図書館についてのこと、朝を迎えるまでのこと
@motchi_potchi
第1話
「世界の真ん中には大きな図書館がある。カアバの黒石のごとく端正な立方体形をしており、遠くから見るとオモチャのようだ。図書館の発する不思議な魅力は、訪れる旅人たちの心にある変化を加える。これまでの旅路、人生、ともに歩んできた仲間……この現実離れした無機物の前に立つと、全ての経験が空疎な単なる事実になり、意味を、色を失ってゆく。
彼らは心に空いた隙間を埋めるために何をするだろうか。図書館以外の全てが死んだいま、図書館に入るほかに途はない。そのことに気づいた旅人は、図書館こそが人生の全てであったのだという思いにかられ、門をくぐり、図書館に接触する。
見れば見るほど奇妙な図書館である。門の先にそれらしく伸びた道を辿っても、図書館の四方は灰色ののっぺりとした壁に覆われるばかりで、入り口はおろか、隙間ひとつ見出せない。
ここでキイとなるのは、司書である。司書は人間ではなく、動植物でもないが、歴とした生き物である。不思議な建物を前に右往左往する旅人の前に、ふらりと司書は現れる。この世に存在するどの言語とも異なる言葉で旅人を招く。旅人には、それが自分の親しんだ言語に聞こえ、司書の言う通りに右手を上げたり眉をひそめたり脚を開いたり服を脱いだりするうちに、暗号を解いたのだろうか、身体が勝手に壁の中にめり込んでゆき、気づくと図書館の中にいる。
図書館の内部は、全てである。中には全てのものがあり、全ての情報が一瞬のうちに飛び交う。全てというのは文字通り全てである。解決していない数学上の難問についてのサルでも分かる証明、絶滅した九十九種のライオン、隣人が履いていた靴下のヴァリエーション、江戸時代のちり紙に書かれた子供の落書き、宇宙が終わるときどんな音がするか、最初の人類が何を見聞きし食べたか、[あなた]が誰であるか……。十人組のビートルズや爪を剥ぐ林檎のような、あるはずのないことがらまで、全てがここにはある。
足を踏み入れた者は、はじめは戦慄する。どんな碩学だって読み切れない量の膨大な情報が、次から次に頭をめぐる。それも、普通の読書とは違って、全てが脳に刻み込まれ、決して忘れないようになる。たった一瞬のうちに。そして、もう二度と図書館からは出なくなる。図書館の外には何もないのだから。
このことをよく言って聞かせても、図書館に近づく者は絶えないという。好奇心あればこそ人間であるのかもしれないが、全てを知りたいという欲は、人間を人間たらしめる以上のエネルギーを持っていて、端的に言えば、危険だ。だいたい、全てとか絶対とか、そんな言葉は人間には持て余す代物だ。死ぬという現象について古今東西あらゆる人類が調べ尽くして現代に至り、なお、いずれ死ぬという事実が半額の惣菜のごとく転がっている。物事の終わり、命の果てについてこれほどまでに議論した生物は、地球史上類を見ない。物事は終わると言われている通りに終わるし、私たちは死ぬと言われている通りに死ぬ。にもかかわらず、どうして永遠なるものを、全てを、絶対を、求めてしまうのだろう」
言い終えて、テーブルの上の林檎をひと齧りする。果汁が唇から喉まで潤し、久しぶりの果物であったことを思い出す。首都を出発してから五ヶ月、飛行機や電車や手漕ぎボートや馬や訳のわからない改造バイクを乗り継いできた。とくに後半はほとんど徒歩だった。いくつかの砂漠と森とステップと氷を踏んで、持ってきたペーパーバックを読み潰して、いよいよ図書館が見える小さな宿まで来たというタイミングで、私たちは話し合う。
なぜ話し合わねばならないかというと、私が怖気付いてしまったのだ。五ヶ月前に覚悟したはずのことに、いまになって苛まれている。周回遅れの走者が突如猛然とスパートをかけるように。
私は、いまどんな顔をしている?
