死にたがりは一夜をどう越える

虹色乃何科

一 希死念慮VS弱肉強食

 一夕希いっせき のぞむは今、死のうとしている。

 彼は今年十七歳になる高校生だ。学校帰り、彼は制服のままマンションの屋上にやってきた。そして身長を優に超える高いフェンスをよじ登って、その一番上に腰掛けた。

 地上からここまでの距離は十五メートルほど。落ちれば命は無い。その確実性を理解して、彼は一度踏み止まり、地上を眺めている。落ちる場所を決めるために。あとは落ちるだけと思いながら。

 一夕は今、死なない理由を探している。

 夕暮れ時だ。屋上を利用している住人は他に居ない。一夕の行為を目撃しているのは一人だけだ。

「そこ寒くねー? 早く戻ろー」

 クラスメイトであり友人の壱石三又いっせき そうすけだ。

 一夕と同じ制服を着た彼が、戻るようにと呼びかけている。

 茜色の空の下、一夕の黒々とした影が長く伸びている。壱石はその影に重なり、夕日の眩しさから逃れつつ、再び呼びかける。

「ってかユウ、ノート見せてって言ったじゃんー」

「あ」

 ユウ、とは一夕のあだ名だった。同じ『いっせき』と読む苗字であるから、『夕日の方の』の略。

 一夕は顔を上げた。地上から壱石へと目線を向ける。壱石は呑気な表情で次の言葉を投げる。

「あとあのー、先輩から借りパクしたアレ、お前が持ってったことにしていい?」

「バカ、やめろセキ!」

 フェンスから足を投げ出し、飛び降りる。屋上側へと。着地に少しふらつきつつ、一夕は友人の隣に歩みを進めた。セキ、とは壱石のあだ名だった。『石の方の』を由来としている。

「で、ノートだっけ?」

「そ! 家お邪魔していい?」

「うん」

 何事もなかったかのように、二人で並んで道を戻る。話題も、学校の授業、宿題、休み時間といった当たり障りのないものばかりだ。

「ノートに落書きあるかも。絶対笑うなよ」

「マ? 俺も落書き追加していい?」

「ダメー」

 話しながら、一夕は考える。

 ドアノブと首に制服を引っ掛けて。階段から落ちて。マンションの外廊下から地面に落ちて。死ぬ。

 一夕は考える。

 外を走る車に轢かれて。学生鞄に入っているカッターナイフで。玄関に置かれた鍵で。リビングの椅子で。キッチンの包丁で。ガスコンロで。自室で。友人の前で。死ぬ。

 一夕は考えてしまう。この場において、どのように死ぬ可能性があるか。どのようにしたら、自分は今すぐ死ねるだろうか。

 考えては自分で否定し、馬鹿馬鹿しいと考えを止める。けれど時々、考えが頭を埋めて、それ以外に何も思えなくなる。ぼんやりしたまま体が動き、実行の一歩手前まで進んでしまう。

 勿論実行したことはない。呼び止められ、別の目的を与えられたらすぐに引き返すような、簡単に消え去るのに纏わり付いて離れない死への探求。一夕にはそういう危うい癖があった。

 一夕は死にたがりの少年だ。本人の望みとは無関係に。

「助かったぁー。ありがとユウ」

「おー」

 一夕の自室でノートの貸し借りを行い、壱石がその場で書き写す。この友人が放課後に立ち寄るのはいつものことで、今更、一夕の親が顔を見に来ることもない。

 少しの滞在の後に壱石が帰ると切り出して、一夕が玄関まで見送る。これは彼らの間でよくあることだ。

 今日もそのように進んだ。

「それでさー、『共通夢のメカニズム』ってのがバズってて」

「なあ、セキ」

「んー?」

「死んだらごめんな」

「んー、そっかー」

 玄関先でのこういった会話も、慣れたものだ。一夕にとっては冗談と本音が半分含まれていた。それに対するセキの返事もいつも通りだった。それから話題が切り替わることも。

「そういやサトセンさぁ、今度テストするって言ってたじゃん。さっき写したとこも範囲らしいんだよね」

「なにそれ、知らない」

「へへっ、俺も今日聞いたとこ。Xでさー、ナカノがテストやべぇって言ってて」

「呟く暇あるなら勉強しろよ」

 話題が変わって笑い合う。その間も。

 一夕は考える。

 今、セキは止めなかったな、と。死のうとする人間を前にして、一度も焦った姿を見せなかったなと。慣れたからだろうか。初めからそうだっただろうか。どうでもいいからだろうか。本気ではないと思ってるからだろうか。

