二 希死念慮VS悲観主義

「最っ悪だァ!」

「まあまあ落ち着いてー」

 弓内が怒鳴り、壱石が宥めている。廊下には窓ガラスが散乱し、弓内が踏みしめる度にジャリと音を立てた。

 戦いが終わってから。壱石は大穴から飛び降り、友人に寄り添って健闘を讃えた。そして流れるように弓内に「お姉さん強いですねー」などと声をかけて取り入ろうとした。

 弓内からの返答は意味を成していない怒りの声であった。

 そして怒りに任せて物や己に当たり、壱石が穏やかにそれを宥め、一夕が呆然とそれらを眺める。そんな状況だった。

「あ! お姉さんYoutubeやってますよね? 護身術教えてくれるやつ! 見たことありますよー」

「黙れ」

「いやー、でも、ほら。かっこいいなーって」

「くそっ、黙れ! 子供に慰められるなんて、そんな。そんな恥を晒すくらいならば……死にた」

 ゴッ! 弓内は自分の額を殴った。そして頭を振り何かを振り払おうとして、口を塞ぎ、耐えきれず「不愉快だ!」と怒鳴る。

 一夕の『死にたい』が弓内に宿っていた。

「何だこれは! 死にたい? は? ありえない! 何でこんなことを!」

「侵入思考……だと」

 心当たりがあり、呟いたのは一夕だ。

 弓内は一夕を睨みつける。

「教えろ」

「え、あー、いやー……なんか、えぇ?」

「特定の思考が、突然ポンッて頭ん中に浮かぶっていうやつですよ! 侵入思考!」

 答えたのは壱石だった。弓内は標的を変える。

「病気か?」

「健全な人間でも、えーと、八〇%くらい? 経験するらしいんで! 大丈夫っす!」

「突発的に死にたくなる、これが?」

「いやぁ! 希死念慮はぁ……あのー、もし今後続くようなら精神科とか受診をー……」

 弓内は床を蹴り付けた。

 あまりの荒れように一夕が頭を下げた。

「なんか、その。俺の思想がすみません」

「お前はよくも! これで! 生きているな!」

「いや、死にました」

 考えるだけで死ぬ能力を得てしまったのだから、この思想で生きてはいない。この不思議な場所、【ヨナヨナ】に来る以前も何度も自殺未遂をしている。

 弓内はこれみよがしに舌打ちした。

「優れた思想を決める、だったな。厄介な」

 それからナナに呼びかける。『はい』と声だけで返答したナナへ尋ねた。

「この状態で私が戦えばどうなる」

『勝利した場合、敗者に【弱肉強食】【希死念慮】両方の侵入思考が発生します』

「はんっ。貴様の思想をばら撒く手駒と化したわけだ」

 床を踏み付ける回数が増した。わかりやすい苛立ちの表れだ。更に彼女は続ける。

「最も優れた思想の決め方は」

『【ヨナヨナ】に最も広まった思想が、最も優れているとみなされます』

「決まった後は」

『夜が明け、貴方達は解放されます』

「勝った思想への報酬は」

『正しいものとして、指針に抜擢されます』

「は? 誰の何の指針だ」

『人生の指針です』

「誰の」

『お答えできません』

 一夕は弓内の好戦的な様子を呆然と眺めていた。彼女は今後も、相手を見付けては勝負を挑むつもりで話を続けている。

 対して一夕は、それほどに積極的ではない。調べるべきことが他にも沢山あると思っている。

 そもそもこの場所は何か。死んでも生き返るなんて夢のよう……これは嬉しいという意味も込めてだったが、現実的ではないという意味もある。思想が能力になるというのもおかしい。そもそも何の前触れもなく集められたのもおかしなことだ。

 勝敗が決まれば脱出できるというのも、ゲーム的で現実感がない。そのゲームに従う理由が見当たらない。謎の存在に言われるがままに戦うのではなく、皆で協力して脱出方法を探してはどうか? どうして弓内は戦う気なのか?

 楽しかったからか。

 そう思うと、気持ちが一夕にも湧き上がる。楽しかったな、という気持ちがある。理解してほしいという気持ちが。

 もう少し。せっかくだから、他の人の思想を知るまで。このまま、確信に触れないまま、続けたい。どうか。どうか、もう少し。

 ここでは死にたがりとして生きてみたい。

 弓内が壱石の方に顎をしゃくった。

「ところでお前は何だ? 何故戦いが宣告されなかった」

「友達の応援だからだと思いまーす」

「思想が無いのか?」

「えっ。いや! いっ、えー、一石二鳥! 的なやつ! あります!」

「漁夫の利を狙う輩か。まあ、どうなろうと知ったことではないが」

 弓内は蔑むように壱石を一瞥した後、一夕に目を向ける。目線そのものは見下していた。

「この世は弱肉強食。負けた私は君に迎合する。それが私の、思想だ。負けたものは仕方がない。この弓内、お前の矛となり戦おう」

 敗北したが、思想は潰させない、という宣言だった。弱肉強食の法則に従い続けるのだという。

「たった一度思想が揺らぎ、否定されようとも。思想を形作った私の人生は変わらない」

 弓内は歯を剥き出して笑った。

「次は現実のルールで負かしてやる」

 言いたいことを好きに言って、弓内は歩き出し、途中で廊下の窓を開けて飛び降りた。

 慌てて一夕達は窓から外を見る。ここは二階で、そこは校舎に四方を囲まれた中庭だった。弓内は怪我一つなく着地し、植木の揺れを残して、あっという間に夜の暗闇に消えていく。

