ホルムアルデヒドの街道

碓氷もち

第1話

愛していると、そう言ってくれると信じていた。体が汚れても丁寧に洗ってくれた。まともに食事がとれなくなれば、その手で料理をふるまってくれた。いつも与えられてばかりで申し訳なくて誤った時、私の背をやさしくなでてくれた。私はあなたなしじゃ生きられないとわかっていたのに。

あなたが死んでから千年過ぎた。世界は何度も同じことの繰り返し。あなたがいないせいで余計につまらなく感じる。毎日買うパンも、育てたキャベツも、あなたがいないせいでひどく陳腐だ。千年過ぎて食事をやめた。そこで私は気が付いた。私は食事をしなくても体が不調にならない。血は巡るし、思考も明瞭。そこではじめて私は村で一番大きい収蔵庫へ向かった。

収蔵庫にはこの世界の成り立ちから、子供への本が集められている。金貨一枚を出せばそれらが全て読めた。私は人体についての本を手に取り、その場で読む。手に取っては読んで、棚に戻しては別の本を手に取った。そこで私は人間ではないことを知った。

森の奥深く、誰も来ないところに私の家を移した。あなたと過ごしたあの家を離れるのは苦しかった。私の目にはいつまでも、この家で過ごしたあなたがそこにいるのに、私はそのすべてを手放した。

家を作り始めた。移り住むといっても家なんてないので、前の家から持ってきた斧で木を切る。丸太を作るのにかなり時間がたった。最初のころにできた丸太の出来があまりにも悪くて、また何本か作り直したせいで時間がかかったのだと思う。でも周りの木がそこまで減っていないから、きっと大丈夫だろう。

家ができてからは窓の外を眺める日々が続いた。外に見える景色は飽きることはなく、私の時間をつぶすにはもってこいだった。窓の外は私の知らないものをたくさん持っていた。あなたと同じ瞳の色を持つ鳥、あなたの髪色を携えた獣、あなたと同じさえずりが山から聞こえた。私は一番の思い出の場所を離れたが、私自身があなたの思い出であると実感する。あなたにはもう触れられないけれど、ようやく私はそれを受け入れられたかもしれない。

最近、あなたの色が世界から消え始めた。夜みたいな色の生き物。木々も空もずっと夜みたい。でも星は見えないし、風の音も聞こえない。家の中は何も変わらないのに、外だけ死んでしまったみたいだった。私は外を見るのをやめた。

何もすることがなく、私は自分の体を初めてちゃんと見た。体のところどころに黒い点があるのを見つける。そういえばあなたの手の甲にも、同じ黒い点があった。私はそこに口づけをするのが好きだった。私がそうするとあなたは私の目元に口づけをくれた。その時間が私は一等好きだった。

水鏡もないので、自分の体は見飽きてしまった。また暇になってしまう。私は久しぶりに外へ出た。真っ暗になってしまった森でも、ずっと明かりのない中で過ごしていたせいか、木にぶつかることはない。でも外の世界はあまり楽しいものではなかった。ふと遠くを見る。青空があった。もうずいぶん見ていなかった。君の瞳と同じ済んだ青色。ただ境界線があるようで、楕円形の青空が見える。私の家の中からでも見えるだろうかと家に戻るが、私の家の中からは見えない。それから私はたびたび外に出てはあの蒼穹を眺めた。私の体が人間であれば、私はこの森を抜けて、あの蒼穹のもとへ行きたい。むしろ人間でなくても、あの青に焦がれた。家に戻るたびにいつでもあの青が見られたころを思い出す。私は一人黒の中へ身を置いた。

あの青をたまに見るようになってから、どうしてあそこだけ青いのか考えるようになった。昔は世界に色があり、本来黒は夜と焼きすぎたものだけだ。家の中から外を眺めているときは、特におかしな異変もなかった。そういえば彼女と過ごしていた村はまだあるのだろうか。このような景色になってから、生き物が減った。今となっては近くにはいない。木々は変わらすそこにあるけれど、色以外すべて同じではないように感じた。

