マルドゥック殺し

川上いむれ

第1話 春にして君を離れ

 缶コーヒーの値段が30円上がっていた。ほんの少し前までワンコインで買える値段だったのに。

「…ちっ、足元見やがってよ」

 僕は行儀悪くも悪態をついた。それでも自販機に130円を投入して缶コーヒーを買う。ごろごろ、がらんと落ちてきたところを取る。プルタブを引いて開け、冷たい缶コーヒーを飲みながら僕は小高い高台に続く道路を登っていった。

 高台の上までたどり着き、街の景色を見る。頭上では五月の太陽が輝いていて、眩しいことこの上ない。雲は風に流されてゆっくりと動いていった。


 ここが、僕の町。僕がいる場所。僕の知っている広い世界の、狭い一部。


     

     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 僕は退屈を持て余していた。6時間のバイトが終わると土曜日の夜は暇だ。1人で6畳の部屋にいると気が狂いそうになる。

 退屈した僕は、小さな本棚から文庫本を取り出した。ドストエフスキーの『白痴』だ。だが読み出しても内容が全然頭に入ってこない。僕はあきらめた。

「散歩でもするか…」 

 僕は寝ていたパイプベッドからゆっくりと起き上がった。ジッパー付きパーカーを着て、部屋の外に出る。

 僕が住んでいるのは二階建ての安アパートの二階の部屋だ。と音を立てて階段を下りる。さて、どこへ行こう。僕は歩き出した。


 僕は先週19歳になった。大学受験に失敗し、この街に一人で来て一人暮らしをしている。生活費はアルバイトと実家からの仕送りで今のところなんとかなっているが、かなりギリギリだ。一応浪人中ということになっているが、受験へのモチベーションは限りなく下がっている。正直将来のビジョンは現時点でまるでない。

 将来。その二文字は僕にとっては呪縛のように思えた。例えば、3年後の僕は3年前の僕より高級な存在に成れているだろうか。僕には正直確信が持てない。まったく人間の一生というものは分からない。

 とりあえず近所のコンビニを目指して歩く。割と人口が多い地域だからかここらへんは夜中でも車の往来が激しく、僕はハイビームに照らされながら歩道を歩くことになる。

「嫌いなもの…嫌いなものかあ。車は嫌いかもな…」

 ひとりごとで呟く僕。現代文明に喧嘩を売ったところで得るものはないが、僕は架空のインタビューに答えるような気持ちで自分の嫌いなものを羅列していった。

「自分の後ろに立たれるのは嫌いかな…寝付きが悪くて午前3時とかまで眠れないのも嫌いだ…。人でいっぱいの街とかショッピングモールも嫌い…あと、他には何があったかな…」

 ひたすらに後ろ向きな思考を重ねる。なんでこんなにネガティブになっているのだろう。我ながら呆れてしまうが、僕にはこんな習性があった。

「でもまあ、自分の事が嫌いなんて言えないよな、多分。うん」

 実際僕は自分の事が嫌いではなかった。いや、100%そう断言出来るわけではないかもしれない。でも、なんだか僕には自分で自分の事を嫌いだと言ってしまうのは甘えのように思えてしまうのだ。それを言わないのは自分に残った数少ないプライドがなせる業かもしれなかった。

「まあ、こんな事考えても仕方ないや。…本当に」

 目的地であるコンビニの明かりが見えてきた。「24時間営業」のサインが煌々と光っており、この夜中に頼もしいことこの上ない。


 ……なんだか怒鳴り声が聞こえる。見ると、コンビニの駐車場で複数人が喧嘩しているようだ。物騒なことだ、と思って見ていたが、どうも様子がおかしい。喧嘩というより一人の人がもう片方に一方的にやられているように見えるのだ。見ると、金髪の人が見るからにヤンキー風の男に胸ぐらをつかまれて怒鳴られている。絡まれているのは女性のようだ。


 ヤバい、目があった。胸ぐらをつかまれている女性と一瞬だけ目が合ってしまった。その人は助けを求める風でもなく、極めて無感動に僕の目をほんの一瞬見つめた。こんなにつまらない事はないというように。