「怖ぁ……」

 壱石の呟きに、一夕も頷いた。

 思想の内容通り、強い人だった。そして『強食』側であると疑わない人だったなと、改めて思った。

 一夕達は自然と目を合わせる。これからどうしようかと尋ねるつもりの一夕に、壱石はまず笑いかけた。

「ユウもお疲れー。すげー怖かったよなーあの人。痛くなかった?」

「いや、まあそれなり……」

「喧嘩とか俺無理だわー。ユウやばーい」

 穏やかな会話に、一夕もつられて微笑む。確かに、痛かったし怖かったな、と思い返す。けれどそれ以上に、楽しいもので。

「あ!」

 一夕は気が付いた。友人の前で自分が行ったこと。死に興奮し、高笑いし、悦に浸ったあの全てを見られていたということに。死んだらごめんだなんて殊勝なことを言っておきながら喜んで死んだことに。なんて申し訳が――それよりも!

 友人の前で我を失ったのが恥ずかしい!

「わ、忘れてくれない?」

「何を?」

「いやなんか、え。い、色々」

「色々って?」

「色々だよ! その……いやもう、いい。気にしてないなら。掘り返すのやめろよ、この話」

「ユウからしたんだろ?」

 気まずさに負けて、一夕は廊下を歩き出した。

 しかし薄暗いそこを一人で歩くのも気が引けて、歩みは自然と遅くなる。蛍光灯はあるが心許ない。足を滑らせたら危ないな、と思う。例えば少し先には階段らしき場所と、洗面所らしき場所が見えているが。転んだ拍子に頭をぶつけたら。いや、あの場所でなくとも。硬い床の上で転んだら。

「あっ」

 死ぬ、と考えた途端転んでいた。後頭部に衝撃。

 ……気が付いたら倒れていた。

「大丈夫ー?」

「あ、あー、まあ」

 距離を取ったはずの壱石が、すぐそばで一夕を覗き込んでいる。一夕は体を起こした。

「俺死んでた?」

「死んでた」

 能力は戦いに関係なく発動する。

 思想は常にあるのだから当たり前か、と一夕は納得はした。そして数メートル歩いただけで死んだ現状を思い返した。

 一夕は常に『どうすれば死ねるか』を考える人間だ。このままではまともに移動すらできない。それに気が付き焦りが湧いてくる。

 どうしよう、とすがるように壱石を見た。

「そーだ、ユウ。他の人達について確認しとかね?」

「え、急に何」

 壱石は床に座り込んだ。何もない天井付近に、ナナと呼びかけ、一覧を見せてほしいと言う。

 ナナの『かしこまりました』の声と共に、二人の前に光が現れた。淡い光は薄く伸ばされスクリーンとなり、文字を映す。二人で並んで覗き込む。

 思想が並ぶ。

【希死念慮】

【一石二鳥】

【反出生主義】

【承認欲求】

【弱肉強食】

【自己責任論】

【楽観主義】

【悲観主義】

【唯一無二(唯我独尊)】

【虚無主義】

【希望的】

【拝金主義】

【努力家】

 十三人分。

 壱石は楽しげに言った。

「不吉な数ー!」

「最後の晩餐?」

「え? なんで?」

「あ、いや十三が不吉なのってそうじゃん」

「ユウ詳しー。マジ頭良いー」

「まあこのくらいは……」

 次に壱石は希死念慮の文字を指さした。

「これ一番目がユウじゃん。ほーら希死念慮」

 一夕は思った。希死念慮は思想ではないと。言うならせめて厭世主義だろうと。

 しかし口には出さない。先程の戦いで勝利し認められたばかりだ。

 次に壱石は括弧書きされている文字を指さした。

「何これ、追加?」

『唯我独尊の方がかっこいいから、と修正依頼がありました』

 一夕は思った。唯一無二も唯我独尊も思想ではないと。しかし口には出さない。人のことを言えないからだ。代わりに別のことを言った。

「修正できんの」

『特別対応です』

「あ、唯我独尊ぽい」

 次に承認欲求の字を指でさして、壱石は一夕を見た。

「男!」

「女」

『男性です』

 一夕が続き、最後にナナが答えた。壱石が笑って拍手する。

「俺の勝ちー! 当たった!」

「おー、そうだな」

「ユウ、平気そ?」

「ん?」

 壱石が唐突に言う。何に対しての『平気』なのかわからず一夕は聞き返す。

 壱石は「平気そうじゃん」と笑って立ち上がった。文字を映す光はそれと同時に消えた。

「雑談しながら移動しよっか」

「ん。うん」

 歩く。

 部活の話。学校のあるある話。今日の宿題。一夕と壱石は些細なことを話しながら校内を見て回る。

 区別の付かない似た構造の教室。小学校なのか高校なのかの判断もできないちぐはぐなサイズ感。知らないはずなのに懐かしい『学校とはこういうものだ』と思える風景。不思議と迷うことはなかった。