私は一度あの村に帰ろうと歩き出した。ただ少し歩いて、ここがどこだかわからなくなった。もともと村の位置は星を目印にしていた。でも黒の世界になってから星も見えなくなり、ついに私は今の家の場所もわからなくなっていた。さあこまったと上を見る。あの蒼穹がはるか遠くに見えた。蒼穹を頼りに家に戻ろうとするが、一向にたどり着かない。私はため息を一つついて、あの青のもとへ歩き出した。

蒼穹が夜になる以外の時間を、すべて費やして私は歩き続けた。最初のころに比べて蒼穹が大きくなってきている。そうして向かっている途中に気が付いたが、黒の中に生き物はいない。天から降る白いふわふわも黒色になっていた。ただ高い山に登ると寒いということは、変わらないようで、変わらないものもあるのだとうれしかった。

ついに蒼穹の境界線が見えるところまで、たどり着いた。中では昔見た色たちがそこにそのままいて、私は目から涙がこぼれた。畑と思わしき場所にキャベツらしきものがある。あなたの笑顔が、あなたとの思い出が思い起こされて、私はやはりあなたに会いたいんだと強く思った。

ついに私は着たのだが、中には入れなさそうだった。いや厳密には蒼穹の範囲には入れた。でもこの村はとても高い壁に囲まれていて、入れる門を探すところから始まった。外には何もいないというのに、どうしてこんない高い壁がたっているのだろう。私は疑問を抱きつつも入れる場所を探した。

門を探すのに、三回夜が来てしまった。あんなに小さく見えていた蒼穹は思っていたよりもはるかに大きく、私はずいぶんと歩いたのだと実感した。それでもたどり着いた門は、壁に対してそこまで大きく高くはなく、必要最低限の門の様だった。中にいるものに伝わるよう門をたたこうとすると、先に門が開いた。なんと間がいいのだと、扉があききるまで扉に沿うようによける。すると中から人が出てきた。

「魔王討伐勇者隊! 武運を祈る!」

中から出てきたのは武器を携えた少年と、何かを持った複数の人間たちだった。魔王とは何だろう。勇者とは何だろうか。そう思い彼らに声をかけた。

「もし。少しお尋ねしてもよろしいかな?」

彼らは私の姿を見るや否や、肩から下げていた武器を手に取り門を閉めるようにと大きな声を出した。なんだか私を殺そうとはしていないだろうか。確かに私はたぶん人間ではないんだろうけれど、でも見た目は完全に人間だし、言葉も同じ言語だったから通じていたと思うのだが。

「魔王め! ここで成敗してやる!」

「は?」

この人たちは何を言っているのだろうか。魔王ってなんだ。成敗してやるって初対面に言うことか? 久しぶりに顔の筋肉を動かす。

「魔王ってなんですか。」

「お前以外にだれがいる! 世界から千年以上色や生命を奪った張本人が!」

私は、そんなこと一度もしたことがないが? なぜか、彼女の瞳と同じ色をした青を私が奪ったことになっている。大体私はこの人間たちとは一度もあったことがないのに、どうして私に罪がかぶされているのだろうか。

「人違いじゃないでしょうか。私はただ自分の家の位置が分からなくなったので、ここに来ただけですし。」

「この中を歩いてきたのか。」

杖を持った男が黒を指さすので、私は素直にうなずいた。だが私の思いとは裏腹に、彼らは緊迫感を増すだけだった。

「女神の加護なしにこの中は過ごせない。過ごせるのは魔王と植物だけだ。」

私が、死ねない体なばっかりに、あらぬ疑いができているようだった。でもここで私、死なないんですといったところで、はいそうですかとはならないだろう。私は説明するのを放棄した。

 彼らを無視して門のない方向へ歩き出す。どこか適当なところで寝転がって、あの青を眺めよう。後ろから彼らの声がするが、私には関係ないことだ。ぜひいるかもわからない魔王討伐とやらを頑張ってほしい。

 甘い考えなのは私のほうだった。擦り切れたマントに穴が開いた。背中に矢を放たれたのだとぼんやりとした頭で思った。ただ私の体からは痛みは出ないし、血もあるのに染み出すことはない。何もないように循環している。矢を取ろうと背中に手をまわしたが、届きそうで届かなかったので、あきらめた。そうしている間にまた矢が背中に刺さる。寝っ転がりたいのにこのままでは本当に邪魔だ。振り返って彼らを見る。弓矢をもって構える女性の手が震えていた。武器を構えている少年は私が弱るタイミングを計っているようだった。ただ私にとって目下の問題は背中に刺さる矢なので、背中を壁に向ける。思い切り矢を壁に押し付けた。私の胸から科の先端が飛び出す。すると悲鳴が聞こえた。私はそれを無視して、胸から飛び出た先端を引っ張り出し、すべての矢を地面に落とした。

