先も、声帯も、時間の流れそのものすらも。
艶やかで、凛としていて、気高かったはずの女が、顔をくしゃくしゃにしながら、叫びでも断末魔でもない。
もっと原始的で、もっと無名な、生物としての絶叫を上げていた。
目をそらすことができなかった。
それでもなお、彼女は、泣きながらも操作盤にしがみついていた。
指が震え、すべてのボタンを押し間違えながら。
おそらく八割は逆効果の操作をしながら。
その時だった。
外から、ものすごい音がした。ガラスが砕けるような、岩を引き裂くような、世界が裂け目を見せるときの音だった。
ああ、俺たちは――
同時に、全身がゆるやかに浮いた。
そして、闇が来た。静かで、甘くも苦くもない、完全な闇が。
――“CINNAMON”って、何だったんだろう。
*
――目が覚めたら、空が見えた。
俺は操縦席にもたれかかるように転がっているらしい。半開きになったハッチの向こうに、眩しすぎる青空。
地球の空である。青くて、広くて、なぜかやたらとリアルな雲がぷかぷかしていた。おかしい。宇宙船が墜ちた直後の風景にしては、あまりにも詩的だ。というより、これは“背景画像”のような空である。スマホのデフォルト壁紙にすら勝る。
脳天に突き刺さるほどの青空を見ながら、俺は思った。
――ああ、生きてるな、俺。
生きているのが奇跡というより、もはや確信犯的に“死なせてくれない運命”の悪意を感じる。
思えば壮大だった。人類代表候補に選ばれ、神話級美少女に手を引かれ、操縦ミスで地球に再突入。ラノベでも通らないプロットである。むしろ書籍化NG食らうタイプだ。
そんな思い出の走馬灯をぼんやり眺めてから、ふと、隣を見る。
いた。代表取締役(仮)。
彼女の胸は上下している。生きている。少なくとも死んではいない。問題は、俺が彼女を起こす義理があるか否か、である。
ない。
むしろ、“そっとしておく”という行為こそが最も文明的であり、最も人道的であり、ひいては最も俺らしい選択なのである。だって彼女は、俺を騙し、連れ去り、宇宙に放り出し、最後には墜落事故まで引き起こした張本人だ。
しかもこの女、顔が良いのである。顔が良いのに、発言の8割が意味不明。そのくせ、自信だけは備わっていて、つい乗せられてしまう。典型的な“災厄系美人”である。
これはいかん。非常にいかん。
俺のような“何者でもない者”は、彼女のような“圧の強い隣人”とは距離を置くべきなのだ。
挙句の果てに、この女、落下中にあれほど原始的な叫びをあげていたくせに、今は平和な顔で寝てやがる。
そもそも事を辿ると、あの騒動の元凶はほとんど彼女である。代表取締役の肩書きを被り、宇宙船に乗り、操作も知らず発進ボタンを押し、CINNAMONを信じた。
何もかもが、夜更かしして異世界ファンタジーを読み漁った者の末路である。
この女を連れて歩く未来。
想像しただけで、胃がミルフィーユ状に折り重なった。
「……置いてくか」
言葉に出してみると、妙にしっくり来た。
これはヒューマニズムの問題ではない。生存戦略である。
ハッチまで這い上がるという行為は、本来もっと英雄的な姿を伴うものだと思っていた。
宇宙の彼方から帰還した男が、ゆっくりと姿を現し、顔に汗と泥を浮かべながらも、その瞳は確信に満ちている――みたいな。
だが、現実は違った。
俺は、這い上がるや否や、そのまま三回転半ひねりなどという体操競技者めいた動きもなく、見事に地面に沈み込んだ。人間とは、かくも重力の支配に従順な生き物である。
背中を打ち、肘を擦りむき、右の肩甲骨に異様な圧迫感を感じながら、ようやく顔を上げる。
そして見たのだ。――あまりにも“美しすぎる”風景を。
地球、か?