 教室は使われた形跡があった。一部の机には教科書が入ったままで、ロッカーにも荷物が残っている場所がある。誰かの体操着や、リコーダーまで。

 しかしどの文字も読めない。知らない言語なのではなく、文字がぼやけたような印象を与えられる。例えるなら、漫画の背景のようだった。

 誰かの能力か、複数の壁で塞がれた迷路状の音楽室。小銭や札束だけが落ちる空っぽの図工室。廊下の窓から入り込む誰かの叫びや笑い声。他にも人が居るのは確実だが、姿はなかった。

 二人は話し合いながら、一度校舎から出る。それから、渡り廊下を通った先に向かうことにした。

 体育館だ。

 ピーーーーッ!

 二人が体育館の入り口を潜ると同時、鋭い笛の音が鳴った。続けてナナの声。

『思想【悲観主義】の自己否定が確認されました。思想【反出生主義】の勝利を記録します』

 誰かが中で戦い、終わったところだ。

 二人は顔を見合わせ、急ぎ足でロビーからアリーナに向かう。ナナの声は更に続く。

『併せて。言延生いいのべ ゆきの思想を肯定し、非矢目生ひや めいへの侵入思考が発生します』

 倒れて悶える少年と、それを見下す小柄な人物の姿があった。

 体育館の中には様々な種類のボールが沢山転がっており、体育倉庫から持ってきたのだろうマットや大きいボール籠、跳び箱などもあちこちに散乱している。弓内との対戦のような、傷や、見てわかる異変はどこにもなかった。

「終わった感じですかー?」

 壱石が声をかけた。反応したのは小柄な人物の方だ。

 帽子から靴、肩で切り揃えた髪も、上から下まで全てを黒一色で揃えた、細身の人物。呼びかけに答えて振り返り、見えた肌は衣類と対象的に白い。そしてその顔立ちは、男とも女とも、大人にも子供にも見えるようで、そのどれでもないようでもあって。あらゆる感情の抜け落ちた表情が、精巧な人形に似ていて。

「始まることこそ間違いだよ」

 ゾッとするほどに美しかった。

 思わず一夕は見惚れた。壱石は臆さず更に尋ねる。

「【反出生主義】の、何さん?」

言延いいのべ。覚えなくていいよ」

「言延さん! 覚えた覚えたー! いや俺達、対戦相手? 探してふらついててさー」

 壱石は言延と、倒れている少年へ交互に目を向ける。落ちている備品類を気にせず歩み寄ると、言延はその白い手の平を向けて壱石を止めた。

 眉一つ動かさないまま、「近寄らないで」とはっきり口にする。その声も中性的で美しい。

「思想は何?」

「俺が【一石二鳥】でー、こっちが【希死念慮】」

 そう、と頷き、倒れている少年を指さした。

「君達の相手はそれがするから。じゃあね」

 言延は、壱石との距離を保ちつつその場を後にした。壱石は目線を言延から外し、すぐに倒れている少年を選ぶ。隣に膝を付き、「大丈夫か?」と声をかける。

 少年はバッと飛び起きた。

「怖かった痛かった辛かったもうヤダ生まれてきたくなかったァーー!」

「うわ反出生主義だ」

 飛び起きると同時の叫びに壱石は驚く。一夕も、言延を追っていた目をようやく少年に向けた。

 一夕達よりも年下で、中学生ほど。制服を着ているが、一夕達には見覚えがなく、どこの学校かはわからなかった。しかし明らかにサイズが大きく、今年入学したばかりの一年生だろうとは予想できる。