「貴様その体で魔王ではないというのか!」

私は、私について彼らに説明するすべを持たない。人でない説明はできても、魔王とやらではないと、どう伝えることができるのだろうか。彼らの言葉に耳を貸さずに私はもう一度歩き始める。すると私の手に何かがまとわりついた。あまり気持ちの良い感触ではないそれを、振り払おうとしたが触れているようで触れられていない。男の杖が青白く光っているので、怪しげな呪いだと眉間にしわを寄せる。だが私はそれをどうにもできないので、おとなしく地面に座り込んだ。

「どうして世界を闇にする。世界はお前のものではないのに。」

剣を持つ勇者という男が私に問いかけた。私はため息をつきながらも、再び口を開いた。

「私は世界を黒くなんかしていない。魔王でもない。だからこれをどうすることもできない。」

「ではなぜ矢を受けてもあんなことが?」

「死なない体というだけ。」

「今までどこで暮らしていた。」

「ここから山をいくつか越えた深い森の奥。」

「どうしてここに来た。」

私はその質問に声が詰まった。あなたを思い出したから。ただそれが彼らにはよくなかったようだった。ただ私の目から自然に涙が出て、彼らの緊張が不安を帯びだした。

「空を、見に来たんです。青い空を。」

私がそう答えたとき、門が開き中から人が出てきた。白い布を頭から覆われた人。布に出る線のおかげで人だとわかるだけで、男か女かもわからない。でもその人は視界を布で遮られているのに、こちらにまっすぐ歩いてきた。

「勇者よ。この方は魔王ではありません。」

「賢者様! 近づいてはなりません!」

勇者が布の人の行く手を手で遮るが、お構いなしにこちらへ近づいた。声は男性のようだが中世的で、女性でもおかしくはない。

「名もなき者よ。私はこの国で賢者をしているレイア。よろしければ私と一緒に暮らしませんか。」

布が私の前に垂れている。私は布と彼らを交互に見た。布に私が近づいてほしくないように見える。私の彼らの目線を流し、布の提案に承諾した。布が私の背後に回り、私の腰に布を添える。私はそのまま布にエスコートされ、村に入った。

 煉瓦造りの街並みに、石畳が整備され、私が昔いた村とは雲泥の差で困惑する。煉瓦なんて高級品はパン屋の焼き窯に使われているもの。その焼き窯も、何年も借金してしまうものなのに、お金がある村だからあんなに高い壁が作れるのだと感心する。人々のにぎわう声も懐かしく、周りを見渡すために首を痛めそうだ。

 私たちの後ろを勇者一行は、こっそりついてきているようだった。かなり布、彼らにとっては賢者を大切に思っている。その割に賢者の言った私は魔王ではないという発言は信じていないらしい。

「名もなき者。あそこに赤い屋根が見えますか。」

私をエスコートする布が何かに布を向ける。向けられた方角に確かに、赤色の屋根が見えたので私はうなずいた。

「あそこが私の家になります。今日からはあなたの家でもありますが。」

周りの家には色はついていないのに、布の家だけには赤色が付いていた。町の人が着るものは色鮮やかなのに対し、布は真っ白なせいでちぐはぐのように感じる。

「どうしてあの家だけ差別化している?」

私のその発言が聞こえたのか、勇者一行が姿を隠さずこちらへやってきた。

「貴様。賢者様の邸宅に対して何たる発言を!」

私の発言が何もかも気に入らないらしい。どう見ても色を付けてほかの家と分けているのに、どうしてそんな目で見るのだ。

「よくわからないが、一番偉いわけでもないのに他と分けるには普通。理由があるだろう。」

「だめですよ。そんなことを言ってしまっては。」

私の発言に勇者一行は荒げていた行動を沈め、布の様子をうかがっていた。布は風に揺られながらも私を諭した。布は勇者一行に旅に向かうように伝え、私をエスコートして家に招いた。