 一夕は考える。

 死のうとする人間を前にして、友人は全力で否定するべきなのだろうか。目をそらすべきだろうか。肯定するべきなのだろうか。セキの対応は間違いか? 正解か? 違う、それはどうでもいい。

 これは死ぬ理由になるか?

 一夕が考えるのはつまりこれだった。こんなことを考えるなんて間違っている。けれど、それでも。それでも終わらない。わかっていても止まらない。考えずにはいられない。

 お前を理由にして死んでもいいか? と。

『夜な夜な考える』

 声が聞こえた。

 少女のような声だ。すぐ近くからしたそれに一夕は驚き、辺りを見回す。けれど声の主の姿はない。壱石に目を向けると、彼は静かな表情で微笑んでいた。口は動いていない。しかし声は変わらず、すぐ近くから聞こえる。

『何が正しいのでしょうか』

 ばしゃん、と水の音がした。


【一石を投じる】


 一夕は目を覚ました。硬い床に転がされていると気付き、まずは恐怖を覚えた。何があったのか、と。

 視界に広がる光景を確認する。廃校、だろうか。

 ところどころがささくれ立つ木製の床だ。長い廊下となっており、片側は一面が窓、片側はすりガラスの窓と木製の扉が並んでいる。窓の外は暗く、天井に点々と並ぶ切れかけの蛍光灯が、心許ない光で辺りを照らしていた。

 倒れる前、水の音を聞いた記憶があった。水面に石を落としたような音だ。しかし近くに水辺はない。一夕は身を起こして、すぐ近くの扉を見上げた。開かれた扉の向こうには教卓や黒板、机がある。見覚えはない。しかしこの材質や空気が無性に懐かしい気持ちにさせる、ノスタルジックで古い学校。

「わぁー! ユウ! 起きたー!」

「セキ」

 教室の中から壱石が駆け寄ってきた。途端にノスタルジックさは消えた。壱石は一夕の前に膝を付き涙声で叫んだ。

「ここどこなんだろぉー! 起きたらここでさぁ、お前倒れてるしマジ怖ぇー!」

「ああ、うん」

「ってか鞄ないしぃー!」

「あ、そういやそう」

 自分より騒いでいる人を見ると冷静になる。一夕はそういった話を思い出した。壱石の涙目を見て頭が冷めたためだ。妙に懐かしい学校風景への感傷どころか、知らない場所への恐怖さえ吹っ飛んだ。

 冷静な視点で一夕は自分達の服装を見る。

 拘束されてはおらず、制服姿のまま。しかし壱石が持っていたはずの荷物はなく、玄関に立っていた一夕は何故か靴を履いている。ひとまず身代金目的の誘拐という線は消した。デスゲームに巻き込まれた線は残した。そうなったら最初に死のうと密かに決意しつつ。

 無意識にポケットを触り、そして何も無いことに違和感を覚えてハッとする。

「あ、イヤホン無い」

「うわ最悪ー」

 一夕のワイヤレスイヤホンが無い。スマートフォンも無いので使い道も無いのだが、一夕にとっては衝撃だった。多少気落ちするほどに。最悪過ぎて死にたいな、などと思う程度に。

「ユウ、なんか覚えてる? お前のマンションだったよな?」

「まあ、俺んちの玄関だったはず、だけど」

「あー、やっぱそこまでは同じかー」

「セキお前、声聞いた?」

「うん? あー、女の子の!」

 直前の記憶は全く同じ。

 聞こえていたのなら、何故平然としていたのか。尋ねようとした瞬間、別の声が乱入した。

「そこの少年達!」

 たんっ、と靴の音が高く鳴った。

 長身の若い女性が歩み寄っていた。長い髪を高い位置に纏めており、上下はシンプルなランニングウェアと、使い込まれたスポーツシューズ。手には折れた金属バット。廃校には不釣り合いな服装だが、健康的で筋肉質な体にはこれ以上ないほど似合っていた。

