第2章 君と私のディケイド
昼休みの教室。自席で弁当を広げていた俺は、クラスメイトの女子に真正面から見下ろされていた。
「前から思ってたけど、
「七瀬が作ってるの?」
「いや……ええと、俺の保護者──的な人が作ってくれてる」
俺と
「そんな美味しそうなお弁当、一人で独占するのは罪。私にも分けるべきだと思う」
天草さんは無表情のまま要求した。彼女はいつの間にか右手に割り箸を構えて弁当箱の中を狙っている。
「別にいいよ。こないだも助けてもらったし」
彼女には自転車を貸してもらった恩義がある。弁当程度で済むなら安いものだ。
俺は弁当箱を差し出した。その時、ふと寒気がするような感覚を覚えた。天草さんの背後に目をやると、教室の少し離れたところで友人たちと談笑していた恵梨さんが、突き刺すような視線を俺の方へ向けている。
「……いや、やっぱりやめとこうかな」
俺が弁当箱を引っ込めると、天草さんはこれ見よがしに両目を手で覆った。
「私、実は今日お弁当忘れてきちゃったの。だからこのままじゃお昼抜きになっちゃう。とてもひもじい」
泣き真似をしているが表情は変わっていない。だが表情など見なくても、俺にはそれが嘘だと分かる。どんなにポーカーフェイスの上手い人間でも、嘘をつくと感情が動く。嘘をついた時に特有の色が天草さんの顔に浮かんでいた。
「本当は食べたんでしょ、天草さん」
「バレた。七瀬、嘘見抜くの上手いよね」
「今のに関しては天草さんが分かりやすすぎるよ」
その時だった。「スキあり」と呟いた天草さんの手が素早く動き、ハンバーグの欠片を弁当箱の中から掻っ攫った。
モグモグと咀嚼して、ゴクリと嚥下した後、満足げな表情で天草さんは俺のことを見た。
「想像通り美味しい。ありがとう七瀬」
「よりによって一番大きいやつ……まあいいか」
「代わりにこれあげる。物々交換」
天草さんは制服のポケットから飴玉を取り出して机の上に置いた。ありがたく頂いておく。それから彼女は呟いた。
「……なんだか、夏目の弁当と味付けの傾向が似てる気がする」
鋭いことを言う。どうやら天草さんは恵梨さんの弁当も分けてもらった経験があるようだ。同じ人が作った弁当だから、似ているのは当然なのだが……しかし、俺と恵梨さんが同居していることは、学校では公言していないのだ。
「偶然じゃない?」
「そう?」天草さんは首を傾げた。「ならいいけど」
深く切り込まれなかったことに安堵しつつ、俺は食事を続けた。
用事は終わったのだろうが、天草さんは相変わらず俺の席の前に陣取って話を続ける。
「ねえ七瀬。嘘を見抜くコツとか、あるの」
「コツ?」俺は卵焼きを口に運びつつ聞き返す。
「みんな言ってる。七瀬に嘘はつけないって」
「そうなの?」
自分では自然に振る舞っているつもりだったのだが。
「そう」と、天草さんは頷いた。「いつもどうやって見抜いてるの?」
「顔を見ればなんとなく分かるんだよ」
俺は答えた。「ふーん」と興味があるのか無いのかよく分からない返事をよこし、天草さんは自分の席に戻っていった。
遠くにいる恵梨さんと目が合う。彼女は友人と会話しながら、こちらを横目に見ていた。目が合って数秒すると、すぐに逸らされてしまった。
その日は恵梨さんと一緒に帰宅した。電車を降りたところでスマホを出すためにポケットを探っていると昼間天草さんに貰った飴玉が出てきたので口に放り込む。丸い飴玉が口の中で転がって、粘っこい甘みが口腔内を満たした。
「七瀬くんってさ」恵梨さんが隣を歩きつつ口を開く。「千影ちゃんと仲良いんだっけ?」
「え? 天草さんと?」お昼のことを言われているのだろうとすぐに察しがついた。「いや、普通だと思うよ」
「ふうん……」
恵梨さんは昼間と同様、冷ややかな視線で俺のことを刺した。
「な……なに?」
「仲が悪い人とは、お弁当交換したりしないよね?」
と、質問を返される。
「アレは……天草さんから言ったんだよ? いつも俺の弁当が美味そうに見えるって」
「今度私ともお弁当交換しようか」
恵梨さんは唐突に提案してきた。
「どっちも店長が作ったお弁当だけどね」
俺がその話を承諾すると、それきり恵梨さんはおとなしくなった。
もしかすると、恵梨さんも誰かとお弁当を交換したり、そういうことをしてみたかったのだろうか。恵梨さんは人間に近づくことを目的として作られた人工知能だ。人間の模倣をすることが彼女の生きる意味と言ってもいい。だから、そういう同年代の高校生らしいイベントに憧れるのは理解できる。
でも、それだったらわざわざ俺と交換しなくてもいいのではないか。現に天草さんとは一緒にお昼を食べていたみたいだったし……。
やっぱり、恵梨さんの考えていることは、まだよく分からないことも多い。
*
学校から帰ると店を手伝って過ごすのが日課になっている。その日は窓際の席に
「珍しいですね。土曜以外に来てくださるの」
お冷を持っていくついでに話しかける。店内には他に客もいないし、少しくらい雑談したところで目くじらを立てるような人もいない。月森さんとは先日の一件以来、多少気さくに話せるような間柄になった。
「家で淹れるコーヒーより、こちらの方が美味しいですから」
月森さんはいつものようにホットのブレンドコーヒーを注文した。オーダーを受けた店長がドリップしたコーヒーをテーブルまで運ぶ。ありがとうございます、と小さく頭を下げる月森さんへ、俺は尋ねた。
「そうだ。最近、お仕事の方は順調ですか?」
カラスのヨルがいなくなった時、未来予知の占いが上手く行かなくなったという話を以前聞いた。もっとも、俺の推論が正しければ、ヨルが戻った今、月森さんの占いも正常に作動しているはずだ。
「おかげさまで、最近は未来を見る力もだいぶ安定してきました」
「それはよかったです」
「個人の方からの依頼も色々と受けているんです。七瀬さんもよろしかったらいらしてください。恵梨さんも一緒に」
「ぜひ行きたいですけど……。でも、俺たちみたいな高校生が行ったら、浮きません?」
「そんなことはありません」と、月森さんは言った。「この間も七瀬さんと同い年くらいの方がいらっしゃいました。少し──不思議なお客様でしたが」
その時、月森さんの感情に疑念の色が混じった。とはいえ、この間のように深刻な悩みではなさそうだ。わざわざ聞き出すほどのことではないとも思ったが、月森さんは話を聞いてほしいように見えた。俺は尋ねた。
「不思議、と言いますと?」
「占いを受けていただけなかったのです」と、月森さんは言った。「その方はブレザーの制服を着ていらっしゃって、明らかに高校生と分かるような身なりをしていました。占いの前に私はその方の生年月日を聞いたのですが……六年前だったのです」
「え? 六年前って……その高校生の生年月日が、ですか?」
月森さんはコーヒーカップを両手で包みながら頷いた。
「つまり、本当は六歳だった?」
「あの方の言った生年月日を信じるなら、そういうことになります」月森さんは小さくため息をついた。「結局、私が生年月日のことを聞き返すと、その方は動転してしまわれたのか、占いを受けずに帰ってしまったのです。何かのっぴきならない事情があるとしか思えません。詳しいことは分かりませんが、とにかく同情を禁じ得ません」
「それは確かに妙な話ですね」
俺は曖昧に相槌を打っただけだった。自称六歳の高校生の話は個人的にも気になるが、客の個人情報もあるし、あまり軽率な話は出来ないだろう。ごゆっくりどうぞ、と型通りの挨拶をして、俺は厨房の方へと戻った。
俺と恵梨さんが「彼女」に会ったのは、その次の日曜のことだった。
*