 彼は慌てた様子で床を撫でたかと思うと、落ちていた眼鏡を手で弾き飛ばした。そして情けない悲鳴を上げる。

 壱石は彼が眼鏡をかけ直すまでしっかり待って、改めて声をかけた。

「や、こんばんはー」

「ひゃっ! は、な、え? ごめんなさい!」

「なんで謝んの?」

「生きててごめんなさい!」

 壱石は微笑んで言葉を聞いていた。その後ろに立つ一夕は共感から何度も頷いた。少年は、自分の言葉が信じられない、という様子で口を手で塞いでいた。

 それから少年は首を振り、違う、と自分に言い聞かせて二人に言い直す。

「あ、のっ! 【悲観主義】の、非矢です。反出生主義じゃないです!」

「あーどもー。【一石二鳥】の壱石でーす。こっちは【希死念慮】の一夕」

 どうも、と一夕は会釈する。

 一夕から非矢に対する印象はかなり良いものだった。どんな人間なのかは知らないが、思想が悲観主義というだけで充分に共感を向けられた。現時点の発話の全てが好ましい。

 しかし非矢の方はそう思っていないらしい。

「悲観主義と希死念慮と、い、ま、僕、反出生主義が頭の中っ……」

「やべぇー。この組み合わせ危ない感じ?」

「危なすぎます!」

 非矢は勢い良く立ち上がって後退る。

「未来に死しか見えない。や、めましょう。やめましょう、離れます。すみません離れま――キャンッ!」

 床のバレーボールに足を取られ、非矢は転んだ。

 その拍子に踏まれたボールは弾けて転がり、一度床と他のボールにバウンドして飛び上がって。

「え」

 一夕の顔面にぶつかった。

 一連を見て、壱石は声を上げて笑った。焦ったのは非矢だ。

「うわー! なんで!」

 慌てて立ち上がり、非矢は一夕に歩み寄る。

「軌道が! あ、きらかにおかしいじゃないですか! なんかっ、今の! 物理!」

「いや、なんか。考えちゃって。踏んで転んだら死――」

 ゴンッ。

 一夕が、非矢から離れようと無意識に下げた足。それが先程顔に当たって落ちたボールを踏んだ。そして一夕は見事に転び、勢い良く頭を打ち付けた。そして当たりどころが悪かった。全体重と衝撃を与えられた首が折れてしまった。

 目の前で人が死ぬ姿を見て、非矢は青褪め、震え、悲鳴未満のかすかな声を震わせて……すっとそれらが引いたかと思うと手を打った。

「ああ、希死念慮ってそういう」

「うん……」

 この場所での傷は数秒で消える。

 首に違和感を覚えつつ、一夕は立ち上がった。壱石が「痛そー」と呑気に笑うので、一夕もつられて笑う。そのくらい、死に慣れつつあった。

 壱石が話題を変える。

「そーいやさ。君、昔テレビに出てた子?」

「え? あー……」

「街頭インタビューに乱入した迷子の小学生!」

「ありましたけどぉ……」

「有名人ー!」

 非矢はそれに応えながら二人を見た。特に一夕の方を、じぃ、っと見詰める。

 それから、過去を知られていることへの照れ隠しを装って歩き出した。目指す先にはバレーボールがあり、それを取りに行く様子だった。

「あのー、それよりも。お二人って、お友達、とか、です?」

「そ。同じ高校でー、クラスメイト」

「なるほど」

 壱石は自然に、非矢を追うように歩く。途中、敷かれたマットは踏み付けた。

 非矢は頷いた。眼鏡を両手で押し上げて、数秒悩む素振りを見せる。それから一夕を向いた。

「死にたがりなのに、お友達、いるんですね」

 一夕は驚いた。非矢からその言葉が出てくると思わなかったからだ。

 返す言葉はなかった。

 非矢は慌てた様子で取り繕う。

「あ、すみません急に! その、えーと……友情ってやつ。い、いですよね。えーと。どーしよっ、かな」

 非矢は目当てのボールを手に取った。手の中で回す。そして、バレーボールの硬さを確かめるように押す。

「僕が、言いたいのは。死にたい人が」

 非矢はボールを手から離して、落とすと。

「何笑ってんですかって、ことです」

 蹴った。ボールは壱石に向かって飛んでいった。大した力ではない。それを受け止めようと手を伸ばす。バランスを取るため一歩前に進んだ途端。床板が抜けた。

「え?」

 バキンと音を立てて現れた穴に壱石は足を取られた。手に持ったボールのせいで反応が遅れる。転んで上手く手を付けず、太腿辺りまでが床下にハマっていた。

「え、なにこれ」

「ごめんなさい!」

 非矢は既にボール籠を引っ張ってきていた。壱石が床穴に引っ掛かり抜け出せずにいる間に、彼はボール籠をひっくり返して壱石に被せた。

 すぐさま非矢が籠に登る。人一人分に加えて金属籠の重さだ。片足のみ床下にある状況では踏ん張りが効かない。壱石が持ち上げるのは不可能と言えた。

 壱石は床を叩く。

「これ、下から抜けるわ。すぐ戻――」

「床下は細工済みです! というか、真っ暗なので動けませんよ」

「マジかー」

 壱石は捕らえられた。

 その間一夕はというと、非矢の言葉と目の前の出来事、両方に困惑して動けずにいた。

 非矢は籠の上から言った。その手にはカッターナイフがあった。

「【希死念慮】のお兄さん。僕は、その。貴方に、交渉を申し込みます!」

「え……」

「あっ、あの! なんか勝てそうな道筋見えたので! 想定される最悪への対抗と言うかそのー……ええ、はい。あの」

『【悲観主義】の非矢目生様』

 ナナの声が響く。

『【希死念慮】の一夕希様。両者の勝負開始を宣言します』

 宣言がされた。

「なんで」

「貴方はここで倒しておきたいので!」

 一夕が絞り出した『なんで』は一蹴された。

 何故、この流れで宣戦布告されたのか。戦う理由があるのか。いや、そもそも戦って思想の優劣を決めろという舞台だ、疑問に思う必要はなく、前のように楽しめばいいだけなのか。一夕の中に浮かぶ疑問と感情はまとまらず、結局最後に『どうしよう』と思わせた。