 女性はバットを一夕達に向ける。

「早速だ、戦おうではないか」

『【弱肉強食】の弓内入良ゆみうち なりみ様』

 女性――弓内の声とは別に、少女の声が響いた。校内放送のように反響する声だ。

『【希死念慮】の一夕希様』

「え」

 何故名前が読み上げられたのか。そして希死念慮とは二つ名か。一夕はそう疑問を抱いたが、少女の声は宣言を続ける。

『両者の勝負開始を宣言します』

「それでは手始めに」

 弓内はバットを振りかぶる。ぼんやりとそれを見る一夕の前で、バットが力強く床に叩き付けられた。元より折れていたアルミ素材はより深く折れ曲がり、床には傷が入る。

「ここの床は、私より弱い!」

 ばくっ。

 齧り取られる音がした。と同時に、一夕の立つ床が消えた。あっと叫ぶ間もなく一夕は落下し、一つ下の階へ。似た構造の廊下に腰から叩きつけられた。

 一夕が痛みに呻く中、頭上から高笑いが届く。

「あははは! 便利だな! これは面白い!」

 天井に空いた大穴から弓内が覗き込んでいた。楽しくて仕方がないという表情で。

 下から見上げた大穴は、巨人の歯型のような形をしている。まるで齧り取られたように。

「弱いものは食われる。私の思想、【弱肉強食】の能力だ!」

「待ってぇー! それまだ聞いてませんー!」

「情報弱者も食われてしまえ!」

 非難の声を上げたのは壱石だった。焦りと空元気が含まれた声で「解説! 解説を求めまーす!」と叫ぶ。一夕も同意だった。自分達は突然見知らぬ学校に連れてこられて、目覚めたばかりなのだ。

 かしこまりました、と少女の声が響いた。

 数秒経って、一夕の頭上が明るく輝く。輝きは子供ほどの大きさになり、空中に浮かぶ白い塊になった。

『はじめまして。私は判定システム【ナナ】です』

 白い塊から、少女の声がする。長い髪で、長いスカートを穿いているように一夕には見えた。

 上から下まで真っ白で、淡く輝いている。顔立ちもわからないそれは、声と形が少女のようであるというだけの光だ。

『ようこそ、【ヨナヨナ】へ。ここは答えが出るまで明けない夜の街。今夜の議題は、誰の思想が最も優れているか』

 ナナは続けた。

『最も優れた思想が決まったとき、この夜は明けるでしょう。朝と共に貴方達は解放され、元の世界に戻ることができます』

 壱石が尋ねる。

「決める方法は?」

『他の思想を、否定させてください。戦いによって』

 一夕は首を横に振った。そんなことはできないし、こんな意味がわからないものに付き合う気はない、という意味で。

 ナナは言葉を続ける。

『貴方達は皆、特化した思想をお持ちです。その思想によって、他の思想自身に、自分は間違っている、と思わせてください』

「事態は理解したな?」

 弓内が割り込む。もういいぞ、とナナに言うと、ナナはパッと消え去った。

 光量が減り、一段と暗くなったように感じて一夕は目を細める。数度瞬きをしている間に、弓内は穴から飛び降り一夕の前に着地していた。

「この空間では不思議な能力が使えるらしい。バトルものの漫画みたいでワクワクするなぁ、少年!」

「え、え、なにそれ。知らないですけど……」

「私のものを見ただろう?」

 一夕の前で、弓内はカチンと歯を合わせる。ガキンッと硬い音を立て、弓内の持つバットが短くなった。何かに噛み千切られたように。

「『私よりも弱い』。ならば私が食ってやる。私の思想は【弱肉強食】である故に!」

 尻餅をついた姿勢のまま、一夕はそれを呆然と見ていた。弱いものは噛み砕かれる。いや、消える。彼女の口の中に移動しているわけではなさそうだ。

 一夕は考えている。その間に弓内が歩み寄り、一夕の腹を踏んだ。

「さて、君は手も足も出ず横になり、私は君を見下ろしている。君の思想より私の思想の方が強いというのは見ての通り! 言うまでもないが」

 一夕は考えている。腹は踏み付けられて痛むが、それだけだ。屈辱だとか恐怖だとかは感じていなかった。この現実離れした状況への不安や困惑でもなかった。唐突すぎる展開、それよりも関心を向けるものが別にあった。