 瞬間、時間が止まったような気がした。その人の目の中にある何かが僕を引きつけてしまったのだ。男は相変わらず女性に大声で何事かを怒鳴りつけている。


 まずいな、と思った。なにがまずいのか自分では分からなかったが、それはすぐに自分の行動となって現れていた。僕は一歩を踏み出し、怒鳴っている男に声をかけたのだ。

「あの…もうその辺で良いんじゃないですか?これ以上やってたら店員さんに通報されますよ。通行人にされるかもしれないし、なんなら僕がするかも」

「あ!!??なんやお前!??関係ないやろが!!!」

 ヤンキー風の男は女性の服から手を離し、僕の方に向かってきた。その隙に一目散に逃げる金髪の女性。

 ま、まずい。こっからどうすればいいんだ。

 

 数分後、僕はボコボコにされてコンビニの駐車場に転がっていた。

「いってえ…。あの馬鹿、三回も顔蹴りやがって…こん畜生…」

 顔の皮膚が少しめくれているようだった。ヤンキー風の男は僕に2分間ほど暴行を加えてから、気が済んだようでどこかへ去っていった。結局僕一人が徹底的に痛い目に合うことでこの場は収まった感じだ。

 …と、視線を感じる。顔を上げると、さっき逃げた金髪の女の人がコンビニの影から僕の方を見ていた。小走りでこっちにやってくる。

「…きみ、大丈夫?ごめんね、私のこと助けてくれたせいでこんな事になって」

 拝むように両手を合わせて礼を言われる。

……まあいいや。ここ最近で唯一、他人に対して意義のある事を出来たのかもしれないから。

「いえ…大丈夫です…お姉さんの方は大丈夫ですか?めっちゃ胸ぐらつかまれてましたけど…」

 金髪の人はこくりとうなずく。

「うん、私は大丈夫。別に殴られたりはしてないから。…君、顔擦りむいてるね。ちょっと待ってて」

 そういってコンビニの中に走っていく。少ししてから手に絆創膏の箱を持って戻ってくる。

「これ貼っといた方がいいよ。放置しとくのはまずいし。……さっきも言ったけどごめんね。それにありがとう」

 僕はありがたく絆創膏を受け取って自分の頰に貼った。わんぱく小僧みたいな見た目になってるかもしれない。

「……それで、なんであの男と揉めてたんですか?知り合いの人だったんですか?」

 一応疑問に思ったので聞いてみる。まあ本来僕とは関係ないことだけど。

「ううん、全然知らない人。さっきあの人がコンビニの前で酒盛りしてたんだけど、私が前を通りかかった時、間違えて缶チューハイを蹴飛ばしちゃったんだ」

 あちゃー。それはまずい…。よりによってあんなヤンキー風の男の酒を…。まあ済んだ事は仕方がない。覆水盆に返らずというやつだ。

「まあ、怪我がなくて何よりです。それじゃあ僕はこれで…」

「待って」

 服を掴まれて引き止められた。なんだろう。元はと言えば僕はただコンビニに行きたかっただけなんだけど。

「助けてくれたから、お礼するよ。なんでも好きな飲み物一本おごってあげる。君の名前は?」

 僕は少しとまどう。人にお礼されるというのには慣れていない。でもややあって口を開いた。

布施顕人ふせあきひとと言います。あなたは?」

 金髪の女性は答える。

「私はヤナギって言うんだ。よろしくね」



 ここで僕が住んでいるこの街について説明しよう。この街は人口百万人超えの政令指定都市であり、関西では三番目か四番目ぐらいには大きい都市だ。地形は典型的な盆地で、冬寒く夏は暑い。周りを山に囲まれているがゆえに一年を通じて湿度が高く閉塞感もなかなかのものだ。

 ……お分かりになった人もいるかと思うが、そう、もちろんここは京都府京都市だ。僕はこの街の事は好きでも嫌いでもない。ただ、僕はいつも何とも言えない違和感のようなものをこの街、そしてこの街にいる自分自身に対して覚えていた。ある意味、ここは僕の世界から切り取られた空間だった。



 さて、僕は金髪の女性もといヤナギさんと一緒にさっきのコンビニの前に座って野菜ジュースを飲んでいた。ヤナギさんが飲んでいるのはビールのロング缶である。ここで少なくともこの人は二十歳以上なんだな、ということが分かった。