 困惑して動けない隙に、非矢は言う。

「お友達を苦しめたくない、ですよね? だからその……貴方自身の思想を、否定してもらいたく、思います」

 一夕は籠に囚われた壱石を見た。友人は目を丸くしており、危機感はない。その無防備さが余計に一夕を焦らせた。

 カッターナイフをかざして、非矢が言う。

「死にたくない、って言ってください。お友達より大切ですよね」

 それは。

 一夕は答えなかった。言葉が出なかった。

「えっ。い、えないん、です? それって、お友達より大切ですか? それって矛盾じゃないですか」

 矛盾はしていない。一夕は死にたい。

 これは本気だった。けれど友人も大切だった。友人を悲しませる自分なんか死んでしまえと思うくらいに。

 死にたい、を否定できない。

「あのー、貴方って死んでいい人間、とかだと思うんです、けど。理由とか知らないですけど」

 一夕は苦しいと思った。

 死んでいいと他人から言われることが。事実であると自分でも思っていることが。死ぬ理由があると思われているのが。そしてこんなに苦しいなら、死んでしまいたい。

 死にたい、を否定できない。

 非矢は言う。

「思想を大切にしてるんですか? 普通、死んだら思想も消えちゃうのに。どういうつもりですか?」

 一夕は答えられない。

 そうではない。そういうつもりじゃない。とは思うのに、言葉にならない。

 それとも、と非矢は勿体つけて言う。一夕が言い返せない状態であることを確認しながら、ゆっくりと。

「貴方はお友達にまで『死ねばいいのに』と言うんですか」

「違う」

「違わないです」

 一夕の否定に、非矢も否定を重ねる。

「貴方がそうやって意地を張るなら、貴方は最後にそう言い出しますよ」

 そう言って一夕を言葉で詰めた。

 現状がそう示しているのだから、このまま行けばいつかは言葉になると。

「僕にはわかります。沢山の未来の中で、貴方が取るだろう行動が。全部『予知』できるんですから」

 非矢は、強くあることを心掛けた調子で言った。それからすぐに俯いて自身の手を掴んだ。

「負ける未来見えたときの絶望感、凄いんですけどね、これ……」

「うわ、かわいそ」

 籠の中から壱石が言った。非矢は頭を横に振り否定した。

「でも僕には備えがあります。見えたからこそ、この体育館は、事前に細工をしているんです」

 非矢が両手を広げる。無造作に落ちているラケットやマット類、天井に引っかかっているボールも、その細工の一つなのだろう。先程の床板のことを含むと、古い校舎であるという点も活かした無数のトラップが潜む可能性があった。

「あ! ナナさんに許可はもらってます」

「運営への配慮えらーい」

 籠の中から壱石が拍手する。非矢はそちらに目を向けて表情を和らげたが、すぐに気落ちする。

「まあそれでも一回負けましたけど……」

「大丈夫? 俺話聞くよ?」

「聞いてくださいよ。言延さんって触るだけでもうアウトで……」

 彼らの言葉を耳に入れながら、一夕は思い詰めた表情だった。

 死にたいと思えない。友人の命がかかっている。今、自分が、言葉だけでも『死にたくない』と言わなければ。そうしなければ、自分は自分の身勝手で友人を見捨てる人間である、ということになってしまう。

 この理屈も身の保身でしかないのではないか。

 この理屈は本当の意味で壱石を助けようとしていないのではないか。

 というか何で壱石自身は平気そうな顔して敵と仲良く会話しているんだ。

 簡単に捕まった方が悪いのでは。

 いや、そんなこと思うべきじゃない。そんな風に友達を責めてしまう自分なんて酷い人間だ。

 そんな酷い人間は死ぬべきだ。

 また死にたくなっている。

 死にたさと苦しさとでまとまらない言葉をどうにか掻き集めて、ようやく、反論のようなものを口にする。

「俺の、死にたさと。セキは……関係ない」

「だったら貴方はセキさんを守るべきですね」

 あっさりと非矢は覆す。

「死にたい貴方なんかより、生きたい人の命を、優先させませんか」

 一夕は答えられなかった。その通りだとは思っている。けれど、それでも。

 優先されない命なら死んでしまいたい。

 また振り出しに戻っている。

 こんなに悩んだのに何も意味がない。

 埒が明かないと判断し、非矢は壱石に言った。

「お友達さん。貴方は、痛いのは嫌ですよね」

「うん。やだー」

「では、ええと。命乞いをしてください」

「俺はどっちが勝ってもいいよ」

「え?」

 非矢のみならず、一夕も驚いた。思わず尋ねたのは一夕だ。

「なんで?」

「え、だって」

 壱石は笑って答えた。

「まあ、別にいいじゃん」

 三人の間に何かが落ちた。

 それに対し悲鳴を上げたのは非矢だ。落ちてきたのはバスケットボールで、バウンドして一夕の頭にぶつかり彼を昏倒させた。倒れたときの当たりどころが悪く、彼はこれで一度死亡した。