「床より強いって、どういうことですか」

「私が殴って傷が付いた!」

「判定甘くないですか」

「人間が無機物風情に負けるわけがないだろう」

「あー、確かに……」

 一夕は考えている。弓内が踏み付ける力を強くしても、考えは止まっていない。

「負けを認めるか?」

「ああ、ええ、と……」

「どうした」

 一夕は考えた。空間的距離を無視した噛み千切り。アレが自身の体を噛み千切れば。死ねるな、と。

 ばくっ。

「え?」

 考えると同時だった。咀嚼音、そして脇腹に激痛が走る。

 脇腹が大きく齧り取られていた。あまりの痛みに悲鳴が喉から飛び出した。

 弓内はそれを見て足を退けた。齧り取られた形は自身の能力によるものだ。しかし何もしていない。勝手に発動している。

「ナナ、説明を」

『この空間では死亡しません。数秒で完治、もしくは復元します』

 声だけが響き、解説を行う。

 証明するように、一夕の傷は消えていた。衣類の穴も同時に消えている。激痛の余韻で一夕は荒い呼吸をしており、命は失われていない。

「なら、よかった」

 弓内は頷き、別の質問に続ける。

「私の能力が勝手に発動したのは?」

『対戦相手の能力によるものです』

「彼の能力は」

『回答には本人の許可が必要です』

「そうか。教えろ」

 弓内が一夕に言う。返答よりも先に、一夕の頭の中には別の考えが浮かんでいた。

 一夕は考える。

 脇腹だったから、死ななかった。傷が塞がる方が早かった。では、即死する位置なら、と。

 ばくっ。

 ……気が付いたら、一夕の目線は何もない廊下に向かっていた。

 状況がよくわからず、一夕は横になったまま、何が起きたのか……さっき、自分は何を考えたのかを思い出す。

 首が噛み千切られたら、と思ったのだった。途端、首に鋭い痛みがあった気がする。けれど何が起きたのかを認識するより先に倒れ、再生した。

 本当にそうか? 記憶が消えている感覚に混乱し、先程までの出来事は夢なのかと錯覚する。パニックで思考がまとまらないまま立ち上がる。

 弓内の姿を見て記憶がはっきりした。

 彼女は静かに一夕を見下していた。

 死んだのだ、と納得した途端、混乱は去る。なるほど、何度も死ねるのか、などと考えた。状況をより詳しく知るために体を見る。噛み千切られたはずの肉は勿論、衣類も復元されている。

 これは便利だな、と一夕は思った。ああ、これなら。迷惑をかけないで済む、と。

 その発想に至って、思わず一夕は頬を綻ばせた。

 迷惑をかけないで済む。

 なんて嬉しいことだろう! 一夕にとっては最高の場所で、最高の出来事だった。死について考えてしまう、という思いから、死んでいいのだ、と考えが変わる。再び死について考える。例えば――

「待て。何もしてないのに死なれては困る」

 弓内に言われて、思考を無理矢理止める。

 湧き上がりかけた高揚感を無理矢理抑え込まれた。目の前で玩具を取り上げられた気分だった。

「少年。君の思想、聞き慣れない単語で意味がわからなかった。内容は何だ?」

 それは……答えるべきだろうか?