五ヶ月前、私たちは全てを捨てた。あらゆる人との縁を切り、勤め先を様々な道具でめちゃくちゃに破壊し、官公庁に爆破予告のメールをさんざん送りつけた。無作為に他人にケーキを投げつけ、さらに無作為に殴りかかった。彼は背も高く健康だったのでそれほど反撃されなかったが、私は痩せてのろまだったのでいくつも怪我を負った。
そこまでしておいてなぜ怖気付くのだろう。
「君の話によると図書館には全てがあるんだよね。僕はその荒唐無稽なストーリーに賭けたんだ。だからここまで君に付いてきた。君はひ弱だからときどき僕に引っ張られていたけれどね。
それでも、僕は全てを知りたいよ。全てを知るってどんな感じか、気になるしね。もう帰る家もないから」
彼の顔はすごくかっこいいわけではないけれど、真面目な話をするときは翳りが出て、好きな顔だと思う。
「さっきの話の続きなのだけれど、その図書館には自分、つまり入った人以外の人はいないらしいの。色んな人が入ったはずなのに、図書館の中では誰とも顔を合わせることはない」
「面倒な人間関係がなくていいじゃない」
「私は面倒な女だった?」
「それは違う」
「とにかく、つまり、私たちはお互い以外の人類がどうなろうと知ったこっちゃないという態度を今まで貫き通したわけだけれど、その、」
「お互いのことは大事だと思っている」
「そう」
「君が嫌なら僕は一人で行くよ」
「私はあなたともう少し生きていたい」
「君と一緒にいるためには、僕は図書館に入らないで、もう何泊かして、朝食や夕食をとりながら、頃合いを見て、来た道を引き返すことになる。それまでに、一階の古いテレビで君とメロドラマを見たりトランプをしたり一緒に寝たりもするだろうね。でも、僕は図書館に入りたい。どうしても全てを知りたい」
「私と全て、どっちが大切なの」
「分からない。図書館には全てがあり、人間はいなくて、司書がいる。君本人がいなくても、君にまつわるあらゆる情報がそこにあるんだから、きっと君といるのと変わらないよ」
「違う。どうしてそんなことを言ってしまえるの。心が痛まないの」
違わないし痛まないかもしれないと、自分でも少し思う。彼の言う通り、図書館は人っ子一人いないけれど、あらゆる人のあらゆる情報が絶えず流れ続けるのだ。
「違わないさ」
彼はもう私のことを見ていない。私の幻を含んだ全てを格納する不気味な立方体が、ルネ・マグリットの作品の一部みたいに窓の外にゆったりと浮かんでおり、そればかりを見ている。
「図書館で君に会うよ。僕と別れた後の君も、そこにはあるんだ」
「そう。林檎、食べて行って。けっこう美味しいから」
翌朝には彼はいなくなっていた。
私は窓の外を眺めながら朝食をとる。図書館は昨日と同じ姿をしている。
クロックムッシュと牛乳とコーヒー。日本風の民宿で提供される朝食としてはいささか風変わりな感もあるが、今まで食べたどんなものよりも美味しかった。
食べ終えてもしばらくテーブルを離れないで、ラジオ番組に耳を傾ける。ありがたいことに英語なので、何を言っているか分からないということにはならなかった(主人の配慮だろう)。内容は、昨日から今朝にかけて色々なことがあったので、それについて重要なことがらから順に語るという、まあありふれたニュース番組である。最後に私とは一切関係のない土地の天気が伝えられ、その番組は終わった。
これからのことは何も分からない。こっちを選んだ以上は、生きていくことが責任というものかもしれない。ただ怯えて足がすくんだだけのことを「選んだ」と形容するのは、ずるいことだろうか。おかしいことだろうか。私たちはいったい何を選び取ってきたのだろう。誰がそれを判断できるというのだろう。
全てを知ることと彼と過ごすことを天秤にかけてみたけれど、結局いま彼はここにいないし、私は何も知らないし、彼とは一生会わないことになった。それが結論で、それ以上でも以下でもなかった。
こうなった以上は、もう少し生きてみようと思う。
図書館についてのこと、朝を迎えるまでのこと @motchi_potchi
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