不思議の町の珈琲店
佐々奈オルトス
第1章 カラスと占い師
Q:
〈クラスメイトAの証言〉
話しやすい子だなって思うよ。とっつきやすい感じっていうか。友達も多いんじゃないかな。同じ女子から見た感じだと。
本当は休みの日も遊んだりしたいんだけど、家の手伝いあるからって断られちゃってさ。確か恵梨ちゃんの家って喫茶店なんだよね?
まあいいや。ねえ、七瀬くんさ、今度恵梨ちゃんに土日のシフト空けられないか聞いてみてよ。
〈クラスメイトBの証言〉
恵梨ちゃんって成績いいんだよね。しかも教え方もすっごい上手くてさ。こないだのテストの時も絵梨ちゃんに勉強教えてもらって。おかげでうちのクラスの女子、赤点いなかったもん。
おまけに運動神経も良いし、性格も良いし……逆に聞きたいんだけど、あの子の欠点って何?
あ、でもプールの授業は毎回見学してるよね。もしかしてカナヅチなのかな?
〈クラスメイトCの証言〉
可愛い! 美人! 顔がいい! ビジュ優勝してる!
……え? そういうこと聞いてるんじゃないって?
*
人付き合いは得意な方だという自負がある。人間関係を円滑にするコツは、相手の気持ちを慮ること。相手の感情さえ分かってしまえば、他人と上手く付き合うのは難しいことじゃない。
でも、世の中にはそんな小細工じみたことをしなくても、他人に好かれる人間も存在するわけで。
夏目恵梨は、そういう存在だった。
クラスメイトの女子たちに囲まれる恵梨さんを、俺は遠巻きに見ている。いや、「見ている」という表現は誤解を生む。視界に入っているだけだ。
「今度さ、クラスの女子何人かでプール行くじゃん。恵梨も来る?」
クラスメイトの一人が、彼女に向かって尋ねる。
「月末の土日どっちかで調整してるんだけど」
「ごめん。行きたいんだけどね。ほら、お店の手伝いあるから」
えー、と不服そうな声を出す女子たち。恵梨さんは苦笑いで応じる。
「ほんっとごめん。土日は書き入れ時だからさ」
顔の前で両手を合わせ、可愛らしく片目を瞑る。
「しょうがないなー。今度埋め合わせしてもらうからね?」
もちろん、と恵梨さんは笑顔で頷く。
それから話題は、俺にはよく分からない女子特有のおしゃべりに遷移していく。ネイルとか、コスメとか、ファッションとか。声が大きいから勝手に聞こえてしまうのだけど、何だか盗み聞きしてるみたいで罪悪感が出てきた。
椅子を引いて立ち上がる。自販機で飲み物でも買ってこよう。
体育館の前に設置された自販機でボトル入りのコーヒーを一本買う。アイスコーヒーのひんやりした質感を手のひらで感じつつ、校舎へと戻る、その道中。
校舎の二階の窓に、恵梨さんと、友達の女子たちの姿が見えた。胸のあたりに教科書や筆箱を抱えている。そういえば午後は移動教室だった。昼休みはもうじき終わる。
窓を見上げていると、パチッと目が合った。視線に音なんて無いのだけれど、本当にパチッと音がしたような気がした。
恵梨さんは破顔して、こちらに向かって手を振ってくる。一緒にいる女子たちも窓を覗き込んできた。俺は咄嗟に目を逸らし、逃げるようにその場を後にした。
学校から電車に揺られること数駅。駅前のアーケード商店街に入って、そこから徒歩数分。レトロ調のフォントで書かれた〈夏目珈琲店〉の看板が俺を出迎える。入り口にかけられた〈Open〉の文字を横目に、俺は裏口へと回った。
扉を開く。店舗のバックヤードには、店長──夏目
「ただいまです、店長」
店長こと夏目藤花さんは今の俺の保護者にあたる人だ。独身の女性で、年齢はおそらく三十代半ばといったところ。夏目珈琲店の店長というのが肩書きである。
店長は俺の両親の古い知り合いだ。親元を離れて遠くの高校に通うことになった俺を居候させてくれている、大変懐の深いお方なのだ。本当に。
バックヤードを通り、二階へ向かう。
夏目家は木造スレート葺二階建てだ。一階部分が店舗で、二階は居住スペースがある。
炎天下の中を駅から歩いてきたから、とにかく喉が渇いた。キンキンに冷えた麦茶を体が欲している。俺はリビングへと続く扉を開いた。
ぶーん……と、虫の羽音のような無機質な音が響いている。扇風機が羽根を回している音だった。
リビングの端に置かれた扇風機の前に、一人の少女が──夏目恵梨さんが立っていた。
既に制服から着替え、Tシャツと短パンというラフな部屋着を着用している。学校では頑なに長袖しか着ず、スカートではなくスラックスばかり着用している彼女だが、今は腕も脚も露出していた。
Tシャツの裾を捲り上げ、その中に扇風機の風を送り込み、Tシャツの布がふわりと膨らんでいる。裾の隙間から、彼女のお腹がチラリと見えていた。黒く光沢を放つ、金属質の歯車、フレームボディ、そしてジョイント。人間だったらおへそがある位置には、排熱用の小さなファンが回っている。よく見れば、彼女の肘や膝にも関節の機構が露出しているのだった。
「あ、おかえり七瀬くん」
恵梨さんは扇風機の風を浴びつつ、視線だけを俺の方へ向けた。
「恵梨さん、何してるの?」
「いや、暑くて熱暴走しそうで」
彼女はそう言って扇風機の前から離れた。
夏目恵梨、彼女はおそらくこの地球で最も進化したAIを内蔵したロボットである。人工皮膚で覆われた顔の下には複雑な機構の人工表情筋が隠れており、表情はむしろ人間以上に豊かだ。
恵梨さんは店長の姉によって造られたらしい。人工知能研究の権威だった夏目博士は自身の研究の集大成として恵梨さんを作り上げた。
それが今から十六年前のこと。以来、コンピューター上に存在するデータ生命体として恵梨さんは育った。人間と同じように知識を得て成長していった。しかし、夏目博士は考えた。このままでは恵梨さんはどこまで行ってもデータでしかないのでは、と。そして夏目博士は、恵梨さんの十五歳の誕生日、彼女を高校に入れることに決めた。人間そっくりなロボットのボディを与え、試験を受けさせた。恵梨さんは試験を受け、受かった。こうして彼女は高校生になった。
ただし夏目博士の研究所は人里から離れたところにあり、子供を学校に通わせるのには向いていなかった。そこで博士はちょうど学校の近くで喫茶店を営んでいる独身の妹に恵梨さんを預けることにした。
こうして恵梨さんは夏目珈琲店の二階で暮らすことになった。その後で俺が居候することになった。以上が夏目家が三人世帯になるまでの顛末である。
恵梨さんがロボットであることを知っているのは限られた人間だけだ。彼女の生みの親である夏目博士と、共同研究者であるその夫。そして保護者の夏目店長と、同居人である俺こと七瀬ケイ。学校では、恵梨さんは普通の人間として振る舞っている。なぜなら、普通の高校生活を送り、普通の社会性を獲得することが彼女の学校生活の目的だからだ。
彼女の顔や手足は人間と同じような質感と見た目を有しているものの、関節を見れば彼女がロボであることは一目瞭然だし、お腹には排熱機構も付いている。だから彼女は一年中長袖シャツにスラックスを着なければならないし、露出度の高い格好は絶対NGなので当然水着を着ることもできないのだった。
そんなふうに、ロボットなりの気苦労が絶えない彼女ではあるが……。しかし、客観的に見る限り、彼女はいつも友人に囲まれ、楽しい学園生活を謳歌しているように見える。
