犬系メイドはご主人様に拾われましたが、恋を知るにはまだ早いようです
@ebisukikanimo
第1話 ベルとレオンの出会い(ベル視点)
ベルがレオンと出会ったのは、彼女がまだ貧民街と呼ばれるスラムで暮らしていたときのことだった。
物心ついたとき、ベルは既に一人だった。
彼女が知っているのは、這いつくばった地べたから伝わる全身が凍るような冷たさと、饐えた匂いが漂うゴミ山から食べられるものを見つけ出す方法だけ。
周りにも同じような子たちがたくさんいて、夜になると誰ともなく集まってきてスラムの端にあるゴミ捨て場を徘徊する日々だった。
スラムでは誰もが自分のことだけで手一杯だった。
誰もベルのことなんて視界にも入れていなくて、ベルのほうも他人に関わろうなんて思いつきもしなかった。今日見た顔が次の日には路地裏に打ち捨てられた死体になっていることだってザラだったからだ。
ベルはいつも一人ぼっちでお腹を空かせていた。
砂埃が吹き荒び、傾いた歪な家屋が点在するだけのスラムでは、大人たちも飢えていた。ベルはまだ子どもで力も弱い。だから奪い合いになってしまったら命がけだった。
子ども相手なら大抵ベルが勝った。だけど、大人は違う。
腕力では到底敵わなくて、下手に抵抗すると殴られて蹴られて身体中アザだらけになる。その上、せっかくゴミ山から見つけ出したものまで全部取られてしまうのだ。
圧倒的に力の強い大人たちは、ベルからしてみればいつだって恐怖の対象だった。
ベルのような孤児たちはみんな、大人に怯えていた。
大人たちに見つからないように物陰に身を潜め、陽が落ちてからは月明かりを頼ってゴミ山を漁った。
そんな日常が変わったのは、スラムでの暮らしが八年を過ぎた頃だった。
いつものように、寝ぐらにしていた空き家の床で体を丸めていたベルは、妙な物音に気がついた。
後から知ったことだが、それは馬の蹄が地面を削りながら走ってくる音だった。誰一人として声も出さずに家屋や物陰に隠れていた。だから、その蹄の音はよく響いた。
ベルは好奇心に負けて恐る恐る窓から外の様子を窺う。
そのとき、生まれて初めて馬を見た。
野犬の何倍も大きなその体躯に驚く。そうして更にその背に人が乗っているのもすごく奇妙な光景に思えた。
見慣れないものに対する興味はあった。しかしこれ以上は危険なこともベルには分かっていた。
再び定位置に座りこみ、今見たあの生き物は何なのだろうと想像を膨らませる。
鼻息は随分と荒いようだった。顔が長くて、黒々とした毛並みをしていて、足も胴体も長い。おまけに人が乗っている。
(もしかしたら、上に乗っていたのは人じゃないのかも。人の部分と獣の部分はくっついていて、あれで一つの生き物なのかもしれない)
そんな有り得ない妄想に浸りながら、ベルは自身の頭の上にある耳にそっと触れた。
ベルの耳は尖った三角の形をしている。人間のそれとは似ても似つかない形状をしていた。
それだけではない。
ベルのお尻の上からは犬のような尻尾が生えているのだ。
耳の形が違って、尻尾がある。
それがベルを人ではないと証明するものだった。
人間たちが自分を何と呼ぶのかは知っている。スラムの大人たちがベルに暴力を振るうときにはいつもこう呼ぶのだ。
この獣人が、と。
そう言って心底嫌そうな目で見てくるから、ベルは自分が人間とは違う生き物なのだということは知っていた。
(あれも私と同じ獣人なのかな)
気になって仕方がなかったが再び勇気を振り絞って窓の外を確認することはできなかった。余所からの訪問者は大抵、良くないものを連れてくるからだ。
ベルが恐れているのは、この奇妙な訪問者たちが新手の人攫いだった場合のことだった。
人攫いたちはベルたちスラムに住む者の天敵だった。彼らは大人も子どもも関係なく力づくで連れていく。連れ去られたら最後だ。二度と生きては戻れない。
空腹で死ぬ人間は多かったが、人攫いに連れ去られて姿を消す人間も数え切れないくらいいた。
ベルは、膝を抱えて一層小さく縮こまる。
もし人攫いだったら、今回は誰が連れていかれてしまうんだろう。できれば昨日私を殴った奴だったら良いのに、なんてことを目を瞑りながら思う。昨日は明け方過ぎにようやく見つけた腐りかけの芋を食べようとしていたら運悪く大人に見つかってしまったのだ。おかげでお腹がぐうぐうと不満を訴え始めている。
殴られてできた傷と空きっ腹を慰撫したあと、ベルは耳だけはピンと立てたまま身動き一つせずにいた。