 布の家は私が昔住んでいた家の中と似ていた。窓際にベッドと小さなテーブルがあり、反対側にはキッチン。そこには小さな窓が見える。天井はそこまで高くなく、少し離れた場所に階段が見えた。

「お疲れでしょう。こちらに腰掛けてください。」

私が部屋の中を見ている間に、布が椅子とテーブルを用意していた。私は布に言われた通り椅子に腰かける。

「あいにくあまりもてなす機会がなくて。」

布は私の前に茶色の液体が入った湯呑を置いた。布も自分の前に、同じ茶色の液体が入ったコップを置く。布は椅子に座った。

「名もなき者よ。これから一緒に暮らすにあたって確認したいことがあります。」

「なんだ。」

「名前はありますか。」

「あった。でもぼんやりとして思い出せない。」

私はあなたにどう呼ばれていたんだっけ。振り向きながらこちらを見る。あなたの口が動いているのに、声だけが出てこない。あなたとの思い出が確実に、私の中から消えている。目の前に座る布から手が見えた。

「確か。レイアさんだっけ。呼びやすいように読んでもらっていいですよ。」

「あら。私に命名権をいただけるとは光栄です。」

布から手が出て足が出て、布がパサリと床に落ちた。瞬間、驚くほど美しい青年、いや女性、美しき人がそこにいた。小麦色の髪に森より深い瞳、整えられた顔はいずれ世を乱れさせるほどだった。

「どうして布をかぶっているんだ。」

「趣味。」

レイアは両手で湯呑を持ちながら、中のものに息を吹きかけている。布をかぶっているときは死に人の様なのに、布がなくなれば生意気な青年だ。

「どうして私と暮らそうなどと。」

私とレイアは初対面で、レイアが私にそう持ち掛けることはおかしなことだった。目の前で何かを飲んでいるレイアを、私はじっと見つめる。

「ずっとね。話し相手が欲しかったんだ。」

「レイアなら。望めば誰でも話し相手になってくれるんじゃないか?」

ここに暮らすレイアの様子を見れば、周り中に慕われて、話しかければ誰でも仲良くしてくれそうだ。

「賢者なんて呼ばれる。君はもうわかっているだろうけど。柄じゃないんですよ。でも賢者として生きていくしかない。私のこの思いをずっと何とかしたかった。」

レイアはそういいながらずっとうつむいていた。私は何も背負うものがないから、彼のその感情が、わからない。別に誰かにさらけ出したっていいだろうし、さらけ出された人間は大いに喜ぶだろう。人間とはそういう生き物だ。

「君は幸い、賢者としての私を知らない。だから私も君に気兼ねなく話せる。」

「私が誰かにこのことを話したら?」

「話さないでしょ。友達いないじゃん。」

「話せる相手もいないレイアに言われたくない。」

そういうとレイアは、肩を震わせたかと思えば大きく口を開けて笑った。ずいぶんと豊かな感情を目の当たりにして、なんだか胸が暖かくなった。

 それから私はレイアと暮らすようになった。といっても私はレイアと会話をするだけで、賢者としてどこかへ行くレイアと違い、ただ空を眺めてばかりだった。

 今日も一人、窓辺に腰掛けて空を眺めた。少しの雲があるけれど、気高く青い。もう私はあなたの瞳の色を、完全に覚えていない。それでもあなたの瞳は、この空よりもずっときれいだった。

 今日は珍しくレイアが帰ってくるのが遅い。いつもであれば空が茶色くなると帰ってくる。でも今日は空が星にまみれても帰ってこない。今日は早く帰るとも言っていたのに、そんな日もあるよなと私は一人、星を眺めた。

「心配もされないとか。レイアもかわいそうだな。」

聞いたことのない声がした。少し下を見ると三毛猫がいる。この村にいる何種類かいる動物の、一番よくわからない毛玉。人の言葉をしゃべるのは、レイアからは聞かなかったけど、いるのかもしれない。

「おい。無視すんな。まっくろくろすけ。」

三毛猫は器用に壁をつたい、私のいる窓辺までやってきた。

「お前本当に肌以外闇みたいだな。」

そう。レイアの家にある鏡を見て、私の髪もひとみも唇、爪も外と同じ色になっていた。いつからこうなっていたかはわからない。でもレイアにさえ言われなかったそれを、他から言われると胸が痛くなった。