厨房から俺と恵梨さんは二人して客席の方を覗いている。入り口付近の席に、制服姿の女子高生と、小学校低学年くらいの女の子が座っていた。二人は年齢こそ離れているが、その顔立ちはとてもよく似ている。姉妹だろうか、と俺は考えた。
問題は、その女子高生が着ている制服が、俺と恵梨さんの通っている高校のものと全く同じデザインをしているということだった。俺や恵梨さんはスラックスを履いていて、件の客はプリーツスカートを履いているという違いこそあれ……間違いない、うちの学校の生徒だ。
「知らない顔だな。上級生かも」
俺は言った。
「うーん……」
恵梨さんは納得いかないような顔で唸っている。
「いくら恵梨さんの顔が広いからって、全校生徒全員を知ってるわけじゃないでしょ?」
その時だった。問題のお客が「すみませーん」と店員を呼んでいる。店員である俺はすかさず注文票を構えて飛び出した。
「お決まりですか」
「メロンソーダ二つお願いします」
女子高生の方が注文し、子供の方は無言でメニューを眺めていた。
彼女が声を発した瞬間、俺には分かった。彼女は悩みを抱えている──それも、何かしらの深刻な悩みを。この間の月森さんと同じ程度には深刻そうだった。
しかし、常連で顔見知りだった月森さんはともかく、彼女は今日初めて来た客だ。一瞬悩んだが、結局俺は「かしこまりました」とだけ答えて引き下がった。
厨房に戻ると、恵梨さんは機械的なペースでカレーの入った鍋をかき混ぜつつ、しきりに首を傾げていた。
「やっぱりヘンだよ」
「なにが?」
「あのお客さん。うちの学校の制服着てるけど、うちの生徒じゃないと思う」
「そうなの?」
「私って、一度目で見た人の顔は自動的にデータ化してストレージに保存する仕組みになってるのね」と、恵梨さんは説明する。「学校の生徒だったら、廊下ですれ違うとか、全校集会の時とか、とにかく一度くらいは絶対視界に入ってるはずだよ」
「そうだった。俺が間違ってたよ」
恵梨さんは全校生徒全員を知っているのだ──誇張ではなしに。時折、彼女を人間のように扱ってしまう癖が俺にはある。
でも、恵梨さんが知らないというのはどういうことなのだろう。制服には校章が刺繍されているから、他の学校ということはまずあり得ない。となると残る可能性は「既に卒業したOGが制服を着続けている」「何らかの理由で我が校の生徒から制服を借りた」「生徒ではあるが、学校に来ていない」と、こんなところだろうか。
真相を知る方法は本人に直接問いただすことのみだが……、そんな大それたことをする度胸は流石に無かった。彼女が何者であれ、今は彼女が客であり、俺はこの店の従業員なのだ。
シュワシュワと泡を立てるメロンソーダを銀色のお盆に乗せて運ぶ。上には丸いバニラアイスが乗っていて、真っ赤なチェリーが存在感を主張していた。「お待たせしました」と言いながらテーブルの上にコップを並べる。
「ご注文以上でお揃いでしょうか」
「はい」と女子高生が頷く。
「ごゆっくりどうぞ」
「あの」彼女は俺を呼び止めた。「七瀬ケイさん……ですよね」
「え?」
思わず聞き返した。夏目珈琲店では、店員は名札を付けていない。彼女の前で店長や恵梨さんから名前を呼ばれたこともないはずだ。
「どうして自分の名前を?」
「七瀬さんなんですね。やっぱりこの時代だと若い……」彼女は俺の目を見据えた。「私の名前は
「相談って……どうして俺に? 失礼ですけど、初対面ですよね?」
「でも、私はあなたのことを知ってるんです」新堂さんは言った。「これから常連になる予定ですから。それに、これにも書いてあるし」
彼女はカバンから一冊の大学ノートを取り出した。表紙には手書きの文字で「困った時に読むこと!」と書かれている。
「これに書いてあったんです。この時代で困ったら、夏目珈琲店のアルバイトを頼れって。七瀬ケイさんと、夏目恵梨さんは、必ず力になってくれるって」
「すみません、話が見えないんですが」
彼女が何らかの悩みを抱えていることは分かっている。
「どんな相談なんですか? 俺たちに関係があるような話ってことですか?」
「いや……そういうわけじゃないんだけど」新堂さんは答えた。「えっとね、まず最初に前提から説明すると、私は未来から来ました」
「……そうなんですか? それはその……どのくらいの?」
「十年後です」彼女はそう答えて、真正面に座る少女に目を向けた。「ちなみにこっちは、現代の新堂咲。過去の私です」
俺は二人の顔を見比べる。姉妹だとしてもあまりに顔が似すぎていると思っていたが、同一人物だとすればそれも納得だ。新堂さん(未来)は高校生くらいで、新堂さん(現代)は六歳くらい──「十年後から来た」という話とも合致している。
いちいち新堂さん(未来)と新堂さん(現代)と呼び分けるのも面倒なので、心の中で俺は二人のこと「新堂さん」と「咲ちゃん」と呼び分けることに決めた。
「今、証拠見せますから」と、新堂さんは例のノートをめくり始めた。「あれ?」
「どうしたんですか?」
「いや……これ、私が未来で預かってきたノートで、こうすれば未来人だって信じてもらえる、みたいな方法がメモしてあるんですけど。七瀬さんについては、別に何も証拠とか見せなくていいって書いてあるんです」
「そうですね」俺は頷いた。「証拠とか無くても、嘘ついてないって分かるので」
新堂さんと会話している間、彼女に嘘の色は浮かんでいなかった。
「信じますよ。あなたの言ってること」
俺が言うと、新堂さんは反対に狐につままれたような顔になった。
「よかったじゃん。手間が省けて」
チェリーをつまみ上げながら、咲ちゃんが淡々とした口調で言った。
「うん、まあ、確かに」新堂さんは頷いて、俺の方へ向き直る。「じゃあ、今日のお仕事終わった後、ちょっと時間もらえますか。できれば、夏目恵梨さんも一緒に」
「伝えておきます」
俺はそう答えて仕事に戻った。「感謝感激です!」と新堂さんは手を合わせていた。
閉店後の店内、ほとんどの椅子は清掃のためにテーブルの上に上げられているが、端のテーブルだけは椅子を下ろしたままにしてあった。そのテーブルに、新堂さんが座り、正面に俺と恵梨さんが座っている。咲ちゃんは少し離れたところで待っていてもらっている。彼女の相手は店長が引き受けてくれた。
「なるほど。つまり新堂さんは私たちの十年後輩に当たるってことか」
話を聞いた恵梨さんは、あっさりとその話を受け入れた。
「制服のデザイン、十年後も変わらないんだね」
「まあ、そうそう変わるものじゃないでしょ」と、俺は言う。
新堂さんは当惑したように俺と恵梨さんの顔を見比べていた。
「あの……随分あっさり信じましたね? 私が未来人ってこと。この時代の舞にだって、いまだに信じてもらえてないのに……」
「さっきも言いましたけど、俺はあなたが嘘をついてないって分かるので」
「私は、七瀬くんが信じるって言うなら信じます」
「それで、」俺は話を軌道修正する。「俺たちに相談したいことがあるんですよね?」
「そうなんです」新堂さんは頷いた。「相談したいのは、私のお隣さんのことで」
「お隣さん、ですか」と俺は聞き返す。
「
ということは、この時代では中学生くらいだ。頭の中で計算し、古屋さんの姿をイメージする。
「年齢は離れてるけど、私と舞は親友なんです。でも、この時代ではまだ、ただのお隣さんのまま。きっかけは私が未来から来たことなんです。私が未来から来て、この時代の舞と友達になって……私はもうすぐ未来に帰らないといけないんですけど、それがきっかけでこの時代の私と舞の交流も始まるんです」
俺は店長と遊んでいる咲ちゃんの姿を見やった。新堂さんは話を続ける。