 一夕は悩んだ。言葉の意味は知っている。希死念慮。『死にたいという強迫観念』だ、と認識している。

 ただこれは初対面の人間に対して言うものではない。これは思想ですらない。症状だ。そう思っていた。

 悩んでいるのを拒絶と受け取ったのか、弓内が質問先を変えた。頭上に開けた穴に向けて声を張り上げる。

「お友達の君! 知ってるか?」

「あー……」

 壱石は言葉を濁す。言いにくいことなのか、と一夕は思った。まあ、納得はできる。言い難いだろうな、と。ああ、では、俺が言うべきか、と。

「死にたい、です」

 声は少し掠れていた。年上の女性と話し慣れない緊張もあった。気恥ずかしさを数度の咳払いで誤魔化して、改めて言い直す。

「死に方を考えてしまう、です。なんか……考えた途端に現実になってますね、ここだと。そういう能力なんじゃないですかね。ええと、ナナ?」

『はい。一夕様の能力は、想像する死亡方法の実現です』

「ええ、勝ち目なさすぎ……」

 声だけの返答を聞いて、一夕は自虐的に言いながらも口角を上げた。

 弓内が言う。

「ナナ、勝敗について再度確認する。心を折る、で合っているか?」

『いいえ。相手の思想を否定させることです』

「つまり、彼の場合。死にたくない、と思わせれば良いのか」

『その場合、弓内様の勝利と判断されます』

「そうか」

 弓内は一夕に歩み寄り、折れた金属バットを両手で握る。

「ちなみに君、痛みは?」

「え、と?」

「痛みはあったか」

「あ、あー……はい、まあ」

「そうか」

 バットが一夕の頭を横殴りする。一夕は勢いに押されて倒れる。反射的に体を丸め、床に転がる。

「痛みから逃れたいだろう。それは生きるためと言える。思想を改めろ」

 一夕からの返答はない。

 次に弓内はカチンと歯を合わせた。今度は指が齧り取られて、一夕は痛みに悲鳴を上げる。

「改めろ」

 一夕からの返答はない。

 それを痛みに耐えている結果と捉え、弓内は再び一部を齧り取る。失った指は再び再生され、そして再び失う。意図的に、命に関わらない場所を狙っている。

 それを数回繰り返した後、弓内は攻撃を止めた。痛みに苦悶する一夕の隣に膝を付き、尋ねる。

「勝ちたくはないか?」

 強く、鼓舞するような声色だった。

「強くなりたい。打ち負かしたい。痛みから逃れたい。その悲鳴も、その姿勢も、涙すらも、生きようとする意志だ」

 一夕は答えない。

 涙が溢れている。呼吸も危うかった。

「……見えていないか知らんが、逃げ道があるぞ。行かないのか」

 ここは廊下で、教室の扉は開放されている。教室であれば、机や椅子、ロッカー、その中身、少なくとも何かしらが手に入る。それを武器としても、防具としても良い。

 けれど一夕はしなかった。

 倒れたまま息を吸う。涙が鼻や喉にも逆流しており咳き込んだ。何度か深呼吸をする。呼吸が震えている。

「俺、弱肉強食の価値観は、あのー……嫌いじゃ、ないですよ。その。あー……だって、ええと。俺って、その。強くはない、ので。そう、俺、弱くて」

 痛みは傷の再生と共に消えている。けれど今も一夕の声は震え、息も絶え絶えに無理矢理吐き出されていた。

 一夕は必死だった。この言葉を届けなければ、という気持ちが空回りするくらい。言わなければ、という気持ちが頭の中を溢れるくらい。

「貴方の価値観が、この世界で、正しいなら。俺は。弱い俺は」

 一夕の声は上擦っていた。興奮によって。

 喜びによって!

「死んでいいってことじゃないですか!」

「気持ち悪いなお前」

「あははははは!」

 弓内に一蹴される。それでも一夕は笑っていた。床の上で転がり動けなくとも、楽しくて仕方がなかった。痛くて苦しくとも。泣くほどに楽しかった!

「そうなんですよ! 俺本当っ、本当にどうしようもなくて! あは、よかったぁ! よくないけど!」

 本当に楽しく感じて仕方がないのだ。

 今から死ぬんだという感覚が高揚感だった。思想をぶつけられることが爽快だった。その思想が自分を否定する度、自分が肯定されている。それがただ嬉しかった!