 ボールは非矢が体育館の天井に仕込んでいたものの一つだった。そして一夕が、あれで死ねる、と思ったものだった。

 直接当たるのではなく、一度別の場所に当たり跳ね返る。それも含めて、一夕が思い付いたものだ。

 ガシャーン! 今度は金属質な音が響く。同時に小さな欠片が一夕らに向かって飛んでいく。一夕は欠片が直撃した。非矢は自身の髪を掠めて何かが飛んできたのを感じた。

 体育館の照明が落ち、割れた欠片の一つが向かってきたのだ。

 これは非矢の想定していないものだ。

「え、えっ? え、なにあれ知らなっ。あ、まさか」

「あのさ」

 一夕は死から蘇り起き上がる。飛んできた欠片を非矢に向けて投げ捨てながら。非矢を睨み付けながら。

 非矢を指さして言った。

「動くなよ」

「ごめんなさい!」

 非矢は籠から飛び降りた。

 一夕と反対側に着地し、素早く一夕側に籠をひっくり返す。そして壱石の手を引いた。壱石は抵抗せず手を取って穴から抜け出し、非矢に歩幅を合わせ、体育館のアリーナから飛び出した。

 一夕はその後ろ姿を睨んでいた。

 許せなかった。相手も、同じくらい、自分も。

 さっさと結論を出せばよかったと後悔している。

 再び何かが落ちる。騒音の中、一夕は何度目かの死を迎えた。


 体育館のロビー。靴箱の前。

「やばいやばいやばい怖い怖いあの人自殺に僕ら巻き込む気ですよ意味分かんない怖い意味分かんない!」

「未来予知は?」

 非矢と壱石は立ち並ぶ靴箱の間を走っている。一夕は追いかけてきていないが、非矢は「もし来たら」を想像していた。非矢の目には、アリーナの外であれば一夕から逃れられる、という未来が見えていた。

 非矢は自身の能力を『予知』と呼んでいる。

「本校舎に逃げ……たら拝金主義と鉢合って不利」

「へえ」

「グラウンド……は誰か居ますね。知らない人」

「ほー」

「い……あ、と、りあえず引きます。が、これ駄目。やり返されて負ける未来が……うわ……」

 体育館から出ようとして、立ち止まり。止まってはいけないと引き返すように歩き、どこに行こうにも悪い未来を見て二の足を踏み。非矢は涙声で言った。

「詰んでる」

「大丈夫そ?」

 壱石が軽い調子で尋ねる。非矢は頭を横に振った。それからずれた眼鏡を押し上げ、手に拳を握り、気合を入れた。

「事前準備、活かします。うん。大丈夫」

「行けそうな感じー?」

「はい。ちょっとでも……」

 ちょっとでもマシに。言いかけて、非矢は言葉を飲み込む。そのまま無言でしゃがむ。足元に落ちていた薄手の手袋を拾い上げた。それから体育館内にある更衣室へ向かった。マシにではなく、勝つために対策する。そのつもりだった。

 電気を点け、それでも薄暗い道を駆け足で進む。既に壱石と手は繋いでいない。

 先ほど拾った手袋を、数秒悩んでロッカーの影に投げる。

「これはここに置くべきです。踏んで転ばないように気を付けて」

「はーい」

「あとすみません、そこでジャンプお願いします」

「はーい」

 言われるがままに壱石は跳んだ。特に何も起きず、非矢も無視して隣の更衣室へ進む。壱石は後を追った。

「なんか意味あったの?」

「ここのワイヤーと……色々連鎖して仕掛けが解除されました。あの人の死因を減らしたわけですね」

「どこまで詳しく見えるの。未来」

「自分で仕掛けたものはわかります。他人の手が入ったら精度が下がりますけど」

「んー? 未来って気軽に変わる感じ?」

「そうですね。悲観主義の産物ですから」

 それは壱石にとって回答にならなかった。言葉の意味がわからず首を傾げる。非矢はそれに気付かず、先に進む。更衣室からシャワールーム、トイレ、準備室、と並ぶ体育館設備へ順に見て回る。

 既に仕掛けていたトラップとその導線であるロープ類を避けながら、非矢は時折立ち止まって悩み、それから、バドミントン用のラケットを手にして歩き出す。

 壱石が尋ねる。

「詰んだんじゃないの?」

「そうですね。でも諦めません」

「悲観主義なのに?」

「常に最悪を想定する。それが備えになるんです」

 非矢は答える。

「防災訓練とかだって、そうじゃないですか。先のこと想像して備えるじゃないですか。生き残るために、悲惨な未来を想像するじゃないですか。そういうのです、僕のは」

 非矢は見ている。自身が起こせる無数の行動と、その結果を。ひとまず今は一夕への対応を。

「勝てる未来が見えなくなっても?」

「不利でもやります。希望が無くても」

 一夕は死によって心が折れない。

 非矢であれば、『どれだけ準備をしても死んでしまう』という事実が思想の否定に繋がるというのに、一夕にはそれがない。他の人々にもこの特徴は無いだろう。このメリットはあまりに強すぎる。

