第5話

桐谷はようやく原稿を書き始めた。

タイトルは仮に「善悪の再定義としてのアンパンマン」―

内容は、和樹との会話をベースに構成されている。

正義の顔を与えることで同一化を促し、異端を排除する構造。

あの少年が語った、深く冷たい洞察は、桐谷にとってまぎれもなく目覚めだった。

しかし―

学部事務室の前で、たまたま手にした卒業論文の提出一覧に目を通した時、桐谷は、違和感というより”ざらり”とした予感に背中をなでられた。

「提出タイトル:『子供向け作品における善悪の再構築―アンパンマンの倫理学的再考』」 執筆者:宮本隼人。


目が、止まった。

提出日は、ちょうど一週間前。

内容の概要には、まるで和樹の語りをなぞるような単語が並んでいる。

「顔の支配構造」、「排除される悪」、「贈与と従属」、「パン工場という中央勢力」―

これは、俺がまだ世に出していない論文の核そのものだった。

桐谷は手が震えた。

(まさか、あの話を・・・?)

教授としての立場が脳裏をよぎる。

これは偶然の一致か?それとも盗用か?

だが、そんなはずはない。宮本がその視点に自力で到達できるとは到底思えなかった。

(和樹…お前の声が、誰かに奪われたのか?)

迷いが広がる。

告げるべきか?

しかし証拠は?録音されたものがあるかどうかもわからない。

―そして、何よりも恐れていることがあった。

少年の信頼を、裏切ること。

桐谷はその足で、再び図書館へと向かった。

和樹は、今日も同じ席に座っていた。

ランドセルのかわりに、分厚い児童文学全集を膝に置いて。

声を掛けるべきか。

それとも、もう一度だけ、確かめるべきか―

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