第2話  レオンの屋敷


 ふわりと香る優しい匂いに、ベルはひくひくと鼻を動かした。

 身体中が柔らかいもので包まれていて、違和感を覚えながらもまだ目蓋は開かない。肌に触れるそれを無意識のうちに手繰り寄せて腕の中に抱き込んだ。

 知らずのうちに開いていた口を引き締めて腕で擦る。もぞもぞと潜り込んで、しばらくそのまま体を丸めた。

(なにか、足りないような気がする)

 手のひらを彷徨わせて探したけれど見つからない。ベルは眉を顰めながら寝返りを打った。

 ぐううっと伸ばした手の先に触れるものがある。

 感触を確かめていると、それは「うーん……」とむずがるような声を上げた。

(ああ、これだ)

 先程足りないと思ったのは、この温もりだ。

 安心して身を任せたベルを、声の主が頭の下にゆっくりと腕を差し込んで抱き寄せる。ベルを腕の中に収めると安心したように深く息を吐いたようだった。眉の上あたりで切り揃えたばかりの前髪がそよぎ、ベルはくすぐったくて身を縮ませながら額を押しつける。

 心地良さに再び寝入りそうになりながらも薄らと目を開いた。

 目の前にあったのは壁だった。ぼんやりとしながら押してみると柔らかい。

 何度か瞬きをしながら、ゆっくりと上下しているそれを見つめた。

 壁からは二本の腕が生えていてベルを優しく包み込んでいる。徐々に覚醒していくと壁の正体に気付いて全身の毛が逆立った。

 包まれていた毛布から飛び出る。ベッドから転がり落ちた。パニックになりながら逃げ出したはいいものの前をよく見ていなくて本物の壁にぶつかってしまう。ベルは痛む額を抑え、呻きながらうずくまった。

「……ベル?」

 背後から声をかけられてベルの肩は跳ねる。

 恐る恐る振り向くと、それまで一緒に寝ていたレオンが目を擦りながら体を起こしたところだった。

 金色の髪の毛が、部屋に射し込んだ朝日を反射してキラキラと瞬いている。

 ベルは床全体に敷かれたカーペットに手と膝をついたままで、じっと彼を観察した。

 レオンはまだ眠そうにしていた。

 太陽は出ているけれど、起きる時間には早い。それが分かるくらいにはベルもここでの生活に慣れ始めたところだった。

 レオンがベルを彼の屋敷に連れ帰ってから、半月が経っている。

 まだ眠そうなレオンが手招きをするのでベルはおずおずとベッド脇まで近付いた。立ち尽くしていると、今度ははっきりとした口調で名前を呼ばれる。

 それが「もっと近くに来い」という意味だということは、ベルにはよく分かっていた。

 ベッドによじ登る。彼は大きな欠伸をしながら両手を広げてベルが再び腕の中に戻ってくるのを待っていた。

「おはよう、ベル」

「……おはよう」

 繰り返すようにして言うとレオンは満足そうにした。そうしてベルを抱え込んだままシーツに倒れてしまうので反射的に身を硬くする。

 他人に触れられることには、まだ慣れていなかった。

 そんなベルの様子を知ってか知らずか、宥めるように優しく背を撫でる少年の手付きに徐々に体の力を抜いていく。

 先程は寝起きで頭が混乱してしまっていたが、落ち着いて周囲を見渡せば、今自分のいるところが彼の私室であることはすぐに分かった。

 スラムで助けられた後から、ベルを取り巻くものはがらりと様変わりしたのだ。

 あの後、ベルがついていくと答えた後の彼の行動は早かった。

 まずスラムから少し離れた街道に、レオンたちが乗ってきた馬車は置かれていて、彼はそこにベルをつれていった。

 馬が四頭も繋がれていて、ベルは驚いてしばらく身動きが取れなかった。

 ビクビクしながら馬車に乗りこむと、レオンの従者であるカイルの号令でゆっくりと景色が動き出した。

 少し揺れただけなのにベルは飛び上がり、隣に座っていたレオンにしがみついてしまう。

 彼は目を見開きはしたけれど、特に引き剥がされるということもなくベルが落ち着くまで背中を撫でてくれた。

 土埃の中を走り抜け、しばらくいくとぽつりぽつりと民家が現れ始める。揺れが酷かった馬車が石畳の上を走るようになる頃には背の高い住宅が視界の大半を占め、人の往来も多くなってきた。