「お前。服くらい黒以外を着ろよ。お前はレイアと並んでもそん色ない顔なんだから。」

三毛猫は勝手に部屋に入り、勝手知ったるように、クローゼットの扉をカリカリ掻いた。私はその扉を開ける。中には私のためにと、レイアが用意した服が並んでいた。

「どれも似合いそうなのに、お前なんで毎日黒ばっかり着てんだよ。そんなんだからまっくろくろすけって呼ばれんだぞ。」

何枚か並んだ服の中で、一等上等に見える白のフリルが付いたドレープシャツが選ばれた。

「下は今のでいい。上だけこれを着ろ。」

小さな口と大きな瞳。自分の足元にある毛玉に蹴おされて、私はしぶしぶそれを身にまとった。

「髪もさ。縛ろうぜ。」

無造作に伸びていた髪で、三毛猫はじゃれたかと思えば、どこからか髪ゴムを加えてきた。私はあなたがしていた姿を思い出して、まごつきながら一つ縛りにした。ランタンに小さな光で正確に縛るのは、家に戻るくらい難しかった。

「うん。まぁ及第点。ついて来いよ。」

なんとか三毛猫に御の字をいただいた私は、また三毛猫が掻く扉を開く。夜の町に歩き出した。

 三毛猫の後を歩きながら、星のもとを歩くのは意外に楽しいと浮足立つ。少し生ぬるい風が頬をなでるのも、心地よかった。

「ねぇ。この大きな建物って。すごく偉い? 人しか入れないんじゃないの。」

三毛猫に連れられてやってきたのは、国の一部の人しか入れない、植物のツタが張り巡らされた大きな建物。レイアがいつもここに行くことは知っていた。でもそのレイアでさえ、ここには来ないほうがいいと、怖い顔で言っていたのを思い出す。大きな扉の目の前には誰もたっていない。また三毛猫は扉の前をカリカリし始めた。

「私はここには入れないよ。悪いけど。」

三毛猫の体を持ち上げて、毛のふわふわとみの柔らかさに驚いた。ただ三毛猫はすぐに私の手からするりと抜けていく。

「お前はレイアの何なの。」

「なんなのって言われても。」

私はしゃがんで、三毛猫と近い目線で話す。

「ただ一緒に暮らしている話し相手だよ。それ以上でもそれ以外でもない。」

三毛猫の目を見てはっきりそう言うと、何言ってんだこいつといった顔をされた。ひどく正しい現実だというのに、三毛猫は何を想像していたのだろうか。三毛猫は前足で顔をかく。しばらくそうした後、また扉をかき始めた。

「ねぇ。この建物に入りたいなら私以外を頼ってよ。」

三毛猫の背中にそういうと、動きを止めた。そうしてこちらに振り向き、とことこ歩いてこちらに来た。

「わかった。でもこの扉を開けてほしい。おれ。この建物の飼い猫だから。」

そういいながら体を私にこすりつける。ふわふわの体に懇願されると、むげにはできなかった。

「扉。開けるだけだからね?」

そういうと、こくりと一つうなづいた。私は立ち上がって扉を開けようとする。

「押し戸だよ。」

いわれるがままに扉を押せば開いた。足の隙間から中に入っていく。すると驚いた。目の前に青年が現れた。その男に驚いて、そしてどこか三毛猫の面影を感じ、足元を見るが三毛猫はどこにもいない。

「あれ。猫は?」

「こっち。」

青年に腕をつかまれ、中に引き入れられる。私は首を振りながら、帰りますと伝えたが強い力で中へ奥へと連れられた。

 彼に連れられて進む廊下は、赤いふかふかの布が敷かれていて、壁にはいっぱい服を着た人の絵がいっぱい飾られていた。そのすべての目がこちらを向いているようで怖い。でも想像よりも私は非力で、彼の動きを止められない。

