4/20 悪魔の子

明石六

第1話 悪魔の子

 「お弁当がないなら、一緒に横のカフェに行きませんか?」

 20代前半だろう、スーツ姿の女性が声を上げた。

 その場にいた6人とも、なんとなしにその意見に賛成して、連れ立って歩き出す。

 初めて受ける大学の講義で、たまたま近くに座っていたために、たまたま一緒にグループワークをすることになった6人だ。

 午前中に講義を聞いて、午後には意見をまとめて発表しなくてはならない。女性は大学四回生とのことで、昼休み中に自己紹介も兼ねて相談を進めようという、いかにも就活生らしいイニティアシブだった。

 今回の講師はテレビにも出ている著名な心理師の久山登喜枝先生だ。あまりの人気で受講希望者が殺到したため、私達はほとんど廊下で講義を聞くことになった。

「こんなに人数が多い授業は初めてですよ」

 分厚いメガネの私服男性が言った。院生だという彼は、猫背の上にボザボサの髪の毛を生やしている。

 私は歩きながら、さっきまでの講義を思い出す。内容は実に面白かった。社会的養護の歴史がテーマで、分かりやすく機智に富んでいたが、あまりに猛スピードな解説だったのでメモを取るのに必死だった。一定の用語などの前知識がない人は、講義内容を充分に理解するのは難しかったのではないだろうか。

 なにしろ先生が有名人なので、必須の単位として選択した学部生や、就活のネタに受講する四回生、興味があって受講した他学部生、職場から研修がてらに聴講を命じられた私のような人間までいる。

 私もこの大学の卒業生ではあるが、大講堂のパーテーションが外れるのを初めて知ったし、天板がついた簡易椅子で講義を受けたのも初めてだった。廊下でもマイクの音は聞こえたが、ハウリングがきつかったうえ、映写機の影になって画像が見えづらくて残念だった。

 学部生はほとんど大講堂の前の方に座っていたので、私のような聴講生は優先されていないのだろう。

 単位が関係ない四回生が二人、院生が一人、部外者の聴講生が三人。ぞんざいに扱われた者同士で、不思議な結束力が働くようだ。私達は大人ならではの当たり障りのないコミュニケーション能力で、和やかに行き先を決めて店に入る。

 我々が入ったのはアフタヌーンティーを売りにした英国風のカフェだった。学生向けにしては値段が高いので、恥ずかしながら入店するのは初めてだ。店員に二階席を勧められて、飴色に磨かれた木製の階段を登る。こんな豪奢な内装になっていたのか。登り切ってすぐ左奥、これまた木でできた6人がけのテーブルが空いていたので、私達はそこへ座った。

 お互いに自己紹介をする。私が仕事上の研修として聴講していると言うと、左隣に座った男性が「僕もだよ」と食いついた。田中と名乗ったその人は、40代から50代くらいの細身の男性だった。柔和そうな目尻の皺が特徴的だ。肌や白目が黄味がかっているので、普段はタバコを吸うのかも知れない。その襟元の小さなピンバッジから、同業者なのだと分かった。この講義を研修代わりにするということは、私と同じ国家資格を持っているということも。

 就活中の女性は、私達の会社名に興味があるようだった。まあ、ここで志望業種の人間と仲良くなれば良いコネクションになるのだから当然だろう。私がはぐらかす前に、斜向かいに座っていた別の女性が大企業の名刺を出したので、話題の核はあっという間にそちらへ移った。

 5分もすると、適当に注文したランチセットが届いたので、一番下座に座った私が皆の皿をせっせと回した。

 色とりどりの皿に盛られた美味しそうな一品料理。海苔のかかった明太子パスタや、鶏の照り焼きピザに、長芋のフリット……。

 英国風のカフェのくせに、メニューは和風なんだな、と思った。内装をいくらアンティークやシャンデリアで飾り立てても、結局こういう商品が収益になるのだろう。

 最後に、私の分のホットコーヒーが届いた。翡翠色のカップを持ち上げて、湯気と共に香りを吸い込む。

「あれ、お子さんがいるんですか」

 話題から取り残されたらしい田中さんが、小声で私に話しかけた。

 薄手のコートの下につけている、私の抱っこ紐に気づいたらしい。今は誰も入っていないので、ペチャンコになっている。

 エルゴベビーのロゴで抱っこ紐だと気づいたのだとしたら、田中さんにも子供がいるのかも知れない。テーブルに肘をついてカップを持つ左手には、たしかに銀色の結婚指輪が見えた。

「今日はお子さん、誰かに預けているんですか?」

 重ねて尋ねる声に、私はなんと答えたら良いのか逡巡した。

 我が子はまだ生後6ヶ月だけど、私は復職していて、資格のために大学の講義も受けている。旦那もいないし保育園の受け入れもないけれど、我が子は好きな時に世界中に遊びに行って、お腹が空いたら腕の中に帰ってくるのだ。

「えっと、うちの子、悪魔の子なんです」

 私は苦笑いを作った。やはり、田中さんは怪訝そうにこちらを見つめるだけだ。曲げられたスーツの皺が、わずかな光沢で涙のように光っている。

「噂をすれば、戻ってきましたよ」

 どこかへ遊びに行っていた我が子が帰ってきた。抱っこ紐がズシンと重くなる。

 折りたたまれた長い手脚。タップリと張り詰めた丸い臀部。不揃いに蠢く身体。およそ人とは思えない、醜怪な頭部。楽しそうに笑い声を上げているね。お母さんには分かるよ。

 隣人が瞠目する気配がした。

 仕方ないことだとしても、他人の子供を見てびっくりするなんて、ちょっと失礼なんじゃないですか。だってどんな子供だってこの国の宝物じゃないですか。

 そんな言葉を飲み込んで、私は腕の中の化け物を、こわれもののように優しく抱きしめた。

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