「でも……私がこの時代に来てから二週間くらい経ってるんだけど、まだ私は舞と友達になれてない。私がこの時代にいられるのはあと一週間くらいです。このまま私が舞と友達になれないままだと、私のいる未来と矛盾が生じて大変なことに……」
「タイムパラドックスってやつですか」と、恵梨さんが言う。
「そうです」
「大変なこと、って?」と、俺も尋ねた。
「まさに驚天動地です」新堂さんは言った。「世界が崩壊するかも」
恵梨さんが息を呑んでいる隣で、「そうなんですか」と俺は答えた。
「事情は分かりました。とにかく、あと一週間くらいの間に、その古屋舞さんと友達にならなきゃいけないってことですね」
新堂さんは頷いて、テーブルに両手をついて頭を下げた。
「お願いします! 私が舞と友達になれるよう、力を貸してください!」
新堂さんは咲ちゃんを連れて帰って行った。今度、古屋さんを連れて改めて店に来るらしい。その時、自分が古屋さんと友達になれるよう、それとなく上手に口を利いてほしい──というのが、新堂さんからの依頼だった。俺と恵梨さんは、ひとまず新堂さんと連絡先を交換した。彼女のスマホは最新型の割に年季が入っていた。この時代で違和感なく使えるモデルを未来で調達して、こっちに来てからSIMカードだけ入れ直したらしい。
その日の夜、食事を終えた後のこと。俺は恵梨さんに尋ねた。
「さっきの新堂さんの話、どう思う?」
「未来人って話は本当なんでしょ?」
「うん」俺は頷いた。
新堂さんの話に、概ね嘘は無かった。信じがたいことだが、彼女は本当に十年後の未来から来たのだ。
「未来の後輩の頼みだもん。無碍には出来ないよね」
と、恵梨さんは言った。そうだね、と俺も同意した。
火曜日。俺と恵梨さんが学校から戻ると、新堂さんが見知らぬ少女を連れて待っていた。水色のパーカーに身を包んだ、中学生くらいの女の子だった。
「もしかして、古屋舞さん……ですか」
俺は尋ねた。少女は頷く。コーヒーカップを両手で持ったまま、こちらと目を合わせることなく、小さな声で「はじめまして」と言った。少し怯えているような色が見えた。俺個人に対して、と言うより、初対面の相手と話すのが得意ではないタイプなのかもしれない。
俺と恵梨さんは制服から着替え、エプロンを身につけて改めて新堂さんたちの元へ向かった。それと同時に、新堂さんはメロンソーダをズズッと啜って立ち上がる。
「じゃあ、私は先に戻ってるね」
「え……」古屋さんは不安そうな声を発した。「じゃあ、私も……」
「舞はこの人たちと話してなよ。私は帰ってやることあるから」
「やることなんて無いでしょ、いつも暇そうにしてるくせに……」
「一刻千金だよ、舞。未来人は意外と忙しいの。じゃ、そういうことで。遅くなるようだったら迎えに来るから連絡して」
そう言い残すと、新堂さんは本当に帰ってしまった。後には古屋さんがぽつんと一人残される。
しばらく気まずい沈黙があった後、古屋さんは遠慮がちに言った。
「あの……コーヒー、もう一杯もらえますか?」
コーヒーカップをテーブルの上に置くと、「ありがとうございます」と呟くような声で言って、古屋さんは小さく頭を下げた。
「咲さんから、何か言われましたか?」
と、古屋さんは尋ねてくる。
「事情は聞いてます」
「あの人が未来人だとか、私と友達にならないと世界が崩壊するとか?」
「まあ、だいたいそんな感じの話を」
古屋さんは、はあ、とため息をついた。
「ごめんなさい……迷惑かけて。あの人、ちょっと変なんです。自分のこと、本気で未来人だって信じてるみたいで。多分、新堂さんちの親戚か何かだと思うんですけど。最初はふざけてるのかと思ったけど、何だかやたらと真剣なんです。ここ二週間くらい、毎日私の部屋に来て……。まあ、悪い人じゃないみたいですけど」
本心から辟易しているわけではないというのは、色を見れば分かった。
「そもそも、私なんかに構ってる時点で変ですよね? あの人、昼間から毎日私の部屋に来てるあたり、学校にも行ってないみたいだし。まともな高校生だったら、私みたいな中学生に絡んでないで同年代の人と遊んだりするものでしょ」
俺も友人が多い方ではないので下手なことは言えなかった。
「彼女──新堂さんがあなたと友達になろうとしてる気持ちは、本心だと思いますよ」
「どうしてそんなこと言えるんですか? 咲さんとはこないだ初めて会ったんですよね?」
それは俺が超能力者で、彼女の感情が見えるから──とは、流石に言えない。押し黙った俺を見ると、古屋さんは立ち上がった。
「私、やっぱり帰ります」
一杯目のコーヒーのお金は既に新堂さんが支払っていたので、古屋さんは二杯目のコーヒーの代金だけ置いて帰って行った。「また来てください」と俺は言った。定型的な挨拶ではなく、本心からそう思っていた。
その日、閉店後の掃除をしていると、店長から呼ばれた。
「恵梨、七瀬くん。ちょっと」
「もしかして、古屋さんのこと?」
恵梨さんが聞くと、店長は頷いた。てっきり「客に深入りしすぎるな」と苦言を呈されるのかと思ったが、そうではなかった。
「あの子、君たちが帰ってくるよりだいぶ前から店に来てたんだよ。それこそ、普通の学生ならまだ学校に行ってるはずの時間から。私も少し話したけど、多分、学校自体に行ってないんだと思う」
「そうかもしれません」
俺もその可能性はあると踏んでいた。古屋さんは新堂さんについて話す時、「昼間から毎日私の部屋に来ている」と言っていた。それはつまり、古屋さん自身も毎日昼間から自室にいるということに他ならない。年齢的には中学生のはずの古屋さんが昼間から家にいるということは、学校には通っていない可能性が高いということになる。
「あの子がどういう理由で学校に通っていないのか、あるいは通えなくなったのか、それは分からない」店長は言った。「でも、何にしろ、当人にとっては深刻な問題だってことには間違いないと思う。だから……もし彼女に深く関わるつもりなら、慎重にね」
「分かってる」恵梨さんは頷いた。「七瀬くんがいれば大丈夫だよ。藤花も知ってるでしょ?」
「分かってるなら大丈夫。おせっかいを言ったね」
店長は話を終えて、俺たちは掃除に戻った。
翌日は月森さんが来店していた。珍しくカウンター席に座り、少し早めの夕飯──店長がじっくりと煮込んだカレーライス──を食べている。
思えば、月森さんが言っていた不思議な客というのは、新堂さんのことだったのかもしれない。彼女は未来人だから、生年月日と実年齢に矛盾が生じてしまう。そのことを忘れてうっかり本当の生年月日を口にしてしまったのではないか。
お冷が減っていたので、ピッチャーから新しく注いだ。そのついでに、俺はふと気になったことを尋ねてみた。
「月森さんって、時間のことに詳しいですよね? 未来とか、過去とか」
「詳しいかは分かりませんが……まあ、過去や未来を見ることを生業にしているのは事実ですね」
「タイムパラドックスって、本当にあるんでしょうか」
「時間的矛盾のことですか」
「はい」俺はコップをカウンターに置きながら頷いた。「未来から来た人が、現代で行動を起こす。その結果、本来の未来と矛盾が生じて、世界が崩壊してしまう。そんなこと、本当にあると思いますか?」
「私も時空論は専門外ですから、確かなことは言えませんが」月森さんはそう前置きしてから質問に答えてくれた。「理論的には、七瀬さんが言うようなことは起こらないと言われています。例えば私が十六世紀にタイムスリップして、本能寺の変を阻止したとしても、それで世界が崩壊するわけじゃありません。織田信長が生き延びたという別の世界線が新たに生まれるだけ。パラレルワールドという言葉は聞いたことがあると思いますが」
「並行世界、ですか。それが新しく生まれるだけで、本来の世界線に影響は無い、と?」