一瞬そう思った。だが、それは“地球風”であって、決して“地球そのもの”ではなかった。
まず、目を覚ました時にも思ったのだが、空が青。いや、青いにもほどがある。
あの時は半開きのハッチ越しに覗いた、いわば“額縁付きの空”だった。
限られた視界の中に切り取られた、まるで一枚の美術作品のような空。
だが今、俺の目の前に広がっているのは、それとは全く違う。
これが自然な空だというのなら、俺が今まで見ていたのは“空のパチモン”だったのかと訝しむほどに、明度と彩度が跳ね上がっている。
次に、空気が異常に澄んでいる。
肺が「久しぶりにまともな仕事ができる」と言わんばかりに嬉々として酸素を吸い込んでいる。
花粉もPM2.5も存在しない。どころか、車の排ガスの気配すらない。こんなに清潔で構成要素のはっきりした空気、今どきスイスでも吸えない。
そして、目の前に広がる森。
大自然だった。圧倒的なスケールの、それも“やる気のある”自然である
それは“白神山地のブナ林”に“屋久島の苔むした巨木”を混ぜ、そこへ“スイスアルプスの澄んだ空気”を注ぎ込み、最後に“アマゾンの密度”をひと振り――という、自然のフルコース盛り合わせだった。
景観に遠慮というものがない。すべてが「見よ、我こそ自然の極致なり」と自己主張しており、木々の一本一本が“空に届く気満々”の顔をして天を突いている。
これが異世界?
いや、待て。まだ断定は早い。
人類は未だ、地球のすべてを知っているわけではない。例えばアフリカの奥地や、アマゾンの奥の奥。人の手が及ばぬ秘境というやつだ。
ここも、もしかするとそういう“残された最後の桃源郷”なのかもしれない。
だが、思考を遮るように、俺の頭上を信じられないほどでかい影が横切っていった。
鳥か? 飛行機か? いや――あれは、竜だった。翼竜である。空の覇者が、物理的に地面に影を落として通りすぎた。
「地球じゃない……?」
口にした瞬間、脳がその響きを受け取った。なるほど、そうか。俺はもう、死んでいるのかもしれない。
あの宇宙船の衝撃、あれだけ派手に落ちたのだ。生きてる方がおかしい。爆散、炎上、急降下、衝突。どれをとっても致死量のオンパレードだった。
なるほど、俺たちはあれで一度死んで、気づかぬうちに船ごと転送されてきたのかもしれない。
Web小説界ではもはや常識となったあのフレーズが、今、俺の中で現実味をもって浮かび上がる。
「異世界転生か……」
呟いてみると、なんだかちょっとテンションが上がる。もちろん、状況は最悪だ。食料もない。道具もない。寝床も、地図も、チュートリアルすらない。
それでも、俺の中の“深夜三時組の血”が騒いでいた。
ここから始まるかもしれない冒険。クラフト。建築。狩猟。栽培。
……いや、できるかそんなもん。
俺はDIY番組を録画したまま一度も見ないで消すタイプの人間である。栽培に関しては、コンビニのレタスサンドを“野菜”と認識していたし、狩猟に至っては“蚊を叩き損ねる”程度の戦闘力しかない。つまり、ゼロである。戦力もスキルも経験も。ゼロ。正真正銘の素人だ。
だが、それでも。
あの空を見た時、俺の中の“何か”がほんの少しだけ前のめりになった。そう、前のめり。二ミリくらい。極めて慎重かつ消極的な姿勢ながらも、“踏み出したくなる”気配があったのだ。
気がつけば俺は立ち上がっていた。何をするにも、その前に立つのが基本である。俺は文明人なのだ。たぶん。
そして、周囲を見渡す。
――そうだ。やるしかない。
食料を確保し、寝床を作り、水を汲み、火を起こす。
未知の植物にビビりながら、動物の足跡に怯えながら、それでも生き延びるしかない。
いま、俺の人生は、
誰もチュートリアルしてくれない、フルオープンワールドサバイバルモードに突入したのだ。
世界は広く、空は高く、竜は自由に飛び、そして俺は今、底辺から始まっている。
こんなにも場違いで、無防備で、見事に何も持っていないというのに、なぜか心の奥底で――「ここから何かが始まるのでは?」などという、身の程知らずな予感がしてしまっていた。
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