龍使いの兄弟と一夜の語り部
朱雪
第1話 プロローグ
――私は永き時を独りで過ごした。文明が発達して世の中が便利になり、人々の記憶から我等龍族の存在が夢物語へと成り果てた後もこうして……。
それでも書物に囲まれた生活というのは、意外と自分に合っていたのか、なかなかに居心地が好い。
「さぁて、記憶の館オープンだ!」
真っ暗な闇の中、ポゥッとロウソクが灯された。
明かりに照らされたのは、一人の20代前半に見える青年。涼し気な眼差しに温和な微笑みを浮かべ、近くに置いてあった上等な椅子に腰かけ足を組んでいた。
青年以外の存在が同じ空間へ訪れた事を知り、白い手袋をした両手を、組んだ膝の上に重ねる。
「ようこそ記憶の館へ。貴方が記念すべき一人目のお客様です。……え? 人違い、と」
青年は一瞬きょとんとしたが、すぐにクスクスと楽しそうに笑い始めた。
「これは失礼。ですがご安心を。間違いではなく、貴方は確かに私がご招待したお客様なのです。……あぁ不審に思われるのも当然ですね。まずはどうぞそちらへ」
青年が指示した先ではライトに照らされた豪華なソファが置かれていた。
勧められるままにソファへ座った事を確認した青年は話し始めた。
「ここは私の夢の中です。今宵は貴方の夢でもあります。はい、もっといい夢を見せてくれ、と言いたい気持ちも理解できますが、これも何かのご縁だと思って諦めて下さい」
青年は困ったように笑った後、膝の上に置いていた手を離し、細い右手の人差し指をスイッと横へ動かした。
反応するように、すぐ近くにあった本棚の上段から一冊、意思を持ったかのように空中を移動した本が青年の差し出した掌の上へ開かれた状態で納まる。
「では現実に疲れて逃避を希望する貴方には、こんな兄弟の実話はいかがでしょう」
前置きをした青年が、ゆっくりと本文をなぞる様にして指を滑らせ、物語は始まった。
ここは外界との交流が完全に遮断された隠れ里。龍と人が共存している小さな里だ。
大昔には交流も
兄は物心ついた時から、何かと結界の外へ出たがり、実際に何度か脱走もしてその度に皆を酷く心配させた事もあるらしい。
らしい、というのは僕が生まれてからはずっと共働きの両親に代わって僕の面倒を見てくれていたから、結界の外に出る暇なんてなく、落ち着いていたから僕は
物思いに
「……うわ~、どうしよう……どうしよ~」
僕は目の前の
床は小麦粉で真っ白、机の上には割れた食器と散らばったスプーンやナイフが
「うぅ~……ぐすっ、お、怒られる~」
何から手を付けていいのか解らないこの状況を作り出したのは、僕のパートナーである龍のアースだ。さっきまで静かに眠っていた
まだ子どもの龍とは言え、突進されたら地味に痛い。
僕が痛みに
さすがに普段は
「と、とにかく……アースを風呂場に押し込んで!」
僕は粉だらけになったアースを
「こら、大人しくしてろよ! 騒ぐな、ぶはっ!」
突然冷水をかけられたのだから、騒ぎたくなるのも解るが、少しはこちらの身にもなってほしい。
騒いだ時に長い
「うぅ~……冷たい~……」
まだキッチンの片付けも残っているのに、僕はいったい何をしているのだろうか。さすがに泣きたくなってきた。
「ほら、早く
涙目になっていた僕の頭上から、温かいタオルがかけられた。
「ほへ?」
間抜けな声を出して見上げれば、兄が呆れた様子でそこにいた。
「ぴぎゃっ!」
僕は悲鳴を上げてピシリと石化したように動けなくなってしまった。
「どうした? ほら、濡れた服は
固まった僕をそのままに、てきぱきと濡れた服を洗濯籠へ入れて僕の手にあるシャワーヘッドを掴み、温度を手に当てて確認しながら調節したお湯を今度は頭からぶっかけられた。
「うわっぷっ、ちょっ」
「ん、熱いか? だが、体が冷えている
見当違いの事を言われて、キッチンの方には行っていないのだろうかと疑問に思ったが、それはそれでこの後の事が余計に恐ろしくなるだけだから、生きた心地がしない。
しばらく僕とアースにかけていたお湯を一度止めて、しっかり温まった事を確認した後、別の
「着替えはここに置いてあるから、後はできるな?」
「え、あ、……うん」
「じゃあ、俺は
「うん?」
どこか不穏な気配がする内容に僕は、理解が遅れた。
兄が
「兄ちゃん! 手伝いってまさか……あれ?」
戻って来てみれば、あれだけ酷い有り様だったキッチンが元通り綺麗になっていた。
「あの、兄ちゃん……これは……いったい」
状況についていけていない僕に、ニコッと笑った兄はフワフワのホットケーキを机に置いた。
「ほら、これが食べたかったのだろう?」
「あ、う……うん」
おずおずと席に着き、目の前に置かれたホットケーキを見つめる。
「どうした? 食べないのか」
不思議そうに
「ご、ごめんなさ~い!」
「うん」
突然泣き出した僕に驚く事もなく、ただ微笑んで続きを待っている。それが僕の罪悪感を更に
「ぼく、キッチンより
「そうか」
「にぃちゃん、疲れて、んの、にぃ! だから……ごめんなさい!」
泣き過ぎて自分でも何を言ってるか解らないのに、兄は僕の頭を撫でながら、ただ聞いていてくれた。
凄く怒られると思っていた僕には、一番効き目がある方法だと思う。
両手で受け取った僕の目元に冷たいタオルを押し当てながら、ゆっくりと話し始める。
「まずお前は、よく頑張ったと俺は思う。あんな
タオルで視界が真っ暗な僕は、兄の表情が見えなかったけど、何となく困ったように笑っている事だけは想像がついた。
「……ホットケーキ、冷めてしまったかもしれないな。温め直すか」
「イイッ! 食べる」
視界の
「なんだ? 足りないようならまだ作るが」
食べる手を止めた僕を疑問に思った兄が、フライパンに視線を向けている。
「いや、大丈夫! もうお腹いっぱいだし」
「そうか? それなら良いが……」
「うん、ありがと、兄ちゃん!」
僕は精いっぱいのお礼を伝えた。
少し冷めたホットケーキは、何となくしょっぱく思えたけど美味しかった。
きっと僕は、この味だけは大人になっても忘れないような気がした。
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