「そうです。だから、未来人が本当にいたとしても、焦る必要はないと思いますよ」
月森さんはプロの占い師だ。その彼女が時間について語ることには、それなりの信憑性がある。
「とはいえ……私も実際に未来人と会ったり、過去に行ったりしたことがあるわけではありません。理論はあくまでも理論ですから、あまり真に受けないでください。もし私のせいで七瀬さんがマルチバースを崩壊させてしまったら、同情を禁じ得ませんから」
「もし本当にそんなことになったら、同情どころの騒ぎじゃないですよ」
と、俺は答えた。
新堂さんから連絡が来たのは、その日の夜のことだった。自室の机の上にスマホを置き、スピーカーモードで通話を繋ぐ。後ろには恵梨さんもいた。
「七瀬さん、夏目さん、遅くにごめんなさい。こないだの舞、どうでした?」
「あまり役には立てなかったと思います、正直に言って」俺は答えた。「そもそも新堂さんが未来人だってこと自体、古屋さんは信じてないみたいでした」
「そうなんですよね。この時代の舞、なかなか頑固で。難攻不落ですよ、ほんと」
やれやれ、と呟く声が電話越しに聞こえた。電話で会話しているだけでは相手の感情の色は見えない。
「でも、私考えたんです。一発逆転の大作戦を。まさに起死回生ですよ」
「はあ……逆転ですか」
「そうです。要するにですね、きっかけがあれば舞と私は友達になれるはずなんです。なんて言っても未来の私たちはまさに唯一無二の大親友なんですから。だから、舞と一緒に出かける計画を立てたんです」
彼女が行き先として挙げたのは、都内にある遊園地の名前だった。
「あの……」後ろで話を聞いていた恵梨さんが声を発した。「私、古屋さんのことはまだよく分かってないんですけど。そういう遊園地とか、行きたがるようなタイプなんですか?」
「確かに、この時代の舞ははっきり言って引きこもり一歩手前です。まさに門外不出って感じで。全く家から出ないわけじゃないですけど、自発的に外出することは皆無だし、学校はもちろん、同年代の子に会いそうな場所は避ける傾向にあります」
「だったら、彼女の好き嫌いを無視して無理に連れ出すのは……」
恵梨さんが言うのを遮るように、新堂さんは続けた。
「もちろん、私もこの時代の舞の意思を無視するつもりはないです。舞が自分から行きたいって思うように考えました。秘策があるんです。舞が自分から飛びつくような、むしろ飛びつかざるを得ないような秘策が」
「秘策ですか。それはどんな?」
俺が尋ねると、電話口の向こうで新堂さんがニヤリと口角を上げるのが見えたような気がした。
「それはまさに秘中之秘です。お二人も、舞が誘いに乗ってくれるよう、それとなく誘導してもらえると助かります。それじゃ!」
一方的に告げると、新堂さんは電話を切った。
翌日、新堂さんは再び古屋さんを連れて夏目珈琲店にやってきた。
「話って何ですか? 咲さん」古屋さんは胡乱げな視線を新堂さんへ向けている。「わざわざこの店に来なくても、普通に私の家で話せばいいじゃないですか」
「私がこの店、気に入っちゃったから」
「そう……別にいいですけど」古屋さんはコーヒーカップを傾けた。「それで、話って?」
新堂さんはチラリとこちらへ目配せした。いざとなったら上手く助け舟を出してくれ、という意味だろう。俺は頷いた。
「舞、今度私とデートしよう! サンシャインドリームパークで!」
古屋さんは、はあ、と息をついた。
「行かないです。遊園地とか興味ないので」
「ふっふっふ」新堂さんはわざとらしい笑みを零した。「これを見ても同じことが言えるかな? 舞」
彼女が取り出したのは、一枚のチラシだった。俺は他のテーブルにお冷を運びつつ、それとなくそのチラシを覗き込んだ。
「これ……ガルファングの」
古屋さんは呟いた。カラーで印刷されたチラシには、特撮ヒーローの写真が大きく印刷されている。〈
「舞、これ好きでしょ? チケット取ったから、一緒に行こ」
新堂さんが言う言葉などまるで耳に入っていないかのように、古屋さんはチラシを食い入るように見つめている。
「これ、行きたかったけどチケット全然取れなかったやつ……なんで咲さんが?」
「私は未来人だからね。舞が欲しいものも、行きたいところも、全部知ってる。まさに博聞強記ってところかな」
俺が二人の会話をそれとなく聞いていると、いつの間にか隣に恵梨さんが立っていた。
「『機獣武装ガルファング』……十年くらい前にやってた特撮ドラマか」今、頭の中で検索したのだろう。「七瀬くん、知ってた?」
「知ってるよ。俺も見てたし」
機械の獣・メカビーストと契約した主人公がヒーローに変身し、宇宙からの侵略者から地球を守る──そんな内容の番組だったはずだ。
「そっか……俺が子供の頃にやってたから、もう十周年なのか。でも、あんなイベントやるなんて知らなかった」
広末円治と言えば、『ガルファング』本編で主人公を演じていた俳優だったはずだ。当時のキャストが十年ぶりに同じ役を演じるという、特別なステージなのだろう。
新堂さんは、古屋さんの顔を覗き込むように見た。
「ねえ、行くでしょ?」
古屋さんは逡巡するような表情をしていたが、やがて意を決したのか、遠慮がちに声を発した。
「行き……ます」
「やった!」新堂さんは満面の笑みで両手を合わせている。「まさに有頂天外だよ」
「でも」と、古屋さんは言った。「一つ条件があります」
「え? 条件?」
「私はまだ、あなたのこと百パーセント信用したわけじゃありません。その状態で、二人きりで出かけるのは無理です。しかも東京までなんて……。だから、誰か他の人も誘ってくれなきゃ行けません」
「そっか……考えてなかったな」新堂さんは腕を組んだ。「舞のお母さん……は、やめといた方がいいよなぁ。私のお母さんも、この時代の私の面倒見てなきゃいけないし」
彼女はそのまま椅子の背もたれに体重を預け、あてどころもなく視線を彷徨わせる。その視線と、成り行きを見守っていた俺の視線が空中で交錯した。
「そうだ! 七瀬さんは?」
新堂さんは手を叩いた。俺は当惑しながら二人のいるテーブルに近づいていく。
「俺……ですか」
「七瀬さんなら事情も分かってるし。あと、夏目さんも一緒に。ガルファングショーのチケットは二人分しか無いから、ショーの間は待っててもらうことになるんですけど、交通費とかパークの入園料はこっちで持ちますから」
悪くない話だった。
「ええと……日曜ですよね? 店を休めるかどうか、店長に聞いてみないと」
「いいよ」後ろから店長の声が聞こえてきた。「一日くらいなら。行ってきたら?」
「ありがとうございます! 店長さん、まさに徳量寛大ですね!」
まあね、と店長は手を振った。恵梨さんも俺の隣で頷いている。
俺は古屋さんの方へ視線を向けた。
「分かりました。古屋さんさえよければ、俺たちも同行します」
「あの……」古屋さんは一瞬だけ俺と目を合わせ、すぐにまた逸らしてしまった。「よろしく、お願いします……」
そしてやってきた日曜日。俺と恵梨さんは駅前で新堂さんたちと待ち合わせた。恵梨さんはくるぶしまで届くほどのロングスカートを履き、しっかりと機械的な下半身を隠していた。スカート姿は新鮮だが、よく似合っている。周囲には半袖姿の人ばかりで(俺も含む)、長袖のシャツを着た恵梨さんは目立っていた。
「熱中症に気をつけてね、七瀬くん」
「恵梨さんも、熱暴走に気をつけてよ」
彼女の体内構造には特殊合金が使われている。頑丈だが熱は吸収しやすい。
「お待たせしましたー!」
元気よく手を振りながら、新堂さんがこちらへ駆けてくる。後ろには古屋さんの姿もあった。古屋さんはシンプルなTシャツを身につけているのに対し、新堂さんは相変わらずの制服姿だった。