「あのね。たぶんだけど。お前じゃなきゃダメなんだ。」

彼は私の腕を引いたまま話し始めた。

「この国では女神の加護がある人間と、そうでない人間がいることは知っているか?」

「はい。レイアから。」

この村、国? には女神という偶像崇拝。宗教? というものがあり、加護がある人間は外の闇の中を出歩いても死なず、女神の加護があれば国に戻ってくることができる。逆に女神の加護を持たないものは闇の中に出れば死んでしまう。この国のほとんどは加護を持たず、外には出られない。

「では女神と魔王の話は?」

「それも。レイアから。」

昔、女神に恋をした魔王だったが、女神に振られた腹いせで彼女の愛した世界を真っ黒に染めてしまった。女神は自身の力を人間に分け与え、一部分人間の生息地を残して姿を消した。

「十八年前。他国で女神を降ろした赤ん坊が生まれた。その少女はすくすくと育ち、女神の力を使って世界から色を少しずつ取り戻している。」

「それは初耳。」

ようやく青年の足が止まる。大きな扉の前だった。中から大勢の人の話し声が聞こえた。

「今日。その生まれ変わりが賢者に求婚しに来た。」

「求婚。」

「そうだ。あの布被りに結婚しようといってきてる。」

初めに思ったことは、なんとまぁ物好きな人だということ。布を取った彼はとても美しい人だが、それだけだ。しかも他国であればなおさら結婚の話を持ち出す理由が、何にも思い浮かばない。

「でも。その結婚するかしないかは、レイアが決めることじゃないんですかね?」

「レイアは確かに首を横に振るのは得意だけど、それでもしがらみに、どうにもできないときもある。」

「つまり?」

「乗り気じゃないくせに。逃げられずにいる。」

扉の前で青年は私の姿を整え始めた。髪の毛を縛り直し、襟を伸ばし、すべての裾を確認した。

「お前は、この国で最もレイアに愛されたものだ。愛し合うものを割くのは女神の規律に反する。」

青年は扉の前で二回手をたたいた。扉が開かれる。中はキラキラまぶしくて、よく見ると着飾った人々の奥に、一等着飾った人と、布をかぶったレイアがそこにいた。

 人々のざわめきが大きくなる。急に知らない人間がやってきたらそれは驚くだろう。私は一つため息をつこうとした。

「王子! 今までどこにいたのですか?」

一等着飾っている人の近くにいた髭の人が、こちらにやってきて青年に苦言を呈していた。そういえばレイアが言っていたのを思い出す。

「この国で一番偉い人は王族でね。上から王様。女王様。王子様。」

もしかして隣にいるこの青年は、この国で三番目に偉いのではないか?

「女神の化身。ミレイル様にご挨拶を!」

奥にいる誰かに話すよう諭されている。奥を見てみると、つややかな黒髪の美少女がそこにいた。白いワンピースを身にまとい、それに近いほど白い肌。真っ青な瞳にベリーのような唇。一瞬あなたの瞳かと思ったが、あなたの瞳のほうが澄んだ目を見ていた。遠くにいるあなたに申し訳なくて、心の中で謝る。ごめんね。

 一方隣にいる青年は髭の人の言うことを全く聞かず、そこから動かずいた。奥を見ていた私は彼を見ると、なんとまあつまらなそうな顔をしている。髭の人はまだ何か言っているが、彼の耳にも、私の耳にも入っていないようだ。

 彼は私の手を取り、髭の人を無視して歩き出す。人は割れて、いよいよ一番偉そうに座っている人の前に来た。正直私に偉い偉くないは、布の量でしかわからないので憶測にすぎないけれど。

「ミレイル殿。あなたは女神の生まれ変わりと聞く。」

青年は口を開き、挨拶もせずに美少女にそう聞いた。美少女は少し戸惑った様子を見せるも、すぐに手を胸に当てて口を開いた。

「女神の生まれ変わりかはわかりませんが。周囲の人間からはそういわれております。」

鈴がなっているのかと思うほどかわいらしい声だった。今一度浮気ではないとあなたに謝る。でも私の心の中と違い、目の前はあの山ほど冷たく見えた。

「さようですか。このように大きな催しを開いても自覚がないとは。」

抑揚のない彼の声がこの部屋に響く。会場が一気に静まり返った。椅子に座っている一番偉そうな人が、彼のことを一瞥したかと思えば、ため息をついた。

「お前は部屋に戻りなさい。」

「いえ。戻りません。賢者殿はこの国に欠かせない。そんな彼をかの国に渡すと? そんな話がなくなるまで戻りません。」

よくわからないケンカがはじめって、居心地が悪い。私はレイアのもとへ歩いて、座る彼の近くでしゃがみこんだ。布が落ちない程度に裾をつかむ。それが今はひどく心を落ち着かせた。レイアが何かをこちらに何かを伝えようしていたので、顔を近づけた。