 やがて朝日が昇りきった頃に、ようやくベルは強く握りしめていたレオンの服の袖を離すことができた。

 そうして更に半日ほど馬車に揺られて着いた先には、見たこともないくらい大きな建物があった。

 初めはそれが何なのか分からなかった。

 レオンの屋敷だと言われても俄かには信じられず視線を右へ左へと向けたが、馬車から降りたところからは一歩も足が踏み出せずにいた。

 結局、カイルに抱え上げられて門扉から屋敷までの長い道のりを進んだ。

 屋敷の中に入ってからは、もっと酷かった。大人がたくさんいたのだ。

 ずらりと整列をして待ち構えていた使用人たちにぎょっとして体が竦んだ。固まっているうちに敢えなくレオンたちとは引き剥がされる。

 すぐにメイドたちに取り囲まれて浴場まで連れていかれ、体の隅々まで清められた。

 纏っていた布切れを全て剥ぎ取られ、メイドたちにもみくちゃにされながら洗われた。絡まった毛先を解され、茶色い水が出なくなるまで泡だらけになる。

 伸ばし放題だった髪を解きほぐすには相当な労力が必要だったようだ。途中でメイドの一人から「短く切り揃えてよろしいでしょうか?」と問われたときにはベルももう疲労困憊だった。何も考えずに頷いたあとからは三人がかりで肩口あたりまで髪を切り揃えられた。

 それが屋敷に着いてからの第一の修羅場だったわけだが、どうやら使用人たちにとってもベルとの出会いは衝撃的なものだったらしい。

 彼女自身に自覚はなかったけれど、ベルの身体中のアザと傷はメイドの半数を卒倒させるほど酷かった。

 浴室から出てすぐに服を着る前に治癒師の診察を受けることになった。

 そこで丁寧に手当てをされて周囲の人間全てから哀れみを含んだ目で見られるのは気まずくて、ベルはずっと自分の足の爪先を見つめていた。

 ベルを一目見たときには僅かに顔を背けて不機嫌にも見えたメイドたちが、服を着せてくれる頃には真剣味を帯びた顔付きをしていたのが、やけに記憶に残った。

 ベルの普通は、普通じゃなかった。傷だらけの体はレオンの屋敷では普通のことではないのだ。

 体を綺麗にしてもらって、傷の手当てまでしてもらって、どうやらここの大人たちは本当にベルのことを殴ったり蹴ったりしないらしい。その事実が彼女をひどく驚かせた。

 不思議な気分にもなった。

 その後、様子を見に来たレオンにたどたどしくも状況を説明した。話をしているうちに気分がどんどん高揚していくのが分かったけれど、それをどう表現していいのか分からなかった。

 面倒を見てくれたメイドたちに、この気持ちを伝えたいのに言葉が出てこない。素直にそう訴えると、彼は「そういうときはありがとうと言えばいい」と教えてくれた。

 それをそのまま口ごもりながら告げると彼女たちは折り目正しく礼を返した。そのことで目の前が少し明るくなったような、世界が広がったような気持ちになった。

 お腹が減っているだろうと次に連れてこられたのは食堂だった。

 レオンの屋敷では見たことがないものでいっぱいで、これまでベルが口にしてきたどんな食べ物とも違うものが目の前に並べられた。

 ベルはスプーンもフォークも使ったことがなかったから、正しい持ち方から学ばなければならなかった。

 そして、出された食事のほとんどが体に合わないという問題もあった。

 食事のたびに戻したり、お腹を壊すベルを不憫に思ったのか、レオンはベルの食事には特に気を遣うように料理長に命じていた。

 唯一安心して食べられるのはパンだけだった。それは今も変わらない。

 レオンは時折何か言いたそうにはするけれど、ベルがどんな失敗をしても決して叱ることはなかった。ましてや、スラムの大人たちのように暴力を振るったり怒鳴ることなんてことはしない。それは使用人たちも同様だった。