「ああ、これですか。外に出られるような服、これしか持ってないんですよね。未来から着てきた一張羅で」
俺の視線に気づいてか、彼女はシャツの裾を摘みながら説明した。
「じゃあ、早速出発しましょう」
新堂さんは改札を潜っていく。俺たちはその後に続いた。
JRに乗り込んで東京を目指す。電車の中は空いていた。ボックス席に腰掛けると、古屋さんは俺たちの方へ頭を下げてきた。
「今日はその……すみません。私のために休日を使わせてしまって」
「大丈夫だよ。私も遊園地ってどんなところか興味あったし」
恵梨さんは言った。
「夏目さん、遊園地行ったことないんですか?」
「うん。知識としては知ってるけど、実際に行くのは初めて」
「そっか……人は見かけによらないですね」
確かに恵梨さんのキャラで遊園地に行ったこともないというのは珍しいのかもしれない。実際には、彼女がほんの一年前までデータ上にしか存在していなかったせいなのだが……古屋さんは、そこまで深く疑問に思っているわけではないらしかった。
「遊園地なら待ってる間も退屈しないですしね」俺は言った。「ガルファングの十周年特別ステージ、俺も見たかったですけど。当日券とかは無いんですよね?」
「無いですね。そもそも、そんなに座席数の多い劇場じゃないですし。遊園地に併設されたステージだから、あんまり広くないんですよ。舞もそうだけど、ガルファングには根強いファンがいるらしくって。即日完売でした」
「なるほど。残念ですけど、恵梨さんと待ってますよ。観覧車でも乗りながら」
「あの……」古屋さんは遠慮がちに口を開いた。「七瀬さんも、好きなんですか? ガルファング」
「子供の頃見てましたから。メカビーストの玩具も持ってましたし。もしかしたら、まだ実家にあるかも」
今度妹に探してもらおうか。そんなことを俺が考えていると、古屋さんは身を乗り出してきた。その顔には興奮の色が浮かんでいる。
「面白いですよね、ガルファング……! CGとアナログ特撮が高いレベルで調和してて、CGのクオリティだって今見ても遜色ないくらいに高いし、まさに日本特撮界のオーパーツっていうか、脚本も本格的なSF要素があってすごく深いですし……」
古屋さんは早口で捲し立てるように言った。どうやら好きなものが絡むと饒舌になるタイプらしい。
「舞は今も未来も筋金入りの特撮マニアなんですよ」
と、新堂さんは説明した。古屋さんは恥ずかしそうに目を逸らした。
「それはそうと」新堂さんは手を合わせた。「このまま行けば、だいぶ早く着くでしょ? ショーが始まるまで時間あるし、少し遊んでいこうよ。舞、ジェットコースター好きでしょ?」
「いや……別に好きじゃないですけど」
「じゃあ、今日好きになるんだよ」新堂さんは鞄から、例の未来から持ってきたというノートを取り出して表紙を叩いた。「これに書いてある」
「まあ、どうせ暇でしょうから、乗ってもいいですけど……」
古屋さんは言った。渋々といった口調だが、満更でもなさそうな表情をしている。
その時だった。「急停車いたします」と車内アナウンスが流れ、ガタンと大きく車両が揺れた。
車両から異音がしたため、点検を行う必要がある、ということだった。俺たちはしばらくの間、止まった電車の中で待機することを強いられた。
結局、電車が動き出したのは一時間も経ってからのことだった。午前中にはパークに着いている予定だったのが、実際に着いたのは昼過ぎになってしまった。
「未来人なのに、知らなかったんですか? 電車が遅延すること」
古屋さんは冷ややかな視線を新堂さんへ向けた。
「うん……未来の舞から借りたノートには書いてなかった。多分、本来の歴史だと、私鉄を乗り継いで行ってたから、JRの遅延には巻き込まれてなかったんだと思う」
「そうですか」
「あの、ごめんね舞」
「なんで咲さんが謝るんですか」
「いや……未来人なのに、あんまり役に立たなくて」
「別にいいですよ。未来人なんて元々信じてないし」
新堂さんは少し落ち込んでいる。場に流れる不穏な空気は、超能力者でなくても分かるほどだった。
「まあ、ほら。早くに出たおかげで、まだショーまで時間もありますし」俺は努めて明るい声で言った。「一個くらいだったら、アトラクションに乗る時間もあるかも」
しかし入館料を払ってパークに足を踏み入れた瞬間、俺は自分の考えの甘さを思い知ることになった。見渡す限りの人の群れが園内を埋め尽くしている。親子連れに、カップルに、ポップコーンのカゴを首からぶら下げた女子高生に……。都内有数の遊園地・サンシャインドリームパークの人気を舐めていた。
目当てのジェットコースター〈ドリームシャトル〉の前にも、当然ながら長蛇の列が出来ていた。最後尾に立つ係員は「二時間三十分」と書かれた看板を持っている。
「……流石に無理だよね?」
俺は隣に立つ恵梨さんへ話しかける。彼女のカメラ・アイが素早く動き、列を観察した。
「この人数なら、実際は二時間くらいあれば乗れそうだけど……」
俺は腕時計を一瞥した。
「ショーには間に合わないな」
意気消沈している新堂さんとは裏腹に、古屋さんはドライだった。
「私は乗れなくても別に。元々興味も無かったですし」
そう言いながらも、彼女の顔には少しだけ残念がるような色が浮かんでいた。
「そうだ、お昼!」新堂さんはわざとらしく大きな声を出した。「お昼食べに行こ! パークの中にフードコードがあってね。未来の舞がオススメしてたグルメ、ばっちり把握してるから」
彼女はノートを大事そうに抱えながら、人混みを突っ切るように歩き出した。
パークの中央付近にフードコートはあった。ここも人でごった返しているが、奇跡的に四人がけの席を見つけることが出来た。恵梨さんの空間分析能力の賜物である。
「ここのフードコートのハンバーガーが超美味しかったって、未来の舞が言ってたんだよね。というわけで、私注文してくるから。あ、七瀬さんと夏目さんも、同じのでいいですか?」
「大丈夫です。お願いします」
ロボットである恵梨さんはもとより、俺も基本的には何でも食べられる。
恵梨さんと古屋さんと、三人で新堂さんが戻るのを待つ。新堂さんがいなくなると、古屋さんは露骨に口数を少なくした。いたたまれないような雰囲気で、忙しく視線を動かしている。
「人混みは苦手ですか?」
俺は尋ねた。古屋さんの肩がピクリと跳ねる。
「いえ……むしろ、人が多いところの方が落ち着きます。他人の中に埋没して、同化できるから」
やっぱり彼女は、新堂さんと一緒にいる時の方が幾分かリラックスしている。その証拠に、俺や恵梨さんしかいない時は、まだ少し緊張の色が見えていた。口には出さないが、彼女なりに新堂さんへの信頼があるのかもしれない。
「あの、私、お手洗いに行ってます」
古屋さんは立ち上がった。化粧室へと向かうその小さな背中を目で追っていると、隣から恵梨さんの声が聞こえてきた。
「あのさ、私、一つ疑問なんだけど」
「疑問って、何が?」
「新堂さんが古屋さんと友達にならないと、タイムパラドックスが起こってこの世界が滅びる……新堂さんはそう言ったんだよね? でも、何を持って友達になったってことになるのかな? どういう基準をクリアすれば、友達になったって認められるんだろう?」
「確かにね。そういう人間関係って、他人が証明してくれるものでもないし」
「私と七瀬くんは友達だよね?」
恵梨さんは聞いてきた。改めて聞かれると不安になるが、向こうがそう言ってるのだからそうなのだろう。俺は頷いた。
「そうだね」
「いつから友達だったんだろう?」
「どうだろうね。明確なきっかけは無かったと思うけど」