「何で来たの?」

私にしか使わない声色で、そう聞かれたので私は困った。猫が着た所から今までをつたえると、うそじゃないかと疑いの視線を感じる。でもレイアは私がうそをつかないことを知っているから、受け取ってくれた。でもなんだか今がずっと辛そうで、私は小さな声で様子を聞く。レイアは大丈夫だよとしか言わなかった。

「ミレイルさんはなんでレイアと結婚したいんだろうね?」

場の空気はまだあちらの空気が強くて、レイアにそう聞いてみる。レイアは知らないとぶっきらぼうに答えた。私はどうしてそんなにぶっきらぼうに答えるのに、断らないのか不思議に思った。

「そもそも。ミレイル殿はどうして賢者殿と?」

似たようなことを、彼。たぶん王子がミレイルさんに問うていた。それは私も気になるところだったので耳を傾ける。でもミレイルさんは顔を赤らめるだけで答えない。少女のようでかわいらしくもあったが、不信感が生まれた。よくわからないけれど、この場で言わなければ結婚を反対している人たちは、つけあがると思う。でも想像とは裏腹に、会場はしっとりとしたため息に包まれた。

「え? 結婚は。お互いの好きなところと。嫌いなところを百個言わないとできないんじゃないの?」

私の知っている結婚はそれをしないと、村中から許しをもらえなかったので、思わず口からでる。部屋のあでやかなため息とはずいぶんかけ離れた、素っ頓狂な声で申し訳ない。それでも私の知っている結婚とはそれが必然だった。

「それは。女神の婚姻とはずいぶん違う。やり方だな。」

王子がそういうので私は、女神の婚姻はどんなものか尋ねた。

「女神の婚姻は。教会で女神に採択してもらう。二人は結婚するべきか。否かを。」

「なにそれ。自分たちの婚姻を女神に問うの? 女神は独身なのに? 結婚したことないのに何が分かんの?」

私がそう問うと、より一層空気が重く感じた。それでも私は首をかしげるばかりだった。どうして女神が婚姻に口を出すのだろう。女神のことはよく知らないが、魔王も含めはた迷惑な奴らだと思う。ずいぶんと勝手な奴らだ。

「それは。すべての国を否定することになるぞ。」

座っている王様が私に鋭い目線でそう言った。私はこの部屋の空気も、彼の怒りも手に取るようにわかる。でもすでに布はつかんでいない。

「私が若いころ。世界に闇はなかった。地平の先まで色があり。黒は夜と焼きすぎたものにしかなかった。それが今や気が付けばこのような姿になっている。ずいぶん自分勝手な若造がいることだけは理解しているつもりだ。」

そういうと王様が眉尻を上げた。部屋のざわめきが方向転換されている。私は構わず続けた。

「まだ若造がこの世界を黒くしているのなら。まだ女神を探し。あわよくば手中に入れようとしているのだろう。ならば女神の生まれ変わりが結婚しているとわかれば。怒り狂い。相手の男を殺すだろうな。」

王様の手が力で震えるほどに握りしめられている。ミレイルさんの表情は髪のせいで分からない。レイアの表情は見なくてもわかった。

「この国は賢者を贄に出すのだな。彼がいなくなればこの国なんぞすぐに亡ぶというのに。」

「なにを。この国はミレイル殿から絶大な加護を受けているというのに! 妄言を申すな。」

どこにいたかわからない、さっきの髭の人がそう声を上げた。次々に同調する声が上がる。私はまた首を傾げた。どうして国に最近来たものが分かっているのに、彼らは理解していないのだろうか。

「この国に女神の加護? ミレイルさんの呪(まじな)いはかかってないんですけど。かわりに逸らしの呪いがかかっていますね。それの根源をたどれば賢者につながる。この国は最初っからずっと賢者によって守られているんですけど。」

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