(どうか、見つかりませんように……)
今日はもうお腹が減って一歩も動きたくない。訪問者たちの足音が近付いてこないことだけを強く願った。
ベルが気配を窺っていると、彼らは例の鼻息の荒い生き物の背からは降り、何やら話し合いながら遠ざかっていく。先にウマを繋ぐ場所を探さないと、と話している声をベルは聞き取っていた。
ウマというのは、あの大きな生き物のことだろう。
(私と同じじゃなかった)
少しガッカリしながらベルは肩の力を脱いて壁に背を預けた。
同じように隠れていた住人たちがコソコソと動き出す音が聞こえる。
今のうちに訪問者たちからは距離を取ることにしたのか、もしくは夕暮れ時だから寝ぐらに戻るのかもしれない。
どうやら前者のほうが多いようだということは聞き取った音から判断できた。
ベルの耳は特別だ。近くの音から遠くの音までよく拾う。
そのおかげでこれまで身に迫る危機を回避することができていた。優れた聴覚と嗅覚、それがベルがスラムで生きていくための寄る辺だった。
しかし、このときのベルは慎重過ぎた。状況を見誤ったのだ。
外に出たせいで男たちに見つかってしまうリスクと残っている体力を鑑みて、その場に留まることにした。
それがいけなかった。
程なくして二人組の男たちがベルの隠れている空き家を覗いてきたとき、ベルは身動きひとつできなかった。
窓枠越しに見えたその目が月明かりを反射してギョロリと鋭く光る。
ベルはできるだけ目立たないように部屋の隅で固まっていた。しかし元々物がほとんどない家の中にはろくに隠れる場所もない。
窓脇に置かれた小さなテーブルの下で息を押し殺す。
男たちは、手に持ったランタンの灯りでじっくりと家の中を照らしてきた。
そこで僅かな違和感を覚えたらしい。なかなか立ち去ってはくれなかった。
「いたか?」
「ああ、何かいるな。例の獣人かもしれない。一応確認しておくか」
漏れ聞こえた会話にベルは息を呑んだ。
(私を狙ってる!)
この辺りにいる獣人はベルだけだ。
獣人というのは珍しく、希少価値のある存在であることをベルは知らない。しかし、狙われているのが自分であることさえ分かれば、大人の力には敵わないベルはひたすら逃げるしかないのだ。
何で、どうしてとパニックになっていく心を必死で押さえつけた。
冷静にならなくては。今度こそ判断を誤るわけにはいかない。
心臓が激しく鼓動を打ち、ベルは震える手をぎゅううと握りしめた。
(見つかりませんように、絶対に、見つかりませんように。見つかりさえしなければ、大丈夫なんだから……)
そうやって何度も呪文のように自分自身を落ち着かせるために心の中で繰り返す。
男たちは小声で会話しながらドアノブを捻ったようだった。
案の定ドアは軋むだけで開かない。
その様子に、ベルはホッと安堵の溜息を吐いた。
出入り口であるそのドアは立て付けが悪くて開きにくい。ベルは普段そちらではなく、対面に位置する壁に開いた穴から出入りしている。
(今のうちに別の寝ぐらに逃げなきゃ……)
ジリジリと後退しながら壁の穴に近付こうとしていた――そのときだった。
男たちはいつまでも開く様子のないドアに焦れたのだろう。力任せに蹴破ってきた。
薄い木の板が飛び散る激しい音に身体が竦む。
そうなってしまうと、もうなりふり構ってなどいられない。
ベルは咄嗟に体を跳ね起こすと穴まで全速力で走った。
あと少しで通り抜けられるというところで足首を掴まれる。容赦なく引き摺り出されて、ベルは甲高い悲鳴を上げた。
手足を振り乱し、宙に浮いた体を力の限り捻る。
男たちはスラムの大人たちより遥かに背が高くて体格が良かった。ベルの細い手足など簡単にへし折ってしまえるだろう。
足を掴んだほうの男は無精髭が汚らしく、口元の下卑た笑みを浮かべている。
宙吊りにされているせいで服が首元まで捲れ上がり、ベルの尻尾が丸見えになった。
それを見たもう一人の男がヒュウと口笛を吹く。
ベルは、あまりの屈辱に全身の毛が逆立つ程の激情を覚えた。
「まだガキじゃねぇか。こんなに細っこいガキじゃあ、商品にするには時間がかかるぞ」
「いいんだってよ、そんなナリでも。オキャクサマは獣人のメスなら何だって良いっておっしゃってるんだと」
「はーん。悪趣味だねぇ」
必死で抵抗しているというのに足首を掴んでいる男の腕はびくともしない。それでも暴れ続けていると鬱陶しそうな目を向けられた。
男は苛立ったように舌打ちしたあと壁に打ちつけるようにベルを投げた。背中を強かに打ち、あまりの痛みに低くうめく。