「クラスにも仲良い子はいっぱいいるけど……でも、みんな気が付いたら友達になってたって感じだったな」
「誰が友達で、誰が友達じゃないかなんて、明確な基準があるものじゃないと思うけどさ。でも多分……一緒にいる時に自然体で、リラックスしていられるなら、その人は友達なんだと思う」
俺は思う。もし俺の言うことが正しいのなら、新堂さんと古屋さんは、もうすでに友達になっているのではないか、と。
やがて古屋さんが戻ってきて、俺と恵梨さんの会話は打ち切られた。
それから十分ほどした後。テーブルの上には、新堂さんが注文してきてくれたハンバーガーが四つ並んでいる。バンズにはこんがりと焼き色が付き、野菜はみずみずしく、パティから肉汁が滴っていた。
「どうよこれ! まさに珍味佳肴でしょ!」
確かに食欲がそそられる。新堂さんは早速バーガーを両手で掴んでかぶりつこうとした。その瞬間、彼女の顔から表情が消える。
「あ……やばい」
「何がやばいんです?」思わず聞き返した。
「いや、私としたことが、トマト抜いてもらうの忘れてて」
「トマト? 食べられないんですか?」
「私は大丈夫なんですけど……舞が」
「……なんで知ってるんですか? 私がトマト嫌いなこと」と、古屋さんが尋ねる。「お母さんから聞いたんですか?」
「いや、十年後の舞もトマト食べられないから」新堂さんはため息をついた。「完全にうっかりしてた。私、もう一個注文してくるよ。今度はトマト抜きで」
「いいですよ。嫌いだけど、食べられないわけじゃないし。第一、もう注文しちゃったやつはどうするんですか」
「私が二個食べるよ」
「そんなことしなくても、私が我慢して食べればいいだけじゃないですか」
古屋さんは少し苛立った口調で言うと、卓上のバーガーをひったくるように掴んだ。小さな口を大きく開けて、中に挟まったトマトごとハンバーガーを齧る。彼女はわずかに顔を顰めた。さっきのやり取りで意固地になってしまったのか、古屋さんは黙々とバーガーを完食してしまった。
昼食を終え、ショーの時間が近づいてきた。
「色々あったけど、これが今日のメインだからね。私も舞と一緒に見られるの、すごい楽しみにしてたんだよ。まさに一日千秋って感じで」
新堂さんは意気揚々とシアターへ向けて歩いて行った。
パークの東端に設置されたシアターの周りにはガルファングのキャラクターがプリントされたのぼりが並び、チラシを持ったファンたちが物販の会場に列をなしていた。入り口ではジャンパーを着たスタッフがチケットのもぎりをやっている。
新堂さんは古屋さんを連れて入り口へと向かった。俺と恵梨さんはその背中を見送る。
「どうする? せっかくだし、恵梨さんが乗ってみたい乗り物とかあったら……」
「待って」恵梨さんは言った。「様子がおかしい」
俺は新堂さんたちの様子をうかがった。もぎりのスタッフが新堂さんたちを止めている。スタッフの女性が話す声が聞こえてきた。
「申し訳ありません、お客様。こちらA公演のチケットでして、ご入場いただけません」
「え?」当惑しつつ新堂さんは聞き返した。「違うチケットってことですか?」
「こちらのショーはA公演とB公演の二回ございまして、今はB公演のご入場を受け付けています。A公演は本日の十二時に終わってしまいましたので……」
気の毒そうな顔でスタッフは頭を下げている。新堂さんは呆然としていた。古屋さんは少し悲しそうな表情でため息をついていた。
とぼとぼとした足取りでこちらへ戻ってくる新堂さんへ、俺は何と声をかけたらいいのか分からなかった。
「まさに……まさに茫然自失です」
新堂さんはそれから、古屋さんに向かって深く頭を下げた。
「舞、ほんっとうにごめん! 完全に私の確認不足で……公演が二回あるなんて知らなくて。だから……」
「別にいいですよ」古屋さんは無表情に答えた。「元々、私じゃ取れなかったチケットですし。本来なら観られないはずのショーで、だから、プラスがゼロに戻っただけで、マイナスじゃないです。だから別に、気にしてません」
俺の超能力は直接相手と会話している時にしか作動しない。この時の古屋さんは新堂さんとだけ話していたから、彼女が本心では何を感じているのか、俺には分からなかった。
「そ……そうだ! 物販だけでも見ていく?」
新堂さんは言った。
「いいです。事後通販があるから」
「えっと……じゃあ、ジェットコースタ―乗ってこっか。並ぶ時間なら、たっぷりあるし」
「だから、いいです」古屋さんは首を振った。「それより、もう帰りたいです」
「うん……分かった」
新堂さんは残念そうに頷いた。「ごめんなさい」と俺たちに向かって謝る彼女の表情には、深い自己嫌悪の色が浮かんでいた。
昼前の中途半端な時間だからか、帰りの電車は空いていた。行きと同じようにボックス席に座ったが、新堂さんも古屋さんも声を発さず、俺と恵梨さんも話す気になれなかった。
「ごめん、今日……楽しくなかったよね」
新堂さんがポツリと呟いた。古屋さんは首を横に振った。
「本当に気にしてないですから。謝らないでいいです。ていうか、謝ってほしくないです。そんなに謝られたら、私が怒ってるみたいじゃないですか」
「……うん」
それきり新堂さんも言葉を発することはなく、電車はやがて俺たちの最寄駅に辿り着いた。
改札を潜るなり、古屋さんは言った。
「今日はすみませんでした。私、先に帰ってます」
「ま……待って、舞」
引き留めようとする新堂さんを、古屋さんは目線で制した。
「咲さんも分かったでしょ。私と出かけたって、楽しいことなんか無いですよ。咲さんも、こんなくだらない未来人ごっこなんかやめて、私なんかに構うのもやめて、大人しく同年代の人と遊んだりした方がいいんですよ」
俺たちや恵梨さんが呼び止める暇もなく、彼女は足早に駅を離れていった。
駅前の道を新堂さんはとぼとぼと歩き、俺と恵梨さんはその後ろを付いていった。
「あの……今日は災難でしたね」
俺が声をかけると、「うぁーっ!」と頭を抱え、新堂さんは道の端にうずくまった。
「なんで私っていつもこうなの……まさに行尸走肉だよ……」新堂さんは俯いたまま顔を両手で覆った。「もう消えたい……はあ……」
「元気出してください、新堂さん」恵梨さんは声をかけた。「まだチャンスはありますよ」
「もう無理ですよ」新堂さんはうずくまった姿勢のまま顔だけを上げて答えた。「舞にも絶対愛想尽かされましたし、私がこの時代に来たのは、完全に失敗でした」
またしても大きくため息をつき、新堂さんは例のノートを取り出した。
「このノートの通りにやれば、絶対に上手く行くって思ったのに。未来の舞、言ってたんです。この日、未来から来た私と一緒にサンシャインドリームパークに行って、それがとっても楽しかったって。だから私も同じことをすれば、絶対舞と友達になれるって、そう思ったのに。結局私は肝心なところでいつも抜けてて、失敗ばかりで……。きっと私は、舞の友達になった〈新堂咲〉とは別の世界線から来たんです。やっぱり私は、舞と友達になれるような人間じゃなかった」
そんなことはない、古屋さんはあなたに愛想を尽かしてなどいない。今日はたまたま上手くいかなかっただけだ──と、俺は言おうと思った。しかし、その次の瞬間、新堂さんは勢いよく立ち上がった。大きく息を吸って、また吐く。
「ごめんなさい! 急にネガティブなこと言って。夏目さんが言う通り、まだチャンスはありますよね。私が未来へ帰る予定の日まで、まだ時間はありますし。だから……もう一度アタックしてみます。まさに捲土重来ですよ!」
彼女は笑顔を見せていたが、その裏には激しい焦りと、悲観の色が浮かんでいた。