恵梨さんはTシャツの裾を直しながら、ふう、と息をついた。そんな行動の一つ一つまで人間っぽい。
「そういえば、七瀬くん」彼女は俺に向き直る。「私、ショックだよ」
「な……何が?」
「何が? じゃないでしょ七瀬くん。今日! 学校で! 私のこと無視したよね?」
「そんなこと……」
と、言いかけて俺は思い出す。
「あ……もしかして、昼休みの?」
「そうだよ。私が手振ってるのに、七瀬くんが無視するから」
恵梨さんは腕を組んで頬を膨らませている。
「いや……あの時は他に人がいたから、ちょっと動転しちゃって」
俺はしどろもどろになりながら答えた。俺と恵梨さんが同じ家で暮らしていることは、学校では秘密にしている。
「ふーんそうなんだ。七瀬くんは私と仲良いってクラスのみんなに思われると嫌なんだ」
「だって……その。俺なんかと仲良いって思われると、恵梨さんの方が迷惑かなー……と。ほら、同居のこともバレたら厄介だし」
恵梨さんの瞼のパーツが動き、ジトっとした目つきで俺のことを見つめてくる。
「あの……怒ってる?」
俺には恵梨さんの感情の色は見えない。彼女が本気で怒っているのか、俺のことを揶揄っているだけなのか。
「怒ってる」
「う……」俺は目を逸らした。「ごめん恵梨さん。今後は気を付けるから……」
俺が頭を下げたのを見ると、恵梨さんは慌てたように手を振った。
「あ、うそうそ。冗談だよ。怒ってないから、そんなに」
「そっか……よかった」
俺は胸を撫で下ろした。そんな俺の顔面に、恵梨さんは指を突きつける。
「でも、私がショック受けたのは本当だからね。今度同じことされたら泣いちゃうかも」
「泣かないでしょ。ロボットなんだから」
「私くらいハイエンドなロボットになると涙も流せるんだよ」
恵梨さんは何故か少し得意げだった。
「カメラアイの洗浄液じゃない? それ」
恵梨さんは咳払いをした。
「そろそろ時間だね。行こっか」
俺は頷いた。「荷物、置いてくるよ」
学校の制服から着替え、一階に降りてエプロンを身につける。厨房では店長がパスタを茹でている最中だった。
夏目珈琲店は基本的に店長が一人で切り盛りしているのだが、ディナータイムは客も増えるのでこうして俺や恵梨さんも手伝っている。恵梨さんはもっぱら厨房を、俺はホールを手伝うことが多い。
事実上の親戚のようなものである恵梨さんはともかく、俺は店長にとってほとんど他人のようなものだ。だからこうやって仕事を与えてもらえる方が、かえって気後れしなくてありがたい。恵梨さんは厨房の奥で皿洗いに取り掛かっていた。
店長が茹で上がったパスタを皿に盛り付けてソースと絡めた。
「夏目くん、ナポリタン運んで。窓際の席ね」
「了解です」
店長の目線が向けられた先、若い女性が一人座っている席があった。湯気の立つ皿を持って窓際の席に近づいていく。
「お待たせしました。ナポリタンです」
スマホを見ていた女性客が顔を上げた。「ありがとうございます」と彼女が言う。その瞬間、彼女の感情の色が見えた。わずかな不満と、躊躇いの色が浮かんでいる。
料理に何か不満があるのだろうか。そう思い、不審がられない程度にお客のことを観察する。その視線は料理の皿には向けられておらず、天井のあたりをチラチラと見ていた。彼女は肩を出した服を着ていた。その腕は小刻みに震えている。
「あの……もしかして、寒いですか? 冷房」
天井に取り付けられた空調からは冷気が絶えず吹き出している。女性客の座る窓際の席は、ちょうど冷房が直撃する位置にあった。俺の記憶が正しければ、彼女は常連ではない一見さんだ。馴染みのない店だから、冷房が寒すぎることを言い出せずに躊躇していたのだろう。
「そうですね、少し」
女性客は頷いた。
「風向き、変えてきますね」
俺はお客に一礼して、バックヤードに戻る。壁に取り付けられた空調のリモコンを操作して風向きを変えた。
女性客のところに戻って尋ねる。
「風向を変えてきました。いかがですか?」
「大丈夫になりました。ありがとうございます」
彼女は小さく頭を下げた。その表情に、もう不満の色は浮かんでいない。俺は一礼して厨房へと戻った。
俺は会話している相手の感情を色として見ることが出来る。喜怒哀楽がどの割合で混ざっているのか、顔に浮かんだ色を見ると分かるのだ。この特殊能力が俺に宿ったのは小学生の頃。当時住んでいたマンションの屋上で流星群を観測しようとしていたら、流星のかけらが俺の頭上に降ってきた。流星が帯びていた特殊な宇宙ガンマ線が俺の脳と精神に影響を与え、かくして俺は超能力者となった。
会話するたびに色が浮かぶのは鬱陶しいと感じることもあるが、基本的には役に立つ能力だ。自分の言葉や行動が相手にどう思われているのか、相手が嬉しいのか悲しいのか、すぐに分かる。
もちろん、俺の超能力のことは店長や恵梨さんといったごく近しい人以外には話していない。だから夏目珈琲の常連客たちは俺のことを異常に察しの良いバイトだと思っている。
もっとも、俺に見えるのは感情の色だけだから、相手が不満を抱いていると分かっても、具体的に何が気に入らないのかまでは分からない。そこは相手を見て推測したり、直接聞いたりしないといけない。
けれど客商売にとって相手の感情が分かるというのはこれ以上ないアドバンテージだ。生まれ持ったこの能力を活かせるこのバイトは気に入っていた。
勤務時間を終えてバックヤードに戻る。ロッカールームで普段着に着替えて二階へ上がると、恵梨さんが後ろから追いかけるように階段を上がってきた。
「お疲れ七瀬くん。今日も活躍してたね」
「そんなことないよ」
「あー、謙遜してる。人間っぽい」
恵梨さんはくすりと笑いながら言った。
「でも実際、夏目珈琲の仕事だって、自分のためにやってるようなものだから。別に店長からしたら、素人の学生の手伝いなんて要らないのかもしれないけど──ああやって店を手伝っていれば、居候特有の引け目から少しは解放されるしさ」
「引け目なんてあるの?」
「そりゃまあ、少しはあるよ」
「最初に言ったじゃん。七瀬くんがこの家に来た時に。遠慮しないで、自分の家だと思ってくれていいって」
隣にいる恵梨さんの表情を見る。彼女は笑顔を浮かべていた。
「恵梨さんや店長がそう言ってくれるのは、ありがたいと思ってるよ」
「それにさ」と、恵梨さんは話を続けた。「本当のところ、藤花さんだって夏目くんがいてくれて助かってると思うよ。あの人ってコーヒー淹れたり料理作ったりの才能はあるけど、接客の方はイマイチだし。私は人間の細かい心の動きとか、まだ気付けないことも多いからね。七瀬くん、常連さんたちにも評判いいし」
確かに、店長は基本的にお客を相手に長々と話すようなタイプではない。俺個人としては、仕事人という感じがしてカッコいいと思っているけれど。それに、常連さんたちは純粋に店長の作る料理やコーヒーの味を評価してくれているはずだ。
けれど俺が超能力を利用して接客をしていることも、少しはこの店に貢献できているのだと信じたい。
「だからさ、これからも一緒に頑張ろ。ね?」
恵梨さんは俺に向かって微笑みかける。
「うん、ありがとう」