「野菜ジュースで良かったの?お酒もおごってあげたのに」

「いえ……一応僕まだ19歳なので酒飲めないです。ヤナギさんは何歳なんですか?」

「私?24歳だよ」

「24歳ですか…へえ〜」

 いや、へえ〜ってなんだ自分。もっと他に言うことあるだろ。

「19歳ってことは大学生なの?」

 僕の顔を覗き込んで聞くヤナギさん。唇にピアスを空けているのが目についた。

「あーいや…一応浪人生です。正直これからどうなるか分かんないですけどね…」

 目をそらして答える僕。…自分の事について話すのは苦手だ。

「ヤナギさんは今何やってるんですか?社会人?」

 お返しと言うわけではないけど僕も尋ねる。自分のばつの悪さを誤魔化すように。

「私?私はね……」

 一瞬間を空けてから得意そうに答える。


「小説家なんだよ。それも推理小説家」


「……小説家?」

 思わず聞き返してしまった。いや、もちろんそういう名の職業の事は知っている。自慢じゃないが僕はかなりの本読みで、ろくに物の置いていないアパートの自室にも30冊ぐらいは蔵書がある。でもそういう事じゃなくて。

「本当に小説家なんですか?いや疑うわけじゃないですけど。僕、本物は初めて見ました」

 ヤナギさんは笑いながら答える。

「そんな、人を珍獣みたいに〜。そうだよ。本物だよ。これでも一応商業デビューしてます。この街の本屋にも多分私の書いた推理小説が置いてあるよ」

「それは……凄いですね」

 悪戯っぽく笑うヤナギさん。

「でしょ?ちっとは見直してくれたかな」

 見直すも何もさっき知り会ったばっかですけど。いやそれは置いておいて。

「凄い…ですね。僕、自分の頭の中身を出力してそれでお金を稼げる人は尊敬します」

「独特な褒め言葉だな〜」

 僕の褒め言葉は本心からだった。幻想を文字に起こしてそれでお金を稼げる人。ある意味現実に太刀打ち出来なくてのろのろと日々を生きているだけの僕にとっては最上級に尊敬に値する人だった。

「ところで…さ」

 何か意味ありげに言うヤナギさん。ところでなんなんだろう。

「実は私、この街には最近来たばっかりなんだ。今年の春からこの街に移住してきたの」

「そうなんですか。それなら僕も同じですよ」

「そっか。君も春からこの街に来たんだね。じゃあさ、知ってる?アレのこと」

 アレとは?

「何のことですか?はっきり言ってもらえませんか?」

 僕は怪訝な顔で聞く。ヤナギさんは間をおかずに悪戯っぽく答えた。

「殺人事件。いわゆる連続殺人事件だよ。実は私もそれに興味を持ってこの街に来たんだけどね」


 殺人。人を殺す。人殺し。murder、killing、homicide。広辞苑ではどのような定義がなされていただろうか?僕は一瞬空白が空いてしまった脳の中で考える。

「殺…人…ですか?いや、全然知らなかったです」

 物騒ですね、とでも付け加えておけば良かっただろうか。ヤナギさんはうなずいて、

「そうなんだよ。怖い事件だよねー。でもね、私って推理小説を書くのが仕事じゃん。だからさ、実際の殺人について取材出来るいい機会だと思ったんだよ。そうじゃないかな?」

 ──この人は壊れているのだろうか?率直にそう思った。この人が言ってることが事実なら、それは現実に起きている殺人事件の事だ。フィクションや遊びではなく、実際に人が死んでいることなのだ。それを小説の題材だなんて──。

 ヤナギさんは僕の内心にまるで気付かないかのように続ける。

「やっぱりね、頭の中で考える事だけだと限界があるんだよねー。どんなにリアリティがあると思っててもさ、自分の頭の中だけで作り上げたストーリーってちょっとね。だから──」

 喋りつづけるヤナギさんを見ながら、僕は何を考えていただろう。この人を指弾する気だったか?それともたしなめようと思ったか?アレな人だと思って逃げようと思ったか?


 僕はそのどれとも違った。


 端的に言って、僕はヤナギさんに心から惹かれてしまったのだ。



              ──つづく

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