終【末路】

 引っ越し先のアパートは新築だった。白い壁、木目調の床、差し込む陽光すら整然としていて、ここではすべてが「新しい生活」を象徴していた。


段ボールはすでに片付き、カーテンが窓を覆い、電子レンジがチンと音を立てている。机の上には、二つの湯飲みが置かれていた。湯気が立ち、部屋は静かだった。


郵便受けを開けると、また白い封筒が届いていた。


差出人の記載はない。いつもの、何の変哲もない、けれど毎週決まった曜日に届くそれを、真白は当然のように手に取った。


封を開ける。中には、一つの歯。血は乾いており、肉片もわずかにこびりついていた。真白はそれを両手で包むように持ち、口元に笑みを浮かべる。


それを見た優馬も微笑んだ。どこかぎこちなく、けれど確かに笑っていた。もはや彼らは言葉を交わさない。ただ、その歯が今や「日常の一部」であるかのように、自然に机の上に置かれた。


真白の右腕には、うっすらと噛み跡が浮かんでいた。赤黒くなった歯型。肩、背中、太もも、そして足首へと、それはゆっくりと全身へ広がり続けていた。


痣のように、火傷のように、あるいは見えない何かに印を刻まれたように。


ダイニングテーブルに置いた新聞には、小さな見出しが載っていた。「〇〇市で失踪相次ぐ――現在も若者6名依然不明」


テレビでは繰り返し、防犯カメラに映った最後の被害者の映像が流されているが、そこには顔もわからない黒いスーツの男が写っている。


部屋の空気は、湿っていた。カーテンの隙間から吹き込む風が、妙に冷たい。壁際の鏡は、いつからか反射の角度がずれていたが、誰も気に留めなかった。


何も変哲もない日常が改めて始まったのだ。

2人にとって、特に変わらない日常。


 そして一カ月後、優馬は姿を消した。


彼の荷物はそのまま残され、財布も靴も、携帯電話すら置き去りにされたままだった。失踪届は出されたが、目撃情報はゼロ。警察も深追いはしなかった。


真白はしばらくその部屋に一人で暮らしていた。


歯は変わらず毎週届き、彼女はそれを笑顔で迎え続けた。食器は一人分に減り、食事の回数もまばらになったが、それを不自然だと感じる者は誰もいない。


そもそも、彼女に会う人すら、もういなかった。


冬が来る直前、曇天の日。駅のホームに立つ真白の姿が、監視カメラに映っていた。ホームにやってきた電車からふらっと現れた彼女は大人しく電車を待っているようだった。


電車が来るアナウンスが流れる。風が吹いた。線路の先に、何かを見たのかもしれない。あるいは見えない「誰か」に手を引かれたのかもしれない。


真白の身体は、ためらいなく前へと傾いた。


ブレーキの金属音と人々の悲鳴が重なった。

彼女の遺体は、身元確認が難しいほどに損傷していたという。


搬送先の病院で、解剖を担当した医師がぽつりと漏らした。「身体中、噛み跡だらけだった」と。


その言葉が、記録に残されることはなかった。


アパートはその後、しばらく空き部屋のままだったが、やがて新たな住人が引っ越してきた。


だかある朝、彼らはポストに一通の白い封筒を見つけたという。


 差出人不明、中身は──。



新しい日常は、何事もなかったかのように始まっていく。


けれど確かに、何かが受け継がれている。

見えないつがいの形をした、歯車のように。


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【短編ホラー】つがい 鬼大嘴 @ONIOHASHI

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