俺はそう答えると、廊下の真ん中で彼女と別れ、自室へと戻って息をついた。
恵梨さんはロボットだ。だから彼女の感情は見えない。それでも彼女は人間のように振る舞う。それがたとえ模倣だとしても、模倣と分からないほど精巧に。
彼女の色が見えない以上、俺には彼女が本心では何を考えているのか知る術が無い。さっきの言葉だって、本当にそう思っているのか、俺が謙遜したせいで気を使わせてしまっただけなのか。実際のところは俺のことをどう思っているのか。確かめる方法は無い。
六歳の時に超能力に目覚め、以来ずっとその力と共に生きてきた俺にとって、他人の感情が見えるのは当たり前のことだった。だから、俺が知る限り唯一色の見えない恵梨さんと話していると、時折無性に居心地の悪さを感じてしまったりもする。
これ以上ないくらい良い同居人だって、頭では分かっているんだけど。
土曜は昼から店を手伝うことにしている。夏目珈琲は昼はあまり混まない。ちらほらと埋まっている席はみんな顔見知りの常連客ばかりだから気楽なものだ。店長は鼻歌交じりにカレーを煮込んだり珈琲を淹れたりしている。恵梨さんは奥でジャガイモの皮を剥いていた。一切のブレがない正確無比なピーラー捌きを見ていると、やっぱり彼女は機械なんだなと実感する。
俺は空いた机を片付けながら、それとなく店内を見回した。昼過ぎの時間帯、埋まっている座席は一つだけだ。店の奥の方にある二人がけのテーブル席に、一人の女性が座っている。窓を背にした彼女は薄型のノートパソコンを開き、かたわらには飲みかけのコーヒーがあった。
彼女は夏目珈琲の常連の一人で、名前を
毎週土曜の昼になると、彼女はこうして店に現れてはパソコンを開く。前に雑談のついでに聞いたところによれば、ムーンフォレスト美紗子こと月森さんは朝の情報番組『おはようワイド』の中に占いコーナーを持っており、その原稿を毎週テレビ局に提出しなければならないのだそうだ。「今日の一位は魚座のあなた!」とか、「ラッキーアイテムは黄色いハンカチ!」とか、ああいうやつを書いているのだという。他にも情報誌『月刊NEXUS』の占いコーナーも担当していたりと、多忙な身らしい。
普段は小一時間も作業をすれば帰っていくのだが、今日はなかなか帰る気配がない。何度かため息をつきながらコーヒーを飲み、またパソコンに向かう。感情の色を見るまでもなく、何か気掛かりなことがあるのは明らかだった。
「恵梨さん」俺は厨房にいる彼女へ小声で話しかけた。「月森さん、何かあったのかな?」
「星座占いが難航してるのかも」
両手はジャガイモを剥き続けながら、恵梨さんは顔だけをこちらに向ける。
「ああいうのって適当に書いてるんじゃないの?」俺はさらに声を潜める。
「七瀬くんって占い信じないタイプなんだ」
「そういうわけでもないけどさ。所詮はテレビの占いだし」
「ちなみに私の手は博士に頼んで最強の手相にしてもらってるよ」恵梨さんは包丁を置いて得意そうに手のひらを見せびらかしてきた。「見てよこの生命線。めちゃ長」
「長生きできそうでよかったね」
俺が言うと、月森さんのいるテーブルの方から声が聞こえてきた。
「あの……すみません」
俺は厨房を出てテーブルへ向かった。
「お待たせしました。いかがしましたか?」
「コーヒーのおかわりをいただけますか?」
「かしこまりました」
俺は頷いて机の上の伝票を回収した。
会話を交わしている間、月森さんの周囲に色が見える。不安や恐れの色だった。
「あの、失礼ですけど。もしかして、何か困り事でも?」
彼女の不安の原因が何なのか、俺の能力だけでは分からない。けれど、彼女の感情の色はとても濃かった。それなりに深刻な問題に直面している可能性が高い。そう思うと放っておけず、不躾を承知で尋ねてしまった。
「……やはり、お分かりになりますか」
「ええ、まあ。その、普段より書き物の方も進んでいらっしゃらないようだったので」
普段はコーヒー一杯を飲み終わるより先に仕事を終わらせてしまうから、おかわりをすることは滅多にないのだ。
「嗚呼、私の仕事が遅いばかりにテーブル席を占領し続け、あなた方の店の回転率は下がる一方……。私自身が元凶なれど、同情を禁じ得ません」
「いや、どのみちこの時間は空いてるから、別にいいと思いますけど。でも、何があったんです? やっぱり、お仕事のことで?」
「ええ……そうですね。私の仕事のことも、全くの無関係とは言えません。もし七瀬さんがよろしかったら、相談に乗っていただけますか?」
それからしばらくして。俺は店長がドリップしたコーヒーを月森さんの机に運んだ。なぜか後ろには恵梨さんも付いてくる。
「恵梨さん? どうして一緒に来たの?」
「私も常連さんの力になりたいもん。私にもお話、ぜひ聞かせてください」
恵梨さんが言うと、月森さんは小さく頭を下げた。
「お二人とも、ありがとうございます」
「いえ、自分たちで力になれるか分からないですけど」と、俺は言う。
「相談というのは、実はカラスのことでして」
「カラス?」
家の周りにカラスが出て、ゴミを漁って困っている……とかだろうか。大した悩みじゃないような気もするが、当人にとっては深刻なのかもしれない。そんなことを考えていると、月森さんの口から予想外の言葉が飛び出てきた。
「私の家には、ずっと一緒に暮らしているカラスが一羽いまして、名前を月森ヨルと言います。そのヨルが……三日ほど前から帰ってこないのです」
「え、あ、そういう話でしたか」
想定とはむしろ真逆の悩みだった。
カラスを飼っているという話はあまり聞かないが、インコやオウムは飼うのだから、同じ鳥類だしペットに出来るのだろう。それにカラスという生き物は随分知能が高いと聞いたことがある。
ペットとして可愛がっているカラスが逃げてしまった。それなら、この不安の色の濃さも納得がいく。誰だってペットは大事なものだ。
「それは確かに心配ですね」俺は共感を示しながら話を続ける。「何か目印とかは付いてるんですか?」
「首輪をしているので、野生のカラスとの見分けは付くと思います。普段は外に出かけていても、朝には必ず帰ってくるのですが……。三日前の夜に出かけたきり、一度も姿を見せず。心配で心配で仕事も手につかず、今度の月曜、東京でテレビ局の方と打ち合わせを予定していたのですが、このままだとリスケせざるを得ないかもしれません」
「そうですか……」
どうやら月森さんはかなりヨルのことを可愛がっていたようだ。
「嗚呼、かわいそうなヨル……。今頃温かいご飯も食べられずにひもじい思いをしていることでしょう。同情を禁じ得ません」
「占いでヨルちゃんがどの辺にいるのか分かったりしないんですか?」
と、恵梨さんが聞く。
「それが……ヨルがいなくなってから、未来を見る力が失われてしまったのです。もしかすると、ヨルが行方不明になったことで精神に影響が出ているのかもしれません。タロットや占星術なら普段通りに出来るのですが、その手の占いだと具体的なことまでは分かりませんし」
「なるほど……。分かりました」恵梨さんは力強く頷いた。「私たちも探すの手伝いますよ。カラスなら縄張り意識もあるから、そう遠くへは行かないと思います。三人で力を合わせれば、必ず見つけられるはずです」