 使用人たちはレオンに対するようにベルにも恭しい態度を崩さない。

 ベルには、どうして自分よりも背が大きくて力も強そうな大人たちが威圧的に振る舞わないのかが不思議で仕方がなかった。

 初めは、きっとレオンが実はとても強い子どもなのだろうと思った。力で支配しているのだと思った。

 しかし、そうではないようだということは、しばらく観察をしているうちに分かってきた。

 この屋敷では、腕力は強さの基準ではないのだ。

 実際、レオンは非力なほうだった。ベルが軽々と持ち上げられる稽古用の剣も、レオンには重過ぎるようだった。もっとも、そのとき「ベル、すごいな!」と話しかけられたことに驚いて、すぐに隠れてしまったのだが。

 身に染みついた習慣は早々なくなりはしない。

 何もされないと分かっていたし、そう何度も言い聞かせられていたけれど、大人は見るだけで怖かった。部屋のドアをメイドに数回ノックされただけでパニックになってしまう。しまいには暗がりで震えているのを見たレオンは「これではいけない」と溜息をついていた。

 もしかして追い出されてしまうのだろうかと恐々としていたけれど、それからレオンはむしろ一日の大半の時間をベルに費やすようになった。

 姿勢、言葉遣いなどの基本的なところから始まり、夜間は少しの物音で目を覚ましてしまうベルを抱きしめて寝る。

 初めのうちは朝方まで眠れなかった。元々昼夜逆転の生活を送っていたのだから致し方のないことだとレオンは言っていた。昼間は起きて、夜は寝るべきだと言い聞かされて、レオンの体温と匂いを覚え始めてようやく彼の腕の中で眠れるようになった。

 寝起きはやはりパニックになってしまうことも多かったけれど、彼も彼の屋敷の人間たちも根気強い質らしい。じっくりと時間をかけてベルが慣れてくるまで待ってくれた。

 おかげで少しずつ、ここでの生活もベルの普通になり始めている。

「ベル。今日はマーサが来るらしい」

 まだ寝転んだままでレオンがそんなことを言うのでベルはその表情を見上げた後、少しだけ笑った。

 マーサというのはレオンの座学の教師だ。丸いレンズがついた眼鏡をかけていて、腰下まである長い黒髪はおさげで纏められている。いつも落ち着いた色のワンピースを着ていて、動作は優雅だが口調はきつい。どうやらレオンは彼女が苦手らしく二日おきに屋敷を訪れる彼女から逃げ回る日々を送っていた。

 ベルはマーサが好きだ。

 確かに厳しいことを直球で言ってくることもあるけれど、彼女はベルが理解しやすい言葉を使ってくれる。意味が分からなくて首を傾げると「分からないときはわからないとおっしゃい」とピシャリと叱りつけてくるが、必ずその後で易しい言葉に言い換えてくれる。彼女はいつだって淡々と落ち着いた声で話し、何度聞いても嫌な顔一つしない。彼女の前では理解しようと焦らなくてもいいのだ。

 なにより、彼女はレオンとあまり身長差がないので、ベルよりずっと年上の大人ではあったけれど怖いと思ったことは一度もなかった。

 マーサはベルを特別扱いしない。ただし配慮はしてくれる。それが心地良かった。

 レオンは彼女からよく注意をされるので苦手らしい。

 それが彼女の仕事だから仕方ないんだけどね、という随分とませたことを言っていたが、恐らくは彼自身の思っていることではなく武術を習っているカイルの言葉をなぞっているのだろう。レオンはカイルにはよく懐いているように見えた。