夏目家に帰り着く頃には、すっかり夕方になっていた。電車で長時間移動し、人混みに揉まれたせいか、身体中に疲労が蓄積していた。
カウンターにいる店長に挨拶をしてから二階へ向かった。リビングのソファに腰掛けると、心身に溜まった疲労が滲み出てくるような気がした。
「ねえ、このままじゃヤバいんじゃない?」恵梨さんは言った。「だって、新堂さんが古屋さんと友達になれないと、タイムパラドックスで宇宙が崩壊するんでしょ?」
「いや……そこは多分、大丈夫」俺は答えた。「それはともかく、新堂さんのことは心配だな。あまり自分を責めすぎないといいんだけど」
「うん、確かに」恵梨さんは頷いた。「きっと舞ちゃんも、新堂さんの気持ちは分かってると思うんだけどなぁ」
夕飯を終えて、キッチンで皿を洗っている時のこと。ポケットに入れていたスマホが震え出した。手に付着した泡を洗い流し、軽く手を拭いてからスマホを取り出す。
「新堂さんからだ」
俺が呟くと、恵梨さんが反応して近づいてきた。
「何かあったのかな」
俺は電話を耳に当てた。
「はい七瀬です」
「もしもし? 七瀬さんですか?」新堂さんの声は切迫していた。「あの、舞がそっちに行ってませんか?」
「古屋さんが? いえ……来てないと思いますけど」
「そうですか……」
「何かあったんですか?」
「舞が帰ってこないんです。先に帰るって言ってたのに。最初はどこか寄り道してるのかと思ったんですけど、流石に遅すぎるから、心配になって」
「古屋さんのご両親は何て?」
「舞のお母さんは、まだ仕事で、連絡つかなくて……。合鍵で舞の家に入ったんですけど、もぬけの殻でした」
「分かりました」俺は恵梨さんと目を合わせた。「俺たちも一緒に探します」
「ありがとうございます。一旦、駅前で合流しましょう」
電話を切るなり、恵梨さんと頷き合い、俺たちは家を飛び出した。
「またこないだみたいに探せないかな? ヨルを見つけ出した時みたいに、音を聞き分けて」
駅の方向へ向けて急ぎつつ、俺は恵梨さんへ聞いた。彼女は首を横に振った。
「声を聞けないと無理だよ。舞ちゃんがぶつぶつ独り言を言いながら屋外を歩いてるって言うなら話は別だけど……」
「そういうタイプには見えなかったよね」
地道に足で探すしかないということだ。カラスは自力でも生きていけるかもしれないが、古屋さんは中学生の子供だ。おまけに、半引きこもりの。早く見つけないとまずいことになる。
駅前に着くと、落ち着かない様子で新堂さんは待っていた。俺は彼女の方へ駆け寄ると、挨拶も抜きに告げた。
「夏目珈琲の近くにはいませんでした。そっちは?」
「家の周りは一通り調べたけど、見つかりませんでした」
そう答える新堂さんは、泣きそうな目をしていた。
「舞がいなくなったの、私のせいかもしれない……です」
彼女は本心からそう思い、自分を責めていた。俺は思わず言った。
「考えすぎですよ。今日はちょっと、たまたま上手くいかなかっただけじゃないですか。そんな程度のことでいなくなるなんて」
「そうじゃないんです。私が上手くやれなかったから……。未来の舞から聞いたんです。この時代の舞は、精神的に少し不安定だったって。学校にも馴染めなくて、家族とも折り合いが悪くて……いつも消えたいって思ってた……らしいです。自分をこの世界から消し去りたいって。でも、未来から来た〈新堂咲〉が、この私の存在が、舞をこの世界に引き留めた。引き留める──はずだった」
そこで俺は、ようやく腑に落ちた。
「それがあなたの本当の目的だったんですね」
「え? 本当の……って?」
恵梨さんは言った。俺は答えて言う。
「古屋さんと友達にならないとタイムパラドックスで世界が崩壊するっていうのは、嘘。多分、俺たちを協力させるための方便だよ」
俺は最初からそのことに気づいていたが、あえて指摘はしなかった。少なくとも、彼女が未来から来たということ、古屋さんと友達になろうとしていること、それは本心だったからだ。
「新堂さんが未来から来た本当の目的は、不安定で今にも消えてしまいそうだった中学生の古屋さんを救うことだったんだ。自分が彼女の拠り所に──友達になることで」
「そうです」新堂さんは頷いた。「だから私は、絶対に舞と友達になってあげなきゃいけなかった。あの子の生きる理由にならなきゃいけなかった。でも結局、空回って、失敗して、だから……」
じわじわと新堂さんのまぶたに涙が溜まっていく。
「大丈夫!」
恵梨さんは声を発した。その声に弾かれるように、新堂さんは顔を上げる。恵梨さんは彼女の瞳を真っ直ぐ見た。
「大丈夫です。絶対にまだ間に合います。だから、思い出してみてください。舞ちゃんが行きそうな場所を」
「でも……舞が失踪するなんて事件、本来の歴史じゃ起こらなかったはずなんです。だから、こんな時に舞がどこへ行くかなんて……」
「でも、新堂さんは六歳の時からの十年、舞ちゃんと友達だったんですよね? 推測できませんか?」
新堂さんは真剣な表情になった。少し考えて、彼女は答える。
「海に行ったのかもしれないです。舞って、一人になりたい時はよく海岸に行って海を眺めるから」
その推測に根拠は無い。だが、今は他に手掛かりも無い。
躊躇う必要はなかった。俺たちは改札を潜り、海へと向かう私鉄へ乗り込んだ。
列車に揺られ、一駅分だけ南下した。駅舎を出ると、夜の空気に磯の香りが混じっている。車道を挟んで向かい側に海岸の砂浜が広がっていた。夜の海は暗く、夜空との境目が見えなかった。
横断歩道を渡って海岸へ向かう。歩道から砂浜へ向かって階段が続いている。少し離れたところで、大学生らしき集団がはしゃぎながら手持ち花火を振り回している。砂浜の上で、犬に向かってフリスビーを投げている男性もいた。
コンクリートの階段の上に、一人の少女がぽつんと座っていた。
「舞」新堂さんは声を発して駆け寄った。古屋さんは振り返った。彼女の顔は泣きそうに歪んでいる。
「……どうやってここが分かったんですか。未来人だから?」
「ううん」新堂さんはかぶりを振った。「ただの勘」
「帰ってください。電車無くなる前には帰りますから」
「そういうわけにはいかないよ。今の舞を一人には出来ない」
新堂さんが肩に触れると、古屋さんはその手を払いのけた。
「ほっといてくださいよ」古屋さんの声は震えていた。「何なんですか。私なんかに関わって何が楽しいんですか。未来人とか、訳の分からないこと言って。私が可哀想だからですか? 友達がいなくて、不登校で、だから構ってあげなきゃって。そう思ってるんですか?」
「違う……違うよ舞。私は──」
新堂さんは弁解しようとしたが、古屋さんは立ち上がり、そのまま駅の方向へ走り去ってしまった。
新堂さんはすぐに彼女の背を追いかけようとする。
「待ってください」俺は言った。「今、無理に話しても逆効果かもしれません。俺が様子を見てきます」
彼女はわずかに逡巡し、それから俺の目を見て頷いて「お願いします」と言った。彼女の顔には悲壮の色があり、それでもまだ古屋さんのことを諦めていなかった。
無人の駅舎の前、改札の横のベンチに、古屋さんは一人で座っていた。俺はその目の前に立つ。
彼女はわずかに顔を上げ、また俯いた。
「……すみません。迷惑かけて」
「いいですよ。勝手にやってることですから」
どう話を切り出すべきか迷っていると、向こうから言葉を発してきた。
「七瀬さんや夏目さんは、信じてるんですか? 咲さんの話。未来がどうしたとか言ってるの」
「彼女の話は本当ですよ」俺は言葉を選ぶのをやめた。「タイムパラドックス云々は嘘というか、方便でしたけど……。でも、新堂さんが未来から来たのは本当です。それに、あなたと友達になりたがってること。それは絶対に彼女の本心です。だから、信じてあげてください」