「本当ですか……?」
月森さんは感激した様子で俺たちのことを見つめている。
「あの……恵梨さん。私〈たち〉って? 〈三人〉って?」
「月森さんと、私と、七瀬くん。三人。ね?」
「まあ……そりゃあ俺も手伝うけどさ。月森さんさえよければ」
元々話を聞こうとしたのは俺とはいえ、恵梨さんの方はナチュラルに俺を頭数に入れてきた。どうやら暇人だと思われているようだ。
「まあ、学校とかお店とかあるので、あまりお力になれないかもしれないですけど」
「ありがとうございます。本来であればこちらの私事にお若いお二人を巻き込むのは憚られるところではありますが、今回は緊急事態ですので。お言葉に甘えさせていただきます」
月森さんは一気にコーヒーを飲み干すと、ノートパソコンを閉じて鞄に入れた。
「では、私は家で準備をして参ります。明日また伺いますので」
本格的な捜索は明日から、ということらしい。
「分かりました。予定空けときます」
恵梨さんは言った。月森さんは手早く会計を済ませると、少し急いだ足取りで店を出て行った。
翌日、日曜日。約束通り朝に店を訪れた月森さんと共に、俺と恵梨さんはヨルの捜索に出かけた。ちなみに店長は「月森さんは常連だし、結構長い付き合いだから」と俺たちが彼女の手伝いをすることを快く許してくれた。
月森さんの家は商店街からしばらく歩いたところにある。道すがら、俺と恵梨さんは月森さんから紙の束を受け取った。「さがしています」と赤い文字で書かれ、ヨルの写真が印刷されている。三日月型の首輪を付け、つぶらな瞳でカメラを見上げている写真だった。
「可愛いですね」
俺が言うと、月森さんは頷いた。
「そうでしょう。おまけにヨルはとても賢いのです」
「それなのに帰ってこないということは、」恵梨さんは言った。「もしかすると、帰りたくても帰れない状況にあるのかもしれないですね」
確かに、普段のヨルは出かけても朝には帰ってくると月森さんは言っていた。どこかに閉じ込められてしまったとか、怪我をして飛べなくなったとか……。いや、それならまだしも、車に轢かれてしまったとか、そういう可能性も考えられる。もっとも、それを直接月森さんに言うことは憚られた。
「とりあえず、このビラを配りながら、この辺を手分けして探してみましょう」
「ええ、それがよろしいでしょう」
俺たちは交差点で別れて、各々が担当する方向へと向かった。
俺が向かったのは駅前方向だった。人通りも多く、聞き込みをするにはもってこいだ。駅の周りにはビルが林立していて、電柱の上にはカラスの姿もある。もっとも、それは単なる野生のカラスだった。
あまり上ばかり見上げていても首が痛くなる。俺は道ゆく人に話しかけて情報を収集することにした。目についた男性を呼び止めてチラシを渡す。
「すみません。知人のカラスが行方不明でして。見つけたらぜひご連絡を」
そう言いながらチラシを渡すと、大抵の人は受け取ってくれた。「カラスを飼ってるなんて変わってますね」と言う人もいる。一瞥するだけで足早に去ってしまう人もいた。
当然ながら、首輪を付けたカラスを見たという人には会えなかった。カラスなんて街では珍しくも何ともないし、気に留めなくて当たり前だ。そう簡単に手がかりが手に入るとは思っていなかった。
通行人から話を聞いていると、嫌でも彼らの感情の色が目に入ってしまう。顔を合わせて話していると、俺の意思とは無関係に超能力が発動してしまうのだ。
同情の色を浮かべている者もいるが、大半は呼び止められたことを迷惑に思っている。表面上は取り繕っていても、俺にはそのことがありありと分かる。
普段の俺なら、迷惑がられていると分かった時点で話をすぐに打ち切るのだが、今度ばかりはそうも言っていられなかった。
駅から遠ざかるようにヨルを探しながら歩いていると、別エリアを担当していた恵梨さんと偶然合流した。
「七瀬くん。首尾はどう?」
「あまり芳しいとは言えないよ」
「うーん、そう簡単には見つからないよねぇ」
恵梨さんは腕を組みながら言った。彼女と並んで歩きつつ、目線は常に少し上へ向けてしまう。上空を黒い影が通り過ぎた。ヨルではない、ただの野生のカラスだ。カラスはカアと鳴いて飛び去った。
「あ、そうだ。七瀬くんの超能力でカラスから聞き込みできないの? カラスのことならカラスの方が詳しいかも」
「俺の能力は感情の色が見えるだけだから、動物と話したりは出来ないよ。前にも言ったけど。超能力者の中には、そういうタイプの人もいるらしいけど、少なくとも俺は違う」
「そっか、なるほど」
「カラスみたいにある程度の知能がある生き物だったら感情を持ってるから、色を見ることは出来るはずだけど」
「結局、地道に探さないとダメってことだね」
やがて歩いていると、恵梨さんが不意に言った。
「月森さんから連絡来てる。そろそろお昼だから、一旦休憩にしようって」
恵梨さんの頭脳はBluetoothでスマホと直接接続しているので、いちいち画面を確認しなくてもメッセージをやり取りできる。俺も自分のスマホを取り出して確認した。月森さんが作った連絡用グループチャットにメッセージが届いている。集合場所の位置情報も添付されていた。
俺と恵梨さんが指定された場所に向かうと、そこには平屋の日本家屋が建っていた。荘厳な門が聳え立ち、その奥には松の植えられた庭が見える。門の横に付けられた木製の表札には縦書きで〈月森〉と書かれていた。
「ここってもしかして、月森さんの家?」
恵梨さんが声を発すると、「その通りです」と声が聞こえてきた。
俺たちが来たのとは反対側の道路から、月森さんが姿を現す。彼女は門を開き、俺たちを家の中に招き入れた。敷地の中に足を踏み入れると、庭の中央の池で錦鯉が跳ねているのが見えた。
「月森さん、結婚してないって言ってましたよね? この家はご両親と?」
と、恵梨さんが尋ねる。
「両親はすでに他界しました。兄弟姉妹もいませんので、この家は私一人で暮らしています」
「すごいですね。こんな広いお家に一人でなんて……」
月森さんは玄関の引き戸を開きつつ答えた。
「正直なところ、私一人では持て余していますが……。誰かが住まなければ、この家も朽ち果てるのみです。そうなっては同情を禁じ得ませんので」
月森さんの後に続いて屋内に入り、三和土で靴を脱いだ。玄関の奥には延々と廊下が続いている。
「それに、私一人ではありません。ヨルもいますから」
それを聞いて俺は気づいた。家族もいない月森さんにとって、ヨルはたった一羽の家族なのだ。どんな話をしている時でも、彼女には絶えず不安と心配の色が浮かんでいる。絶対にヨルを見つけてあげたいと俺は思った。ふと隣を見ると、恵梨さんと目が合い、互いに無言のまま頷き合う。きっと恵梨さんも同じことを考えているに違いなかった。
奥にある居間に通された。部屋の広さと裏腹に、食卓はあまり大きくない。普段は月森さん一人しか使わないからだろう。
「お昼にしましょう。お二人は何か食べたいものはありますか? ご馳走しますから」
そう言って月森さんはスマホの画面を見せてきた。ウーバーイーツのアプリが表示されている。
「そんな、悪いですよ」