 この事から、非矢は一夕のことを一種の災害として推察していた。勝ち目が無いと諦めそうになる悲観的な推察であり、予知だった。それでも。

「無駄だって、思わない?」

「僕は貴方達より未来を見据えてます」

 そうやって最悪を想像する度に。最悪に対策する自分のことを想像できる。最悪の事態は無限にある。よって、自分の行えることも無限になる。

 非矢は見て、そして想像し、確信する。

「僕には、可能性があるんですよ」

 これこそが思想であると。

「まあ僕の想定を超えた悲劇をあの人は実践してきたんですけど……」

「大変そー」

 予知能力が無敵と呼べない致命的欠点がある。非矢の知らない現象については予知できない。よって突発的に発動する能力は把握できないのだと、非矢は肩を落とす。

 壱石は呑気に笑いかけた。

「どうやってさ、死にたい気持ちに勝つつもり?」

「先程と基本は同じです。痛いのは嫌なので、そこだけ対策して。引き続き人質になってもらって」

「ふんふん」

「貴方のことを思うなら、死にたいなんて思うわけがない。そう仕向ければ勝てるんです」

「関係ないと思うよー」

 壱石が言う。非矢は反論を返す。

「友達が死ぬって、かなり、嫌な未来ですよ?」

「俺もそうー。俺達気が合うかもー」

 壱石はくすくす笑って同意して、それから、まったく同じ軽い調子で言った。

「でもユウには、関係ないよ」

 非矢は壱石を見詰める。壱石があまりにも平然としており、笑っており、気にしていない様子だったから、首を傾げた。ただ疑問だった。

「よくあの人と友達やってますね」

「だって友達だし?」

 壱石は笑うだけだった。

 体育館のアリーナに戻る。

 一夕いっせきは移動していなかった。

 変わらない場所で横になり、頭からは血を流し、口からは泡を吹き、辺りに散らばるボールや、籠、金属の欠片、床板、縄跳び等。あらゆる備品を使い何度も死を繰り返している。その痕跡を残して、体はすぐに完治し、生きている。

 凄惨だった。

 非矢はバドミントン用のラケットを胸の前に構え、壱石を自身の盾にしながら、呼びかけた。

「ユウさん! 交渉の続きです!」

 パンッ! 天井の照明が破裂した。ガラス片が降り注ぐ直前、非矢は壱石を引っ張った。

「ひゃあ! もう怖いなぁ貴方は!」

 壱石を安全な場所にやり、非矢自身は紙一重で避ける。

 一夕には突き刺さっているが、吹き出す血にも痛みにも一夕は無反応だった。

 非矢は足元に散らばるガラスをラケットで払いながら、壱石を盾にしつつ、一夕へ近付いた。

「僕からの交渉材料は、変わりません。壱石さんの身の安全と、貴方の思想。交換しましょう」

 バスケットボールが落下する。非矢はそれをラケットで受け流す。

 古い床板が勝手に抜ける。非矢はそれを事前に避ける。

 一夕の能力は手の混んだ自殺であって、物の操作ではない。傾向を一度見たのだから、どのように攻撃が来るかは全て非矢の予知に映る。身体能力的にも、避けることは難しくない。

 非矢は慎重に周りに目を配る。脆くなった壁、足を捕らえる輪になった縄跳び、天井のボール。跳び箱やマット。いくつかの仕掛けは一夕の自殺に利用されてしまい、自分では使えそうにない。自分の身を守るにはどうするか。