「なんで……どうして七瀬さんにそんなことが断言できるんですか?」
「俺が超能力者だからです」
真剣な顔で古屋さんを見下ろした。彼女は小さく深呼吸をして頷いた。
「そうだったんですね」
「でも、新堂さんは超能力者じゃありません。ただの未来人です。だから、あなたが本心では何を考えて、新堂さんのことを本当はどう思っているのか。それは口に出さないと伝わらない。言いたいことがあるなら、言うべきです。相手が友達なら、なおのこと」
足音がわずかに聞こえた。俺は背後を振り返り、古屋さんも同じように目線を向けた。
新堂さんが、気まずそうな態度で立っていた。後ろには恵梨さんの姿もある。
俺は古屋さんの前からどいて、新堂さんに道を譲った。
新堂さんは古屋さんの隣に座った。俺と恵梨さんは二人を置いて、少し離れたところから様子をうかがっていた。二人の会話が波の音に混じって聞こえてきた。
「心配したよ、舞。このままいなくなっちゃうんじゃないかって」
「そんなことないです。考えすぎですよ」
「でも、今日の私、失敗ばっかりしてたから。舞に愛想尽かされたかなって、不安で。本来だったら、もっと舞を楽しませてあげられるはずだったのに」
古屋さんは大きく息をついた。
「それですよ。私が嫌だったの」
「え……」新堂さんは狼狽した。「それって、その、どれ?」
「『本来だったら』とか、『本当なら』とか、そんなのばっかりで。私と一緒にいる時も、いつも未来のノートばっかり見て。決められた未来のことばっかり気にして。結果的に失敗だったとしても、私は嬉しかったんです。ガルファングのショーのチケットを取ってくれたことも。ジェットコースターに乗ろうって言ってくれたことも。私のためにハンバーガーを選んでくれたことも。私は感情を表すのが苦手だから、伝わらなかったかもしれないけど……全部全部嬉しかったんです」
新堂さんは呆気に取られたような表情をしていた。古屋さんは涙目になって捲し立てる。
「本当は分かってました。咲さんが本当に未来から来たんだってこと。一番最初に会った時から。でも認めたくなかったんです。だって、咲さんが本当に好きなのは、未来の私なんですよね? 現代にいる私じゃないんでしょう」
「そんなこと……そんなことないよ。十年後の舞も、現代の舞も、どっちも同じくらい大切だよ」
「だったら、もっと今の私を見てください」
新堂さんは小さく息を呑んで、それから柔和な表情で古屋さんを見返した。
「ごめん。私、自分が知ってる歴史をなぞるので必死になってた。ちゃんとこの世界線の舞と向き合わなくちゃいけなかったのに、君の気持ちを蔑ろにしてたんだね」
「……分かってくれたなら、別にいいです」
古屋さんは目を逸らした。
「信じてくれるか分からないけど、私は本当に舞と友達になりたかったんだよ。この三週間くらい、ずっと舞と一緒に過ごして、テレビを見ながらおしゃべりしたり、ゲームやったり、たまに散歩に出かけたり。そういう時間の中で、この時代の舞と友達になりたいって……この世界線の君のことが好きだって思うようになったんだよ。こんなこと言われて、舞は迷惑かもしれないけど……」
「そんなこと、ないです」
古屋さんはわずかに頬を紅潮させながら首を振った。新堂さんは頭を傾けて、古屋さんの肩に体重を預けた。
俺は新堂さんにメッセージを打って、恵梨さんと二人、先に帰っていることにした。古屋さんはもう心配いらないだろうし、これ以上見守る必要は無いと思った。
*
それからの新堂さんはノートに捉われるのをやめて、めいっぱい現代という時代を謳歌するようになった。古屋さんと一緒に夏目珈琲店を訪れることも何度かあった。古屋さんは相変わらず表情に乏しかったけれど、例えば俺が注文を取りに行ったりして彼女と少し会話を交わす時、彼女の内側から楽しそうな色が溢れ出しているのが分かった。
新堂さんが未来に帰る日は、程なくして訪れた。その日はたまたま定休日だったので、俺と恵梨さんは彼女を見送りに行った。タイムスリップの瞬間がどういうものなのか、興味があったのだ。
新堂家の庭に、俺と恵梨さん、それに新堂さんと古屋さんが集まっている。未来の記録によって、新堂さんがいつこの時代を離れるのか、正確に分かっていた。
「そろそろかな」
新堂さんは左腕に巻きつけた腕時計を見ながら言った。すると、それまでずっと静かだった古屋さんが突然新堂さんにしがみ付いた。
「どうしても、帰らなきゃいけないんですか?」
「そうだね、こればっかりは」
「……帰らないでください」古屋さんは新堂さんの胸に顔を埋めた。「ずっとここにいてくださいよ。だって、咲さんがいなくちゃ私、楽しいことなんか何も無いです。友達もいなくて、家族とも相性悪くて。私には咲さんしかいないのに」
新堂さんは少し躊躇ってから、そっと古屋さんの頭を撫でた。
「私もこの時代は気に入ったけど、帰るべき時は決まってるんだよ。前にも説明したけどね。それに、未来で私を待ってる人もいるし。だからやっぱり、私は帰らないと。まさに会者定離……」そう言いかけて、新堂さんは首を横に振った。「いや、違うな」
古屋さんは新堂さんに抱きついた格好のまま、彼女の顔を正面から見上げた。
「お別れじゃないよ。だって、私はこの時代にだってちゃんといる。この時代に生きてる六歳の私も、今ここにいる十六歳の私も、どっちも同じ存在なんだって、君が教えてくれたんじゃない。だから、ね」
古屋さんの肩にポンと手が置かれた。新堂さんは、斜め下に向かって微笑みかけた。
「今度は舞の番。この時代の私と友達になってあげて。そうすれば私たちはまた会える。まあ、十年かかっちゃうけどね」
いつの間にか、庭にはもう一人、見送りが増えていた。まだ六歳の、この時代の〈新堂咲〉が、縁側に佇みながら、未来の自分自身を見ていた。
俺たちが見守る目の前で、新堂さんの周囲の空間が歪み出した。時空が捻れているのが視覚的に分かる。
「七瀬さんと夏目さんにはお世話になりました。このご恩は、十年後に必ず」
彼女は満足げな、達成感に満ちた色を浮かべていた。彼女の感謝は本心だ。これで夏目珈琲店は十年後も安泰だろう。少なくとも、一人の熱心な常連客は確保できた……はずだ。
新堂さんは古屋さんの細い体をぎゅうっと強く抱きしめて、それから距離を取った。
「またね、舞! この時代の私をよろしく!」
彼女の周りの空間が一瞬のうちに収縮した。再びその空間が元に戻った時、そこに新堂さんの姿は無かった。
縁側にいた咲ちゃんが、小さなサンダルを履いて庭に降りてくる。古屋さんは振り返った。十四歳と六歳の少女たちは、しばらくの間、互いの距離を測るように視線を交わしていた。
*
二人を残して、俺と恵梨さんは帰路についた。
「あー、やっぱり聞けばよかったかな」
恵梨さんは言った。「何を?」と俺は聞き返す。
「十年後の私たちがどうなってるのかを。やっぱり、その頃には私が店長かな?」
「現店長がそう簡単に後進に道を譲るとは思えない」俺は言った。「それに、新堂さんがどう言ったとしても、結局今の俺たちがどんな世界線を歩むかは分からないんだから。気にするだけ無駄だよ」
「割り切ってるね」
恵梨さんは、くすりと笑った。
「まあ、十年後になったら、さすがに俺は夏目家にはいないかもしれないけど」
と、俺は呟く。
「分からないよ?」恵梨さんは言った。「私が店長になったら、改めて七瀬くんを雇ってあげるから」
それはとっても悪くない提案に思えた。
〈つづく〉
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