と、恵梨さんは遠慮する姿勢を見せた。
「いえ……お二人の貴重な日曜を消費させてしまっているのです。このくらいのお礼はさせていただかなければ、むしろ私の方が惨めというもの。自分で自分に同情してしまいます」
「はあ……じゃあ、せっかくですから」
俺は頷いた。実際、午前中から歩き回ってお腹は空いていた。
しばらくするとリュックを担いだ青年が自転車に乗って現れた。この近くにあるカレー屋で売っている薬膳カレーを三人前注文した。カレーは夏目珈琲店でも売っているので、敵情視察もできて一石二鳥というわけだ。
月森さんと恵梨さんと、三人で食卓を囲み手を合わせる。プラスチックのスプーンでカレーを掬って口に運んだ。隣では恵梨さんも同じようにカレーを口に入れている。彼女のボディには人間と同じように食事が出来る機能が備わっている。もっとも、飲み食いしたものがエネルギーに変換されるわけではなく、そのまま排出されるだけなので、恵梨さんにとって食事に意味はない。単なる人間の行動の模倣だ。
ふとキッチンの方へ目を向けると、ペット用の小さなお皿が置いてあった。その隣には鳥ささみの袋もある。ヨルのための食事なのだろう。
「ヨルとは、一緒に暮らして長いんですか」
俺は尋ねた。月森さんはスプーンを持った手を止めて、俺の方に視線を投げた。
「そうですね。ヨルは私が生まれるより前から、この家で暮らしていましたから。私にとっては、生まれた時からの付き合いということになりますね」
「う……生まれた時から、ですか?」思わず声が裏返りそうになった。「でも、月森さんって、その……」
「私は今年で二十八です」月森さんは言った。
「カラスって、そんなに長生きするんですね」
「どうでしょう……。ヨルは普通のカラスじゃありませんから」
「普通じゃないって、どういうことですか」
恵梨さんが聞き返した。
「私の母も、その父も、月森家の占術師たちはみな、代々ヨルと一緒に暮らしてきたのです」月森さんは不意に立ち上がった。「見ていただきたいものがあります。お二人にはヨルのこと、知っていただきたいですから」
食事を終えてから、俺と恵梨さんは居間でしばらく待たされた。ソファの前の机には、タロットカードや水晶玉、ルーンストーン、亀甲といった道具が散らかっていて、いかにも占い師の家といった趣だった。
十分ほどすると、月森さんは古びた本や紙の束を携えて戻ってきた。
「お待たせしました」
月森さんは机の上に紙や本を広げた。紙質から言って、少なくとも数十年は昔の資料のようだ。
「これは月森家に代々伝わる資料です。当時の記録や日記の類が残されています。一番古いものですと、百五十年ほど前のものもあります」
これです、と月森さんは紙の一つを指差した。文字はくねくねとした崩し字で書かれ、目を凝らしてもちっとも判読できない。挿絵は教科書に載っている浮世絵のようなタッチだった。
「百五十年前っていうと……江戸時代ですか?」
「明治時代じゃない?」
恵梨さんが言うと、月森さんは頷いた。
「江戸時代より以前の資料は、残念ながら捨ててしまったようで」
「もったいないですね」と、恵梨さんは言った。
「明治時代の記録が残ってるだけでも十分すごいですけど」と、俺は言う。「月森さんの家って、代々占い師なんですか?」
「月森家のルーツは平安時代、朝廷に仕えていた陰陽師の一人にまで遡れると言われています。中国の占星術をベースに独自の占術理論を編み出していたようです。江戸時代は徳川幕府の命を受けて趨勢を占うなどしていたようですが、明治維新があってからは新政府に従うようになりました。ただ、明治新政府の下で仕事を続けていくにあたって、徳川家に近い立ち位置にいた事実は都合が悪かったようで……」
「なるほど。それで江戸時代より前の資料を軒並み捨ててしまったんですね」
俺が言うと、月森さんは「そのようです」と頷いた。
「もしかして、今も内閣の依頼で占いをやってたりとか?」
恵梨さんが興味津々といった様子で尋ねた。月森さんは首を横に振った。
「いえ、戦後は全くそういったことは」
ともあれ、と月森さんは話を戻した。
「ヨルは月森家に残っている一番古い記録にも出てくるんです。ここを見てください」
月森さんのすらりとした指が紙面の挿絵を示す。よく見ると描かれているのは、俺たちが今いる月森家の外観だった。家の中はさすがにリフォームされているようだが、外見は百五十年前から変わっていないらしい。
絵の中の月森家の屋根の上に、カラスが一羽とまっていた。
「少なくとも明治の頃から、ヨルはずっと月森家で暮らしていたんです」
俺たちは他の資料も見せてもらった。明治から大正、昭和、平成と時代がくだっても、ヨルは必ず文献に登場する。筆で描かれた挿絵は鉛筆のスケッチになり、白黒の写真になり、やがて鮮明なカラー写真になったが、それらは全て同じカラスに見えた。
「本当に同じカラスなんですか?」
「ええ。私の母もこの家で生まれて、ずっとヨルと一緒に育ってきたと言っていました。間違いなくヨルは一羽だけです。家族を見間違えるわけありませんから」
「ってことは、少なくともヨルは百五十歳以上ってことに……」
俺は呟いた。どうやらヨルは本当に普通のカラスではないらしい。
この街に来る前、ある人から聞いた話を思い出す。
──この街では異常が正常で、正常が異常なんだよ。
──君がそうであるように。七瀬くん。
この街は、不思議を許容している。だからきっと、百五十歳のカラスも存在しているのだろう。
「でも、なおさら不思議ですね」恵梨さんは言った。「百五十年以上もこの家で暮らしてたなら、今度に限って帰ってこないっていうのは、やっぱり変ですよ」
「もしかすると、私に愛想を尽かしてしまったのでしょうか……」
「月森さんに? どうしてそう思うんです」
俺が尋ねると、彼女は目を伏せた。
「私は占術師としてはまだ二流です。時によって未来が見えたり、見えなかったり。ムラがあるようではプロとして失格ですから。だからヨルも私を見限ったのでは……と」
「でも、『おひさまワイド』の占いコーナーは毎週ちゃんとやってるじゃないですか」
恵梨さんは月森さんを励ますような口調で言ったが、月森さんはますます表情を曇らせた。
「アレは月森家相伝の占いとは別物なのです。ごく一般的な占星術の理論を元に、統計学的に運勢の順位やラッキーアイテムを算出しているだけですから、勉強さえすれば誰にでもできます」
「相伝の占いっていうのは、もしかして、こないだ言っていた未来を見る力のことですか」
俺は尋ねた。月森さんは頷く。
「ええ。月森家の人間には、他人の未来を直接見ることが出来る力が備わっています。親から子へ遺伝する、一子相伝の力です。母が私の歳の頃は、すでにその力を使いこなしていたようですが……私はまだ、十全には使えていないのです。ヨルがいなくなってからは、ついに全く未来が見えなくなってしまいました」
月森さんは、はあ、とため息をついた。
「千年続いた月森の家系も私の代で終わりのようです。結婚してくれそうな方もいませんし。ご先祖たちに同情を禁じ得ません」
「ええと……マッチングアプリとか、やってみたらどうでしょう」