投げ飛ばされた先が蹴破られたドアの近くだったことは幸いだった。
ベルは身を翻し、軋む体に鞭を打って死に物狂いで立ち上がる。
床に積もった埃で足を滑らせながら外へと走り出た。
足がもつれる。
急に動き出した心臓がひどく痛む。
それでも男たちの怒声に追い立てられて、薄汚れたスラムの路地をひたすらに逃げ惑った。
息が上がり、全身にビリビリと痺れるような痛みを感じた。
ジグザグに走り回り、ふと後ろを振り向けば、いつの間にか男たちの姿はなかった。
ベルは足を止めて不規則に上下する呼吸を落ち着けようとする。
建物の壁に背を打ち付けるようにして寄りかかった。
耳が血が巡る音で何も聞こえない。埃を思いきり吸い込んだせいで嗅覚もやられていた。
だから、音を殺して近付いてくる男たちに気付くのが遅れてしまった。
背にした廃墟の窓枠から、突然現れた腕に身に纏っていたローブの裾を掴まれる。
すぐに脱ぎ捨てて走り出そうとして蹴躓く。地に倒れ伏したベルの首根っこを掴み、男たちは意気揚々と顔を見合わせて笑った。
「やだっ! やめて!」
ベルの叫びは虚しく響く。
誰も助けになんか来てくれなかった。
当然だ。ベルだって、他の子が同じ目に遭っていても助けになど行かない。
せめてもの抵抗に錆びた雨樋のパイプにしがみついたけれど苦もなく引き剥がされた。
「誰か助けて! 誰か……!」
「うるせぇぞ!」
誰も来てくれないと分かっていても声を上げずにはいられない。
ベルがあまりに騒ぐので、痺れを切らした男に頭を強く殴られて目の前が激しく明滅した。
(……痛い……逃げられない……)
悔しくて唇を噛みしめる。こんなあっけなく捕まってしまった非力な自分のことが許せなかった。
堪えきれなかった嗚咽が漏れる。
乾いた地面には、ベルを引きずった跡と涙の雫が続いた。
男たちはベルを連れて路地裏を通り抜けた。開けた場所まで来ると、そこには男たちが乗ってきた馬が二頭繋がれている。
(私、どうなっちゃうんだろう……殺されちゃうのかな……)
人攫いに連れていかれた人が一体どこに行ってしまうのか、どんな目に遭うのかをベルは知らなかった。しかし今よりもっと酷い生活を強いられると大人たちが噂しているのを聞いたことがあった。捕まったら死ぬまでこき使われて痛めつけられるとか、猟犬に襲わせて楽しむのだとか、そんなことを言っていた。
男たちが言うにはオキャクサマがいて獣人は商品にされてしまうらしいが、それだけの情報では自分の行く末が全く分からない。
嫌な想像ばかりが胸を占め、呼吸さえも覚束なくなる。
いっそ、今の生活以上に酷い目に遭わされるくらいなら、ここで舌を噛み切ってしまいたい。
ベルがそんなことまで思い始めた、そのときだった。
「――何をしている?」
決して大声を出したわけではないのに、その声は真っ直ぐにベルの耳へと届いた。
ベルはハッと顔を上げる。
声の主は、進路を遮るように立っていた。男たちの体で隠れて見えないけれど随分と若い男のようだった。ともすれば、少年と呼べる年齢かもしれない。
先程の問いかけは男たちではなく、ベルに向けられたようにも思えた。
それなのにベルは声が出ない。
助けてと叫びたいのに、先程殴られたときの恐怖が消えてくれなかった。
「何をしているのかと聞いてるんだ。答えろ」
今度は男たちに問いかけたようだった。
焦るベルとは対照的に、男たちはじっくりと声の主を観察した。
そうして、一瞬の間を置いた後にねっとりと嫌らしい猫撫で声で擦り寄る。
「嫌ですよ、坊っちゃん。坊っちゃんみたいにお育ちの良いお子様なら分かりますでしょう? お貴族様の間じゃあ、好みの獣人を飼ってお戯れになるのが近頃の流行りなんですから。知らないとは言わせません。こいつはね、これから坊っちゃんのような高貴なお方のための商品として仕込むんです。まあ、今は貧相で痩せこけたワンコロですがね。多少身なりを良くしてやりゃあ、見れるくらいにはなるでしょう」
「そうですよ。坊っちゃん、見たところお忍びでいらっしゃったようですが、その装いは高貴な出自の方だと、わたくしどもは一目でピンと来ました。お名前さえ教えていただければ坊っちゃんのお宅を優先的に回らせていただきますよ」
揉み手で媚を売る男たちを、しかし坊っちゃんと呼ばれた相手は鼻で笑った。
そのいかにも小馬鹿にしたような様子にベルは僅かな希望を抱く。もしかしたら、彼は私の味方なのかもしれない。