 苦痛を受けるたび認められた気がしていた。

 思想を否定するどころではない。弓内は尋ねる。

「そうか。もしやお前、食われるのを待つ弱者だな? なんだ、学校でイジメにでもあったか」

「あはっ! えと、違います。友達多いんで」

 一夕は社交的な方だ。

 まず今日も、一夕は友人数名のグループで放課後に遊びに出掛けていた。その帰り道、互いの家が近いからと壱石と共に自宅マンションに立ち寄った。壱石が休んでいたときのノートを見せるという約束も、帰り際に交わされたものだ。そこに死に至る原因はない。

 誰も一夕に対して酷い扱いをしたわけでもなく、冗談やからかいは度を過ぎていない。友人同士の適度な距離感で、あらゆる関係は良好と言える。

 弓内は言葉を変える。

「親か? 兄弟か? 何にせよ、逆らえない存在からの逃避だろう」

「違います。家族旅行とかめちゃくちゃ行きます。あと一人っ子ですね」

 一夕は恵まれた方だ。

 裕福とは言えないが、貧困とは縁遠い。食べるものに困ったこともなく、金銭的な理由で進学先について悩む必要もない。ある程度の学力があれば、望む未来を得られるだろう。両親からの干渉はやや一般より過ぎているが、束縛や依存とは程遠い。信頼され、見守られ、適度に支えられている。苦労は人並みなものしかない。

 弓内は眉をひそめた。

「それで、その思想か」

「はい」

「贅沢だな」

「俺もそう思います」

 一夕は涙と涎を拭いながら答えた。

「死んだほうがいいくらい、最低だって」

 自覚はある。そして、開き直れるほどに強くはない。何故なら、ほとんどの知人は必死で止めようとしたからだ。一夕の死を。

 一夕の両親は、一夕がその好奇心で事故を起こす幼児期を知っている。赤ん坊が無邪気にアイロン台を倒し焼き潰される恐怖を知っていて、思春期の今もそれが続いていることを心配している。

 友人は、一夕がうわの空でドジをしやすいことを知っている。スマホを見ながら歩いて駅のホームから転落する恐怖を知っていて、身近な人間がそれを起こす可能性に心配している。

 一夕は愛されている。

 多くの人間から愛され、見守られ、そして死を乗り越えて生き延びてほしいと願われている。多くの人間の望みを背負って生きている。多くの人間から与えられた愛を、きちんと受け取って、それが愛だと理解して、そして、その上で。まだこんなことを考えている。心配をかけてしまった。それも、本当に苦しくて大変で生きるのが辛いから死にたいという世の中の人々を差し置いて。

 だからこんな自分は死んだ方が良い。

 死にたい。

 それが一夕だ。

「訂正されたいんですけど、なんか、感情なんで無理っぽいですね」

「黙れ。矯正してやる」

「わぁい」

 一夕が笑って答える、それは途中で悲鳴に変わった。弓内が一夕の体に穴を開けたためだ。その穴を踏み付けてなじる。

「笑えないほどの苦痛を与えてやろう」

 繰り返す。先程までと全く同じことを。

 繰り返す。一方的な暴力を。

「人は死にたくない、苦しみから逃れたい。そのために強くなりたい」

 繰り返す。

「貴様の思想は間違っているのだと、その体が答えている」

 弓内は語る。

「私の思想が、正しい」

「俺も……そう思うん、ですけどね」

 けれど一夕は言う。

 何度も命の危機に晒され、痛みを浴び続けているというのに、怯えも恐怖も表さない。いつだって死ぬ気だったためだ。今も、死のうという考えは変わらないからだ。痛みを知ってもなお。

 何度死のうと、既に死んでいようと、それでも。

 一夕は考える。

 ああ、願いが叶ったのに満たされない俺は。

「こんなときも生きようと思えないのなら、もう生き物として、破綻してるなって」

 弓内は歯噛みした。

 再び一夕の体に穴が開く。

「何だお前は! おかしいだろう!」

 痛みはある。苦しみもある。死を何度も経験したくはない。すぐさま元に戻るとはいえ、苦しいものは苦しい。死にたいわけであって苦しみたいわけではない。一夕は確かにそう思っている。