反応に困った俺は、そんな身のないアドバイスをすることくらいしか出来なかった。
「月森さんのお母さんも、すごい占い師だったんですね」
と、恵梨さんが話題を変えてくれる。
「ええ。父は入り婿でしたので、占力はなく、もっぱら母のアシスタントとして働いていました。ですから占いのイロハを教えてくれたのは母でした。私にとっては親である以前に師でもありました。ですが……私が十五の時、父ともども交通事故に遭って帰らぬ人に。本来なら、まだまだ教わるべきことがあったのですが」
彼女の表情には、悔恨や寂しさの色が浮かんでいた。幼い頃に両親を失ったショックは、大人になった今でも尾を引いているらしい。
「すみません、話が長くなってしまいました」月森さんは立ち上がった。「ヨルを探しに行きましょう。こうしている間にも、近くまで帰ってきているかもしれません」
午後も夕刻までヨルを探して街を歩き回ったが、収穫はゼロに近かった。朝は束になっていた〈さがしています〉のチラシもすっかり無くなっている。
「お二人とも、ご協力に感謝します」
別れ際、月森さんはそう言って深々と頭を下げてきた。
「明日の放課後も手伝いますよ」と、恵梨さんは言った。「店も定休日だし」
俺も頷いた。ありがとうございます、と月森さんは答えた。
「私も、明日の東京行きはキャンセルさせていただきました。こちらの勝手な都合で予定を変えてしまって、テレビ局の方々には同情を禁じ得ませんが……。ともあれ、お二人の学校が終わってからまた落ち合いましょう」
夏目家までの帰路につく頃には、日はすっかり沈みかけ、街全体が赤くなっていた。隣を歩く恵梨さんは、俺に向かって話しかけてきた。
「家族がいなくなるのって、どういう感じなんだろ」
「ああ……月森さんの話?」
「うん」恵梨さんは頷いた。「子供の頃に両親が二人とも死んじゃったって言ってたでしょ。それってすごく大変だったろうなって思う。でも、私がそう思うのは、単なる一般論であって、本心から同情してるわけじゃないのかも。私には親もいないし」
「夏目博士は?」
「うーん、確かに生みの親ではあるけど。でも、お母さんって感じではないかな」
そういうものなのか、と思う。本人にしか理解できない感覚もあるのだろう。
「俺も今は親と離れて暮らしてるけど、死んじゃったわけじゃないし、手紙とか電話とかでやり取りも出来るからな。月森さんみたいな人の気持ちは分からないよ。見ることは出来ても」
「たとえばさ、明日急に藤花が死んじゃったりとかしてさ。その時、私って泣くのかな」
恵梨さんの問いに、俺は答えなかった。
*
翌日。恵梨さんは学校でもクラスメイトに例のチラシを配ってヨルの目撃情報を募っていた。恵梨さんは顔が広いから、ひょっとすると本当に情報が集まるかもしれない。
昼休みも恵梨さんは教室で友達にチラシを渡していた。チラシを受け取ったクラスメイトの一人は、そこに印刷された写真を眺めながら言う。
「うーん、協力したいのはやまやまなんだけど、カラスの見分けなんて付かないしなぁ」
「でも、ほら。首輪も付いてるし」
と、恵梨さんは写真を指差す。
「遠くからだと見えないんじゃない? あ、そうだ。動画とか無いの? 写真じゃなくて。ほら、そのヨルちゃんに特有の動きとか鳴き声とか、そういうのがあれば分かるかも」
聞き耳を立てていた俺も、なるほど、と思う。
「動画か。あるんじゃないかな。月森さんに聞いてみるね」
そう答えながら、恵梨さんはすでに頭の中でグループチャットにメッセージを送っていた。〈ヨルちゃんの映った動画とかってありませんか?〉と俺の方にも通知が来ていた。
そんな折、恵梨さんと話していたクラスメイトが声を発した。「えっ、すご」
「どうしたの?」と、恵梨さんも思わず聞き返す。
「ヤバいよ、これ見て」彼女はスマホの画面を見せた。「トンネルで崩落事故だって。しかもこの近く」
俺も気になって、こっそりと同じニュースを検索する。街のはずれにある長いトンネルで、東京方面に出る時は必ず通ることになる道だった。
しかし元々交通量が大して多くなかったことが幸いし、崩落事故に巻き込まれた車は一台もなかったという。しばらくは通行止めで混乱するだろうが、怪我人も死者も出てはいないようだ。俺は安堵してスマホをしまった。最初のうちは騒いでいた恵梨さんの友人たちも、次第に別の話題へと移り変わっていった。
月森さんから返信が来たのは放課後すぐのことだった。ちょうど学校の正門を出ようというところで、グループに動画が貼り付けられた。〈こんな動画でよろしければ〉とメッセージが添えられている。
水浴びをするヨルの動画だった。黒く光る羽根を広げ、くちばしの先で啄んでいる。画面の外からカメラを構える月森さんの声も入っていた。『気持ちいいですか〜? ヨル〜』と普段の彼女からは考えられないような猫撫で声を発している。ヨルはそれに応じるようにグルルゥと鳴いた。
「変わった鳴き声だな」
俺はスマホを見ながら呟いた。
「どんな声?」
と、横から恵梨さんがスマホを覗き込んでくる。彼女は頭の中で同じ動画を見られるのだから、わざわざ俺のスマホを覗く必要はないはずだ。しかし彼女は俺の肩に顎を乗せるようにして同じ画面を見ようとする。こういった動作も、夏目博士が設計した「人間らしさ」なのだろうか。
俺はシークバーを操作して動画を巻き戻した。
画面の中、再びヨルが鳴き声を発する。
普通のカラスはカア、カアと鳴くが、ヨルはぐるるっと喉を鳴らすような鳴き方をしていた。
「本当だ。ねえ、ヨルちゃんっていつもこんなふうに鳴くのかな」
「どうだろう。でも、人間と一緒に暮らしてるカラスだから、野生のカラスとは鳴き声も変わってるのかも」
ましてやヨルは百五十年以上人間と共に生きてきたカラスだ。この鳴き声は癖づいたものなのかもしれない。
「もしヨルちゃんがまだこの街にいるなら……」
恵梨さんは何やら呟くと、踵を返し、校舎に向かって走り出す。
「何か思いついたの? 恵梨さん」
俺は彼女の後を追いかける。
「ヨルちゃん、見つけられるかも!」
恵梨さんは振り返りながら答えた。
校舎の階段を駆け上がる恵梨さんの後ろを俺は追いかけた。二階、三階と上がるにつれて段々と息が切れてくる。恵梨さんは涼しい顔のまま階段を上がっていた。ロボットってズルい。
彼女が向かった先は屋上だった。階段の先の扉を開け放ち、塔屋から外に出る。周囲がフェンスで覆われた放課後の屋上は無人だった。グラウンドからはサッカー部の掛け声が、校舎の裏からは吹奏楽部の練習の音が聞こえてくる。フェンスの間を強い風が通り抜けて俺と恵梨さんの前髪を乱した。
俺は膝に両手を突きながら、目の前にいる恵梨さんの背に尋ねる。
「どうして屋上に?」
「閃いたんだよ」恵梨さんはフェンスの方へ向けて歩きながら答える。俺はその後に付いていった。「ヨルちゃんは鳴き声に特徴がある。人間の声紋を見分けるみたいに、ヨルちゃんの鳴き声も聞き分けられるかも」
「そんなこと出来るの?」
「多分ね。私が本気を出せば、半径三キロ以内の音は聞き分けられるから。あまり遠くに行っちゃってたら無理かもしれないけど……」
恵梨さんは目を瞑り、胸の前で祈るように両手を組み合わせた。俺は彼女の邪魔をしないよう、固唾を飲んでその様子を見守る。