声はまだ出ない。しかし体は動く。
再び暴れ出したベルを男たちは見下ろし、大事な商談を遮った罰を言わんばかりに腹を蹴り上げてきた。体を丸めて耐えるが、ベルは顔だけは上げたままでいた。
靴底で前が見えなくなる一瞬の間に声の主を覗き見ることができた。
彼はそこにいた。
金色の髪をしていた。歳の頃はやはり、ベルよりも少し年上くらいに見えたが少年と言って差し支えない。
その眼はベルだけを見ている。
刹那のことだったけれど、男たちがベルの顔面を蹴り飛ばしてすぐに、彼は「カイル!」と大きな声を出した。
すると彼の背後の影から、ぬっと長身の男が亡霊のように姿を見せる。そのときにはもう顔を蹴られたベルの視界は霞んでよく見えなくなってしまっていたけれど、不明瞭な視界の中で男たちが悲鳴をあげて逃げ惑い、そうして倒れるような音が続けて聞こえた。
ベルがポカンとしながら、その場にぺたりと座り込んでいると、やがて目の前に誰かが膝をつく。
「大丈夫か?」
彼だ。声で分かった。
少年はベルの薄汚れた頬をそっと撫でると「酷いことをする」と呟いた。
「あ、あの……」
見上げると、彼もベルを見つめ返した。
鮮やかな群青色の瞳をしていた。薄らぼんやりとする視界の中でもそれだけは明瞭だった。ベルがこれまで見たどんな空の色よりも綺麗な色だった。
少年の指先の温かさに首を傾げる。
(どうして、この人はこんなに温かいんだろう)
ベルには彼が、きらきらと輝いて見えた。月明かりよりも遥かに眩しく思えて目を細める。
何度か瞬きをすると、視界は少しだけマシになった。
彼はベルに手を差し伸べてくれた。
その手を取ろうとして、ふと汚い自分の姿を思い出して躊躇ってしまう。私なんかが触れたら汚してしまうような気がして気後れした。
俯くベルに困ったような顔をしたけれど、彼は自分から手を取ることにしたらしい。
躊躇いなく掴まれて引き起こされる。
彼はベルの頭ひとつ分くらい背が大きかった。思いの外近付いてしまって慌てて体を離そうとしたけれど、彼のほうは全く気にした様子もない。
ベルの手を引いて歩いていく。
彼のまだ幼さを残す頬の膨らみや、ふくふくとしているけれど所々タコができた手のひら、そしてピンと伸ばされた背筋を見つめる。そうしていると、いつまでも怯えたように背を丸めていた自分がだんだん恥ずかしくなってきて、ベルも真似をするようにこっそり姿勢を改める。
彼は気分を変えるように「まったく……」と言いながら唇を子どもらしく尖らせた。
「品性の欠片もない奴らだったな。坊っちゃんのお宅まで伺わせていただきますだと? 俺が獣人を買うような下劣な人間に見えたのなら心底腹立たしい。大体、奴隷の売買はこの王国では禁止されて久しい。だというのに法を犯してまで私欲を満たそうとする奴輩というのは総じて人でなしだ」
ベルが返答に困っているうちに、どうやら相当ご立腹の様子の少年は語気荒く捲し立てた。
彼が何を言っているのか半分も理解できない。だがベルはもっと彼の声が聞いていたくて必死でこくこくと頷いた。
「しかしあのような連中に目をつけられて君も災難だったな。あの男たちはこちらで処理しよう。このレオン・アーデンの名において、今後君には一切の火の粉が降りかからないよう取り計る。ところで君、家はどこだ? 送っていってやる。カイルほどではないが俺も剣は扱えるから、いざというときには女の子一人くらいは守れるだろう」
急に問いかけられてベルはビクリと肩を震わせる。視線を彷徨わせた後、正直に答えた。
「か、帰るところ、ない」
かすれるような小さな声しか出せなかった。
彼はベルの返答が聞こえなかったのか、足を止めて振り返り「何だ?」と聞き返してくる。
「帰るところない。てきとうに、どっかで寝る」
目の前の少年は何度か瞬きをした。
ベルはなんだか彼のそばにいると自分が小さく情けないものになったように思えて、せっかく伸ばした背筋が再び丸まってしまった。目頭が熱くなってきて鼻の奥がツーンとする。
本当は夜も更けてきたからゴミを漁る時間なのだが、それは絶対に彼には言ったらいけないような気がして代わりに下を向いた。
「正気か? 今あの性根がドブに浸かったような連中に狙われたばかりだぞ。もしかしたらまだこの辺りにあいつらの仲間がいて彷徨いていないとも限らない。それに女の子が一人でこんなところにいたら――」
彼は言いかけて、何かに気付いたように口を噤んだ。
(女の子がこんなところにいたら……何だろう?)
