院長室の夜

@sskkn

第1話

朝9時の病室はカーテンを開けても曇天で、朝から気が滅入る。「窒素、リン酸、カリ」枝のように痩せ細った老婆が緑の病衣で横たわり、しゃがれ声で呟いている。折れそうな手首には抑制帯が巻かれ、手にはうす汚れたミトンがはめられている。「窒素、リン酸、カリ」長い付き合いの彼女の体調は声色で判断できる。「調子悪そうね」案の定、抗菌薬の点滴がぶら下がっていた。酸素の数字もいいし、熱はないみたいだけど。日がな一日つぶやき続ける彼女の声は、みんなの耳を素通りして、くすんだ慢性期病棟に溶けている。「窒素、リン酸、カリ」ここにいるのは、終わらなかった人たち。なんだかよく分からなくなりながら、緩やかに訪れる終わりを待っている。今日は彼女の髪を洗う。真っ白な彼女の髪は、神様に喜ばれるだろう。


13時半、節約のために握ったおむすびをさっと食べていると、ふいに院内PHSが鳴って「今日、19時」と低い声がした。無機質であろうとする、音。院長の当直は今日だったか。周囲を確認して、返事もせずに切る。「窒素、リン酸、カリ」聞こえるはずのない声が耳の近くで不穏に聞こえた。振り払うように、ひとつに束ねた黒い髪を軽く揺らし、もう一度お団子に丸め直す。


院長室は4階にある眺めの良い部屋だ。いかにもな黒い革の応接ソファが手前に1組、奥にはどっしりとしたデスク、難しい本と書類ばかり入った本棚があるだけである。几帳面に片付いている部屋は実際の室温よりも体感温度が少し低い。

こうして当直の日に呼び出されるのは2ヶ月ぶりだろうか。最近は当直日をだいぶ減らしているようだ、院長も70歳を越えたからだろう。ロマンスグレーの髪をオールバックにする昔ながらの髪型が馴染む貫禄で、デスクで書類を読んでいる。「おう、来たんか」呼び出しておいて、いつもそう言う。老眼鏡越しに一瞬だけ視線が合い「脱いどけ」と命令された。いつも静かな院長室がなお静かになり、小さく身じろぎする。院長のめくるページがざりりと無遠慮な音を立てた。


朝から着ていたナース服に若いころのような色気などない。そもそも今どきのナース服は機能性重視なのだ。黒いカーディガン、白地半袖のスクラブ、白い長ズボン。部屋の入り口に立ったまま、カーディガンから腕を外す。色は白い方だけれど、二の腕のたるみは隠せない。次に半袖からそっと剥いでいく。前面のファスナーをそっと下ろすと素肌が露わになり、赤いレースのブラジャーがのぞく。ささやかだが谷間もある。院長をちらりとみると、老眼鏡を傾けながら、悠々と書類を読んでいた。折角なのだから見てほしい気持ちと、かといって見せつけるには恥ずかしい気持ちが戦った結果、極力淡々と脱ぐ。脱ぎ終わった服を畳んで応接セットの机の隅に置くと、「ふん」と嘲笑うような視線がある。かなり恥ずかしそうに脱いだのだろうとわかり、そのこと自体が恥ずかしい。そのままの勢いでズボンに手をかける。ズボンでもストッキングを履いておくのは院長のお好みだからだ。赤いTバックが透ける。

「どうする」院長が老眼鏡を外して言うが、下着姿の無防備な女になんの決定権があろう。「よろしくお願いします」分かりきった答えも頭を下げながら口にすると、あまりに惨めで、安易に下半身が疼く。

院長はようやっと書類を置いて、こちらに来る。革のソファに座ると、咥えるよう指示された。珍しい、最近はそんなことしなかったのに。ベルトを外すのに苦戦する。大きいけれど柔らかく眠っているそれを、手で撫でてみる。久々のそれに少し興奮したのがバレたのだろう、突然尻たぶを叩かれ、声が出る。咥えているうちに両乳首に鈴付きクリップがつけられ、なお惨めになっていく。柔らかいそれは、口いっぱいに含んでも一向に柔らかいままで、予想がついていたことではあるが少しショックだ。尻を叩かれるたび、腹を蹴られるたび、髪を引っ張られるたびに、こちらは甘く柔らかくなっていくのに。


院長は4-5年前に抗がん剤治療をしてから勃起が安定せず、フェラチオや挿入をしないことが増えた。それまでも好奇心旺盛なセックスが多かったが、その頃からは特に痛みや苦痛を伴うものに偏っていった。痛みや苦痛が快楽と別々のものだった頃をもう、思い出せない。新しいもの好きの院長は何もかも試した。鞭、縄、浣腸、蝋燭、苦手なものもあったけれど、概ねどれも快楽のしっぽを掴むことができて、楽しかった。出会った頃のように、ふたりで旅行しているみたいだった。


「おい、声、下に響くぞ」と低い声がして、思い出から帰ってきてみれば、ものを咥えて跪いたまま、ストッキングは引きちぎられ、尻たぶは真っ赤になり、膣にバイブ、アナルプラグまで入って、ぐずぐずのイき果てた身体が完成していた。バイブの振動に合わせて小さな快感の波がまた押し寄せ、だんだんと大きくなる。「口から離せ」いやだ、いやだと首を横に振る。柔らかいままのそれを咥えたまま果てたいのだ。「バイアグラ、飲んどけばよかったな」違う、そうじゃないと言いたいけれども、あまりにも院長が困ったような情けないような淋しいような顔で笑うから、こちらは抵抗できずに果ててしまう。


応接ソファに横たわり休憩していると、向かいのソファに座る院長が天井を見ながら言った。「家内に、見つかってな」ああ、おしまいの時が来たらしい。「そうですか」心がけて静かに言う。思ったより動揺せずに済んでいる。ゆっくりと服を着て院長室のドアを開ける。「なあ」と呼ぶ声をさえぎるようにして言う。「院長といて、ずっと楽しかったです」重たいドアが時間をかけてばたんと閉じた。


翌朝、重たい瞼をこじ開けて日勤で出勤すると、ベッドがひとつ空いていた。「窒素、リン酸、カリ」の彼女は明け方あっさり死んでしまったらしい。彼女が元気だった頃に聞いた話を思い出す。作物が育つのにいちばん大事なのは窒素、リン酸、カリと学校の先生が教えてくれたのよ。先生は戦争でね、すぐ亡くなったけど。そう言う彼女は、きっと好きな人の言葉を死ぬまで反芻して生きたのだ。


わたしにはできないな、とため息をつく。院長の奥様は、もう20年も前からわたしたちの関係を知っている。最近入職した若い看護師が院長室に出入りしていることも分かっている。バイアグラが院長室の引き出しに入っていて、着実に減っていることも。「窒素、リン酸、カリ」と試しに呟いてみてから霊安室に向かった。少しだけ寂しくなる。

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