次の瞬間。カシャン、と音がして、恵梨さんの耳が変形した。耳の穴の部分を中心に耳全体が縦にパックリと割れ、その奥からアンテナが伸びてくる。先端がさらに展開し、小さなパラボラアンテナのような形状になった。
縦に真っ二つの両耳から小さなパラボラアンテナをぴょこっと出した少女が屋上に佇んでいる。
明らかに異常な光景だった。こんなところを見られては恵梨さんがロボットであることがバレてしまう。俺は屋上に人が来ないことを祈りつつ、彼女の様子を見守り続ける。
「ウィンドノイズ除去……鳥類の鳴き声を自動検出……サンプル波形に合致するデータを抽出中……」
恵梨さんはぶつぶつと何やら呟いている。やがて彼女は組んでいた両手を解き、目を見開いて俺の方を振り返った。
「見つけた!」
「本当に?」
「駅の南口!」
ポケットの中でスマホが震えるのが分かった。
「今、位置情報送った。ヨルちゃんが移動しないうちに早く行こう」
言うが早いか、恵梨さんは駆け出している。階段猛ダッシュで絶え絶えになった息がまだ整わないまま、俺は再び走らなければならなかった。
校舎の一階に降りる頃には、俺はフルマラソンを完走したかのようにグロッキーになっていた。実際には地上と屋上を往復しただけなのだが。
恵梨さんは俺を置いて既に正門を出ようとしている。少し離れたところに自転車を押している女子生徒の姿を見つけた。その姿には見覚えがあった。
「あれって……
俺は彼女の名前を呼んだ。部活の仲間だろうか、知らない生徒たちと話し込んでいたクラスメイト──天草
「七瀬。どうしたの息切らして。逃亡中?」
「逆だよ。追いかけてるんだ」俺は彼女の自転車を指差した。「その……本当に申し訳ないんだけど、その自転車、ちょっとだけ貸してくれないかな? 緊急なんだ」
顔の前で両手を合わせ、深々と頭を下げる。天草さんの家は学校から近く、普段は徒歩で通学しているのだが、遅刻しそうな時に備えて自転車通学の登録もしていると前に聞いたことがあった。
ダメ元で頼んでみたのだが、意外にもあっさりと彼女は頷いた。
「いいよ。でも何を追いかけるの?」
「知り合いの友達のカラスがピンチなんだ」
「よく分からないけど、だいたい分かった。持っていっていいよ。明日には返して」
天草さんの顔を見ても、不服や迷惑の色は見えなかった。そういう人だと分かっていたから、俺もこんなお願いが出来たのだけれど。
「ありがとう天草さん。この借りは必ず」
俺は礼を言いながら自転車に跨った。
恵梨さんはすでに正門を出て走り出している。俺は自転車を漕いだ。相変わらず息は切れているけれど、自分の脚で走るよりはずっと速い。サドルを調節する暇もなかったから極めて漕ぎづらかった。しばらく自転車を走らせていると、恵梨さんの背中が見えた。
俺は別に、恵梨さんを追いかける必要は無いのかもしれない。だって彼女はロボットで、その気になれば空だって飛べるし、車みたいに走れるし、数キロ離れたところにいる鳥の鳴き声だって聞き分けられる。俺は少し超能力が使えるだけの普通の人間でしかない。俺が行っても、多分役には立たないだろう。それでも俺は恵梨さんに追いつきたかった。
悲鳴を上げる太腿に鞭打ってペダルを漕ぐと自転車の速度が上がった。恵梨さんに追いつき並走する。こっちは全速力で自転車を漕いでいるというのに、追い抜くことは出来ず、並走するのが精一杯だった。
「七瀬くん、あそこだよ」
走りながら、一切乱れることのない声を発し、恵梨さんは斜め前方を指差す。駅からロータリーを挟んだ向かいにビルが並んでいた。そのビルのうちの一つを恵梨さんは指差している。ビルの方向を目指し、さらに両脚に力を込めた。
近くで見上げると、テナントがいくつか入った商業ビルのようだった。恵梨さんは迷わず正面からビルの中に入っていく。俺は路地裏に自転車を停めてその後に続いた。
エレベーターを呼ぶのもじれったいのか、恵梨さんは階段を登り始めた。階数表示はジリジリと一階に近づいているが、その動作はとても緩慢に感じられた。
結局、俺も恵梨さん同様、階段を駆け上がる羽目になった。筋肉痛の予感を脳から追い出しつつ、ひたすらに上を目指した。
屋上へ辿り着く。鍵は開けっぱなしになっていたのか、あるいは恵梨さんが破壊したのか。後者の可能性については考えないことにする。
商業ビルの屋上は校舎よりも高く、駅の周辺の景色が一望できた。端にはフェンスも無く、強風が吹くと思わず足が竦んだ。
一足先に屋上へ辿り着いていた恵梨さんは、前方を見つめていた。その視線の先にあるものを俺も見た。
屋上の端にとまった、黒い塊のようなもの。首には三日月型のチャームが金色に光っている。
「ヨル!」
俺が彼もしくは彼女の名前を呼ぶと、黒い塊は翼を広げてぐるるっと鳴いた。そのままヨルは飛び立ち、隣のビルに移動してしまう。
「しまった。捕まえるチャンスだったのに」
俺は言った。いくら百五十歳超えとはいえ、相手は鳥類だ。知らない人間が近づけば警戒もされるだろう。
「仕方ない。一旦下に降りて、また隣のビルに──」
俺がそう言いながら隣を見ると、なぜか恵梨さんは床に片膝を突き、両手を地に付け、前傾姿勢でヨルのいる方向を睨んでいた。
この姿勢なら見覚えがある。クラウチングスタートだ。しかしなぜ? そんな疑問をよそに、恵梨さんは地面を蹴り飛ばした。
さっき公道を走っていた時は、まだ脚力をセーブしていたらしい。通常ならばローファーから鳴るはずのない重量感のある靴音を立てて、恵梨さんは屋上を一直線に駆ける。その前方には、フェンスも何も設置されていない屋上の崖っぷちがあり、さらにその先には隣のビルの屋上がある。ヨルは自分に真っ直ぐ向かってくる恵梨さんの姿を目の当たりにし、驚愕の表情を浮かべていた。鳥にも表情があるということを俺はこの時初めて知った。
「恵梨さん! 無茶しないで!」
俺は叫んだ。屋上同士は二、三メートルは離れているし、今俺たちが立っている屋上より、向こうの屋上の方が若干高い位置にある。いくら恵梨さんが超人的な脚力を持っていたとしても、向こうの屋上に飛び移るのは無茶なのでは……と、俺が思ったその矢先。
屋上の端で、彼女は踏み切った。
スラックスの裾から覗く足を、みるみるうちに変形させながら。
アキレス腱から展開されたロケットエンジンが火を吹いた。その瞬間、恵梨さんは小さなスペースシャトルだった。オレンジの炎が両脚から噴出し、重力に逆らって推進力を生む。驚いたヨルが再び飛び立とうとした時には、すでに恵梨さんは宙を舞っていた。空中でヨルの体を優しくキャッチする。そのまま向こうの屋上へ着地、それと同時にロケットを逆噴射して勢いを殺し、踵から展開した棘の付いた円盤が地面を掴んでブレーキの役割を果たす。ギャリギャリと音を立て、盛大に火花を散らし、屋上の床に二筋の傷を刻み、恵梨さんは止まった。
俺は屋上ギリギリまで駆け寄って、正面のビルを見上げた。恵梨さんは片腕にヨルのことを抱いたまま、もう片方の手で俺に向かって手を振った。
ビルの階段を降りて、地上で恵梨さんと落ち合った。彼女は両腕でヨルを抱えている。ヨルは大人しく恵梨さんに抱かれていた。