ベルがきょとんと首を傾げていると、レオンは眉間に皺を寄せた。
「本当に行くところがないのか? 親は? 兄弟はいないのか」
「ないし、いない」
彼の顔が引き攣る様を見つめ、やはりこれは言っていけないことだったんだと後悔する。
シュンと落ち込んだベルを見て、レオンは溜息をついた後、困ったように頭を掻いた。
「君をこんな危険なところに一人置いてはいけない」
そう言って、向き合ったままベルの両手を握った。
「ああいった手合いは仲間内で情報共有しているはずだ。すぐに次の奴が来て、さっきみたいに君を攫おうとするだろう」
似たような男たちに再び追いかけられることを想像して、ベルの体はプルプルと子犬のように震え出す。
「俺の屋敷に来るか? 一時避難だ。無理強いをするつもりはないが、少なくともあんな下衆は屋敷の中にはいないし、立ち入らせない」
少年は真摯に目を見てベルを説得しにかかる。
「わ、わかんない。ベル、むずかしい言葉わかんないの」
今まで他人とは最低限の関わりしか持ってこなかった。だから彼の言っている言葉の意味がよく分からずに混乱した。
頭の中ではもっとちゃんと考えられるのに、口から出てくるのは幼子のような言葉ばかりだった。
レオンは驚いたように目を見開いた後、顔をくしゃくしゃにして泣きそうになるベルの頭を不器用に撫でてくれた。
「悪かった。いきなり言われても分からないよな。俺が言いたいのは、一緒に来てくれってことだ。ひどいことはしない。約束する。ベルがここに一人でいるのが心配なんだ」
「……殴らない?」
「殴らない。そんなこと絶対にしない。もしベルにひどいことをする奴がいたら俺が守る」
レオンが断言するものだから、ベルはどぎまぎとしてしまう。誰かに守ってもらうだなんて考えもしなかった。
もじもじと顔を俯けるベルの表情をレオンは少し不安げに覗き込んでくる。
「迷惑だったか?」
「ううん。うれしい」
はにかんだように微笑むと、それを見たレオンは顔を真っ赤にした。
「弱き者を助けるのは当然のことだ。騎士とは、斯くあるべきだからな」
「キシ?」
「ああ、俺は将来騎士になりたいんだ」
そうしてレオンは弾けるような笑顔を見せた。
ベルはそのとき分かったのだ。
彼こそが自分の太陽なのだと。頭の上で素知らぬ顔をする夜空の星々より、ゴミを漁る手元を照らす月明かりより、ずっとずっと強烈な光。
その光の中で生きたいと強く思った。
---
レオンは騎士にはならなかった。
急逝した彼の父親に代わり、アーデン伯爵を名乗り領地を統治する立場となったからだ。
ベルとレオンが出会って十年の時が経っていた。
彼が騎士になりたいと言っていた頃が今となってはベルには懐かしく思える。
連れ帰ったあと、そのまま屋敷に住み着いてしまったベルとの約束をレオンは律儀に守り続けてくれている。
大人になった彼が、出会ったときと同じような笑顔を見せることも、饒舌に話をしてくれることもなくなってしまったけれど、でも。
彼はまだ、ベルの唯一の太陽のままだった。
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