 一夕は起き上がり、ようやく口を開いた。

「セキ」

 ミシ、という音。

 悪寒がした。

 何か最悪のことが起きる! 予知に突き動かされ、非矢は壱石を捨てて咄嗟に跳び箱へ向かった。

 一夕が言う。

「俺はさ、認められて嬉しかったんだよ」

 天井の細工、照明、全てが落下する。

 ダンッ! 一斉に落ちた様々が音を立て、腹の底から揺らすような振動となって伝わる。非矢は跳び箱の上段を利用して頭上を守っている。

 壱石は奇跡的に傷を負っていない。

 一夕の体には大量の傷を作っていたが、死に至らしめてはいない。手足や肩が血に染まっただけだ。それもすぐに復元する。

 館内は真っ暗になった。玄関の電気は被害を受けておらず、アリーナを照らす明かりは入り口から差し込む僅かなものだけとなっている。

 非矢はおそるおそる辺りを見渡し、頭上の暗闇に目を向ける。目には何も映らなかったが、非矢は恐怖に身を強張らせた。最悪の未来が予知として見えていた。

 天井そのものを落とし、アリーナ全体が潰れる未来が見えたのだ。一夕はそういう死に方を考えたのだろう。

 自分への殺意。それはどれほど大きいのだろうか。

 友人同士の会話は続いている。

「死にたいって気持ちが本当だってこと! わかってほしいだけなんだ!」

「わかってるよ」

「わかって、たと、しても!」

「俺、わかってるよ」

「セキ」

「うん」

「迷惑かけて、ごめん」

「ユウ」

 壱石は笑って言った。

「それを理由にして、死にたい?」

「そうなんだよ!」

 一夕は泣いていた。ミシミシと天井は音を立て、遂には建材の一つが剥がれて落下した。それは床の上に敷いたマットに当たり、貫通した。跳び箱程度では防げないと非矢は戦慄する。

 二人の会話は、周りの状況を無視して続けられている。

「そうなんだよ! ごめん、ごめん! 俺だってこんなの、こんなの駄目だってわかってる!」

「うん」

「でも嬉しかったんだよ、仕方がないだろ!」

「そっかー」

「死にたいって、それでも思ったんだよ!」

 一夕は、対戦相手である非矢のことも眼中にない。非矢は内心で勝利を確信した。だから早く逃げたいとすら思った。

 泣きながら謝る自殺志願者と、それを見て穏やかにただ受け流し否定も肯定もしない友人。一夕が崩壊するのは時間の問題だ。そしてこの状況は、非矢がその能力により推察し、生み出したものだ。勝利判定はされる。その未来はもう見えている。

 もうこれ以上ここにいる必要もない。落下物から身を守るため、跳び箱の上段を被りながら玄関の光に向かう。刺激しないよう慎重に。

 このままなら勝てる。勝てば、最悪の事態は避けられる!

 悲観的な展望によって導いた最悪の事態。能力と性格と死を恐れない圧倒的メリットを理解して予知能力が導き出した、今最も可能性が高い未来。

 彼は全員を殺して完全勝利を果たすだろう。

 そして希死念慮が『正しい思想』として蔓延するだろう。

 反出生主義も恐ろしい。けれど、生まれてしまったものは仕方がないじゃないか。今すぐに死のう、という発想は、自分の、そして大勢の未来を即時に奪おうとする。それだけは避けたかった。

 しかし今、非矢が勝てば。一夕は三つの絶望的な思想を抱くことになる。

 反出生主義によって過去の生まれた事実を嘆き、悲観主義によって未来の絶望を嘆く。そして希死念慮により、今、生きていることを否定する。そうなった人間が活動できるわけがない。そうすれば、一夕を止められる。

 止めなきゃ、と思ったのだ。止められるのは自分だけだと思った。悲観的な予知だった。

 出口まであと少し。

 一夕が泣き崩れる。頭を抱え、謝罪らしき言葉を繰り返す。

 ごめんなさい。許して。そういった響きを持った喚き声の中から一つだけ、明確に聞き取れる言葉があった。

 「お前も一緒に死んでくれよ」と。

 非矢は振り返らなかった。ただその痛ましい声を聞き、居心地の悪さを感じた。

 人が苦しむ姿を見るのは嫌だ。それが悲しくて、辛くて、避けたいと思うからこそ備えるのだから。自分一人の未来を憂うのは利己的すぎる。他人の苦痛に目を向けて、全員の備えになりたい。

 悲観主義として立ち向かいたい。

 ロビーに辿り着いた。跳び箱を外して放り出す。

 非矢は一夕を、最大の脅威の一つとして認識している。それと同時に最大の被害者だと。

 彼はあまりにも生きるのに向いていない。未来も可能性も、自分の思想を活かすこともできない、哀れな人だと。こんな人は――生まれてこなければ苦しまずに済んだのに。死にたいなんて思わず済んだのに。

 彼の哀れな未来なんて見ずに済んだのに!

「あ、ミス」

 ピーーーーッ!

 鋭い笛の音が鳴った。

 非矢は膝から崩れ落ちた。照明の下、あと数歩で体育館から出られる位置だ。けれど絶望の方が大きく、動けなかった。

 悲観的な思考によって未来を想像し、その結果『死にたがりの彼が辿る未来』なんて見たくないと思ってしまったのだ。

 この場においては、思想の否定と判定された。

 光の塊、ナナが現れる。非矢の前と、一夕の前、両方に。

『思想【悲観主義】の自己否定が確認されました。思想【希死念慮】の勝利を記録します』

「え」

 気の抜けた声を出したのは一夕だ。非矢に対して何もしていないのだから。

 非矢に侵入思考が発生する。バチンという音の後、非矢は頭を抱えた。

 唐突な勝利に困惑し、一夕はナナを見て、それから壱石を見上げる。涙でよく見えない目を袖で拭う。一瞬、よく見えるようになった視界に、壱石と、今にも壊れそうな天井が映った。

 壱石は笑っていた。

「いいよ」

「あっ」

 耐えきれなくなった天井が落下し、何もかもを押し潰した。

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