「君……ヨルさん、だよね」
俺は黒い鳥に話しかけた。ヨルはこちらに目線を向けて首を傾げ、それからぐるっと鳴いて返事をした。
その時、俺はヨルの周囲に色を見た。
「喜んでるみたい」
「見つけてもらって嬉しかったんだよねー?」
恵梨さんはヨルの頭を撫でながら話しかけた。最初に恵梨さんの姿を見た時は、ずいぶんギョッとしていたみたいだけど。
「月森さんに報告しないとね。本当にヨルかも確認してもらわなきゃだし」
俺が言うと、ヨルは翼を広げて嬉しそうに鳴いた。喜びの色がさらに濃くなる。月森さん、という言葉を俺が口にした直後のことだった。
「大丈夫。もうすぐ月森さんに会えるよ」
俺は言って、スマホを取り出した。恵梨さんに抱きかかえられた状態のヨルの写真を撮り、グループチャットに貼り付ける。数分後に既読が付いて、月森さんから「すぐに向かいます」と返信が来た。
自宅の庭で同居鳥と再会を果たした月森さんは、涙を流しこそしなかったものの、感慨深そうな表情でヨルのことを見つめていた。
「ヨル……どうしていなくなったりしたのです? 心配しましたよ」
当のヨルはと言えば、まるで気にしていない様子で、自分の翼をついばんでいる。それを見た月森さんは微笑んだ。
「いえ、帰ってきてくれたのだから、それでよいのです」
それから彼女は、再会を見守っていた俺と恵梨さんの方へ顔を向けた。そのまま深々と頭を下げてくる。
「お二人とも、ありがとうございました。ヨルを見つけてくださったこと、感謝してもしきれません」
その言葉に偽りは無い。月森さんの周りには、安堵と喜びの色が漂っていた。
思えば、誰かに心の底から感謝されることなんて、そうあるものじゃない。感謝されたいと思っていたわけではないけれど、それでもやっぱり嬉しかった。報われたような気がした。
「じゃあ、お礼の代わりと言ってはなんですが。これからもずっと夏目珈琲店の常連でいてくださいね」
恵梨さんは人工表情筋をフルに活かしたとびきりの笑顔を向けた。
「もちろんです」
と、月森さんは頷いた。ヨルもその隣でぐるるっと鳴いた。
恵梨さんと二人、夏目家への道を並んで歩く。俺は天草さんから借りた自転車を押していた。散々走り、自転車を漕ぎ、階段を駆け上がった影響か、足が重くて仕方がない。
「今日は疲れたね」
恵梨さんは言った。そうだね、と同意しかけてから聞き返す。
「君は疲れないでしょ?」
「いや、精神的にさ。慣れないこと、いっぱいしたから」
確かに、今日の恵梨さんは普段はやらないようなことをたくさんやっていた。聴力の増強も、超ダッシュも超ジャンプも、みんな彼女のボディに元から備わっているスペックだ。しかし恵梨さんは普段は人間と同じように過ごしているから、そういった能力を発揮することは少ない。
「てっきり、ああいうことはしたくないのかと思ってた」
「まあ、ああいうのって人間っぽくないしね」
苦笑しながら恵梨さんは頬を掻いた。そういう動作は人間らしいけれど、その感情がどんなものなのか、俺には見えない。そもそも、感情なんてものが彼女の中にあるのかどうかも。
「でも、」と彼女は言った。「今日はやらなきゃって思ったんだ。月森さんの顔を思い出したら、少しでも早くヨルちゃんと再会させてあげないとって」
恵梨さんの色が見えなくても──その言葉は、彼女の本心だというような気がした。
*
その日の夜、夕食を終えてからのこと。
店長は先に自室へ戻り、リビングには俺と恵梨さんだけが残っていた。付けっぱなしのテレビでは、夜のニュースをやっている。東京のトンネル崩落事故がトップニュースだった。死者や怪我人はいないらしいが、センセーショナルなニュースなのは間違いない。
淡々と原稿を読み上げるアナウンサーの声を聞き流しつつ、俺はソファに座って緑茶を啜っていた。恵梨さんは食卓の方で同じようにお茶を飲んでいる。湯気が立つほどの熱いお茶を顔色ひとつ変えずにゴクゴクと喉に通しているのは、熱さを感じる器官が無いからだ。
「そういえばさ」恵梨さんが話しかけてくる。「結局、ヨルちゃんって何でいなくなったんだろ。フツーに迷子かな?」
「もしかしたら、わざと姿を消したのかも」
と、俺は持論を話した。
「えっ、家出ってこと?」恵梨さんは首を傾げる。「でも、月森さんの家に帰った時、ヨルちゃんすっごく嬉しそうだったよ」
彼女の言う通り、ヨルは心の底から月森さんのことが好きだった。彼女たちの間には種族を超越した友情がある。それは間違いないはずだ。
「月森さんを助けるためだったのかも。ほら、恵梨さんも見たでしょ? 東京のトンネルで起こった崩落事故。今日って確か、本来なら月森さん、東京で打ち合わせの予定だったって言ってたよね。もし予定通りに東京へ行こうとしてたら……」
「あの事故に巻き込まれてたかもしれない?」
「でも、月森さんはヨルのことが心配で予定をキャンセルした。ヨルは、自分が姿を隠せばそうなるって分かってたんじゃないかな」
「それじゃあ、まるでヨルちゃんに未来が見えてるみたいだよ」
「うん」俺は頷いた。「見えてるんだと思う。きっと、ヨルには」
月森家の人間は、代々未来を見る力を受け継いできた。
そして、ヨルはそんな月森家の人間たちと、百五十年以上も昔から一緒に暮らしてきた。
でも、本当は逆だったのではないか。
「本当は、未来を見てるのはヨルの方なんじゃないかな。月森家に代々受け継がれてきた能力は未来視じゃなくて、親しい動物と意識を共有する能力……なのかも」
「なるほどね」
「まあ、単なる直感だけどさ。そう考えると腑に落ちることもあるし」
例えば、月森さんはヨルがいなくなってから未来が全く見えなくなったと言っていた。未来視の能力自体がヨルに依存していたのなら、それも当然だろう。
彼女の両親は交通事故で亡くなったと言っていた。ヨルもまた、そのことを悔いていたのかもしれない。だから娘である月森さんは同じような目に遭わせないと誓って、彼女の未来を変えようと行動した。
カラスなりに、出来ることを。
もし俺の仮説が正しいとして、月森さんがそれを隠しているのか、自分でも気づいていないのかは分からない。わざわざ確認するようなことでもないだろう。
「じゃあほっといても、ほとぼりが冷めたら勝手に帰るつもりだったのかもね」
「その可能性もあるね」
俺は苦笑しつつ頷いて、少しぬるくなった緑茶を口に含んだ。
「あのさ」俺は恵梨さんに向き直る。「俺一人だったら、たぶん月森さんのためにここまで手を尽くそうとはしてなかったかもしれない。ありがとう」
「私は自分がしたいようにしただけだよ」
恵梨さんは言った。それから彼女は立ち上がる。
「そろそろ充電しなきゃ。おやすみ、七瀬くん」
「うん。おやすみなさい」
流しで湯呑みを洗ってから、彼女は自室へ引き上げた。
恵梨さんの色は、俺には見えない。少なくとも、今はまだ。
いつかその色が見える日が来るのかも分からない。
でも、月森さんとヨルのために頑張っている恵梨さんを見て、俺は彼女のことを、いいロボットだと思った。
〈つづく〉
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