 そういう事情もあり、レオンはマーサの来る日にはたまに屋敷内の見つけづらいところに隠れてしまうことがあった。

 ベル、かくれんぼをしようと初めて言われたときには戸惑ったものだが、ほぼ恒例にもなっているのでやり方は分かっている。

 レオンは隠れる役で、ベルは見つける役。

 見つけることができたら今度はレオンと一緒になって隠れる役に回る。マーサはずっと見つける役だ。

 そんなわけで、朝食を食べ終わって身支度を済ませた後は追いかけっこをして遊び、マーサが来る頃にレオンはベルと別れてどこかに隠れてしまう。

 ベルは尻尾をブンブンと振りながら玄関ホールで待った。

 執事に連れられてやってきた彼女に「マーサ!」と声をかけると、彼女は微笑みで応えた後でお出迎えの面々の中にレオンがいないことにすぐに気が付いた。

「坊ちゃまは、また例の逃亡ですか」

 あきれたように言いながら被っていた帽子を執事に預け、わずかに乱れた髪を手で撫でつける。そうして近寄ってきたベルの頭を撫でた。

 ちなみに彼女の自宅には大型犬が三匹もいるらしい。

 わんちゃんはね、最高なのですよと初対面で呟いていたことをベルはしっかりと覚えていた。

 マーサの周りをついて歩いているうちに図書室へと到着する。普段はこの図書室にある机に向かってレオンはうんうんと唸りつつ勉強している。

 マーサと二人きりになって早々にベルは小さな絵本を胸に抱えて持ってきた。

「今日はこれ読んで!」

「ええ、もちろん。『花を失った少年』ですね。懐かしい。わたくし、まだ坊ちゃまがこんな砂粒くらい小さかったときに何度もせがまれて読んだものでした。あの頃はお可愛らしかったのに今となっては『マーサは怒ってばかりいる』ですものね。男の子ってどうしてこうああも良い意味でも悪い意味でも自分の心に素直なんでしょう」

 砂粒くらい小さなレオンを想像してベルは笑い声を上げる。

「女の子はいいですわ。笑った顔も怒った顔も、泣いた顔ですら可愛いんですもの。ベルは坊ちゃまと違う意味で素直な良い子ちゃんなのでついつい甘やかしてしまいます」

 そんなことを言いながら椅子を引きずってきて横並びに座る。

 端からマーサはレオンを探しに出る気など更々ないのだった。彼女は「運動は苦手ですわ」と澄ました顔をしている。

「いいですか、ベル。馬鹿なことをする殿方に淑女が足並みを合わせてやる必要など、ひとっつもないのです。振り回されるなんてナンセンス。そんな方の手綱は早々と手放してしまうのが賢いというものですわ。淑女のたおやかな手は紳士から花束を受け取るためだけにあると理解してくださる方のみをお相手なさい。時間と労力の無駄ですからね」

「はい、マーサ先生」

「よろしい。では、まずはタイトルから読んでみましょう。は、な、を」

「は、な、を」

「失った」

「うしなった」

「少年」

「しょうねん」

「素晴らしい。その調子でまいりましょう」

 授業を聞いてくれない生徒より懐いてくれる子のほうをわたくし優先させる主義ですのという名言を言ってのけていたマーサは、ベルに文字を教えるのが最近のブームのようだった。

 おかげで簡単な絵本ならなんとか自力で読めるようになっていた。完璧とはいかないが、分からないところはマーサが次に来たときに聞けばいい。

 新しいことを覚えるのは楽しかった。本というのはベルの知らないことがいっぱい書いてある。レオンの屋敷には騎士に関する本がいっぱいあって、その中にはお姫様やお嬢様と呼ばれるキラキラした服を着た女性を助け出す絵本も多くあった。

「確実にカイルの影響ですわ。ベルはご存知? 坊ちゃまの護衛している大柄な男性……そう、以前は聖騎士という、騎士の中でも特に優れた方々の一人でしたのよ。わたくし、騎士には興味はないのですが、彼らが仕えてらっしゃった聖女様というこの世で最も尊いお方の大ファンだから詳しいの。坊ちゃまはカイルに武術を習っているのですけど年頃の男の子って必ずって言っていいほどヒーローになりたがるでしょう? 身近に元聖騎士なんて規格外の方がいらっしゃったものだから、あるときから『騎士になりたい! マーサの勉強はつまらない!』って、ねえ? 酷いと思いませんこと?」

「それ言われたとき、マーサ悲しかった?」

「いいえ、とんでもございません。健全にお育ちになられていると安心したものです。奥様は早世されてしまいましたし、旦那様もほとんどお戻りになられないから大丈夫かしらと。いらぬ心配だったことが分かって嬉しかったくらいです」

「マーサはレオンが好きなのね」

「当然です。さっ。無駄話もいいですが、読み終わったら坊ちゃまを迎えに行きましょう。あまり遅いと拗ねてしまいますからね」

 ベルが笑うとマーサは悪戯っ子のような表情で応えた。彼女は厳しいことも言うけれど、お茶目なところもあるのだ。

 結局、いつまでも探しに来ないことに痺れを切らしたレオンが図書室に来るまで、ベルはマーサと話し込んでしまった。

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犬系メイドはご主人様に拾われましたが、恋を知るにはまだ早いようです @ebisukikanimo

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