 けれど勝負は終わらない。死にたい気持ちを否定できないために。

 ここに居る誰の目から見ても、勝敗は既に決まっているのだ、強い者は弱い者を打ち負かしている。

 負けたものはどうするか。弱肉強食の思想においては、負けるまいと努力し強くなろうとする。あるいは諦めて死ぬ。弓内にとってはそれが当たり前のことで、そこで、負けることを目的とする存在は考慮されていない。何より、見ていられない。

「さっさと、終われ!」

「あー、俺もわかります」

 忌々しく言う弓内に、一夕は答える。何度の死を経験しているのに平然と。疲弊しているのは弓内の方だ。

 弓内は思い始めていた。なんでもいいからさっさと終われと。強弱は既に決まった。決まっている。というのに続ける意味がない。強弱ではない、勝敗なんてものが邪魔をする。

 一夕が言う。

「さっさと死んで終わりにしたいですよねぇ」

 今この場において、望まれているのは強さだろうか。今この場において、勝利は強さとは関係がない。

 終わりにしたい。

「お互いに」

 もう

 ピーーーーッ!

 鋭い笛の音が鳴った。弓内は咄嗟に一夕から離れ後方に跳ぶ。四足で着地し、先程まで自分が居た場所を睨んだ。

 光の塊、ナナが立っていた。

『思想【弱肉強食】の自己否定が確認されました。思想【希死念慮】の勝利を記録します』

 ナナの声が響く。

『併せて。一夕希の思想を肯定し、弓内入良への侵入思考が発生します』

「……なにそれ」

 侵入思考。一夕は疑問を呟いた。その言葉は知っている。しかし、人から人への侵入思考という使い方はしないものだ。

 しかし一夕の言葉に対する返事はない。弓内も答えを知らず、上体を起こし、ナナを見据えて尋ねる。

「何をもって、私の負けと判断した」

『貴方の心情から、自己否定を検知しました』

「は……」

 弓内は爪先で床を蹴った。

 苛立ちを顕にし、ナナを睨み、一夕を睨み、そして目線を一度下げ、最後にナナへと向き直った。

「ゲームシステムが悪い」

『この世界が求める要件がシステム化されています。貴方達の現実とは異なります』

「この地での勝敗と強弱の不一致により、揺らいだ。それは認めよう。だが、私はこいつの思想を肯定してはいない」

『肯定したのはこの世界です』

 ナナは再び、『侵入思考が発生します』と繰り返した。

 バチンッ。電気が弾けるような音がして、弓内は衝撃に体を震わせた。立っていられず、その場に膝を付く。頭痛に耐えるため頭を押さえた。

『完了しました。次の対戦相手をお探しください』

 再びナナは消える。弓内は小さく呻き、今度は手で口を塞いだ。疲れ果てた一夕は倒れたままで、誰も喋らず数秒が経った。

 勝負は終わったのだと、空気が示していた。

 一夕を突き動かしていた興奮も去っている。涙も止まり、笑いも止まり、落ち着いている。だが少しだけ、嬉しいと感じていた。

 死に対する高揚とは別。この勝利についてだ。

 勝敗は、自分の思想を否定したか否かで決まる。相手の思想を認めることではない。よって、一夕はこの戦いにおいて自身が認められたとは思っていなかった。そして弓内もまさか、死にたいとは思っていない。

 相手を認める速さならば一夕の方が先だ。【弱肉強食】という言葉と彼女の堂々とした態度は、一夕にとっては眩しいくらいに強い。ああいった人間が生き残るのだろう。そして間違いなく、自身は弱者だろう。そう思っている。

 けれど勝った。

 そして肯定された。一夕の感じる『死にたい』は本物だった。そう言われている気がしたのだった。認められた気がした。受け入れられた気がした。本気じゃないくせにと見捨てられることがどんなに虚しいか。どんなに、悲しいか。寂しいと思ってしまうか。

 本気なんだってわかってほしかったんだ!

 それが良くないことだとは思っていた。

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