第2話 宿屋の一夜と小さな秘密

酒場の喧騒を後にすると、途端に夜の静けさが二人を包んだ。いや、正確には俺だけか。隣を歩く少年――俺が勝手に「拾い物」と命名したこいつは、まだ少し震えているようだった。


「…あの」

おずおずと、蚊の鳴くような声で話しかけてくる。

「えっと…助けていただいて、ありがとうございます」

「別に。お前のためじゃない。あの悪女(ゼネヴィア)の態度が気に食わなかっただけだ」

俺はぶっきらぼうに答える。実際、それが本音の半分くらいではあった。…残りの半分は、まあ、なんだ。見て見ぬふりができなかった、というだけのことだ。我ながらお人好しが過ぎる。


少年はそれでも、「でも…」と何か言いかけたが、結局口をつぐんでしまった。長い前髪が邪魔で、表情がよく見えないのがもどかしい。


「とりあえず、今夜泊まる場所を探すぞ。お前、宿代くらいは持ってるんだろうな?」

「あ…えっと…」

少年はゴソゴソと自分の擦り切れた服を探るが、出てきたのは埃と、心もとない銅貨が数枚だけだった。

「…これだけ、です」


(…だろうな)

俺は深く、それはもう深海に届くくらい深い溜息をついた。追放されるような奴が、十分な金を持っているわけがない。つまり、宿代も俺持ちか。俺の平穏な一杯が、二杯分くらい遠のいた計算になる。


「…はぁ。仕方ない、今夜だけだぞ」

俺はシルバーヘイブンの裏通りにある、馴染みの…というか、単に一番安いだけの安宿に向かった。ぎしぎしと音を立てる階段を上り、空いていた埃っぽい一室の鍵を受け取る。


部屋に入ると、少年は小さな窓から見える月を、ぼんやりと眺めていた。その横顔は、やはりどこか儚げで、まるで物語に出てくる薄幸の美少年…みたいに見えなくもない。


「おい。座れよ。少し話を聞かせろ」

俺がベッドの縁に腰掛け、促すと、少年はびくりとしてこちらを向き、床にぺたんと正座した。行儀がいいのか、それとも単に椅子に座る習慣がないのか。


「まず、名前は??」

店での会話を思い出そうとするが、騒がしくてよく聞き取れなかった。

「あ…えっと、リアナ、です」

「リアナ? …そうか」

リアナ。少しばかり、可愛らしすぎる響きだ。まあ、名前は関係ない。

「で、リアナ。お前、あのパーティーで何をやってたんだ? 装備もろくにないみたいだが」


俺の問いに、リアナは俯いて、またしどろもどろになった。

「えっと…その、お手伝い、とか…? あとは、皆さんが怪我しないように、お祈り…みたいな…」

「お祈り?」

胡散臭い。そんなもので冒険者の役に立つとは思えない。

「具体的には何だ? どんな魔法を使った?」

「魔法、なのかな…? よく、分からなくて…。でも、私がいると、皆あんまり怪我しないって、最初の頃は…」


話が要領を得ない。本当に何もできないのか、それとも何か隠しているのか。まあ、追放された直後の人間に、根掘り葉掘り聞くのも酷か。


「…まあいい。で、これからどうするつもりだ? 行く当てはあるのか?」

リアナはふるふると首を横に振った。その仕草が、やけに頼りなく見える。

「どこにも…行くところが、ありません…」

その声は、今にも泣き出しそうに震えていた。


(…あー、もう、面倒くさい!)

俺はガシガシと頭を掻いた。行く当てのない子供(に見える)を、このまま放り出すわけにもいかないだろう。かといって、いつまでも面倒を見る義理もない。


「とりあえず、今夜はここで寝ろ。明日、冒険者会館でもう一度相談だ」

俺がそう言うと、リアナは顔を上げ、潤んだアメジスト色の瞳で俺をじっと見つめた。

「…あの、カレブさん…?」

「なんだ?」

「本当に、ありがとうございます…! カレブさんは、私の、命の恩人、です…!」

そう言って、深々と頭を下げた。


(大袈裟なやつだな…)

俺は照れ隠しに、そっぽを向いた。


しばらくすると、リアナは緊張の糸が切れたのか、あるいはよほど疲れていたのか、床に座ったまま、こくり、こくりと舟を漕ぎ始めた。

「おい、寝るならベッドで寝ろ」

声をかけたが、反応がない。すうすうと、穏やかな寝息が聞こえてくる。


(…ったく、無防備なやつめ)

俺は仕方なく、リアナの軽い体を抱え上げ、古びたベッドにそっと横たえた。掛け布団をかけてやると、リアナは安心したように、さらに深く眠りに落ちたようだった。


月明かりが、窓から差し込んでいる。その光に照らされたリアナの寝顔は、驚くほど幼く、そして…どこか神秘的な美しさを湛えていた。長い銀色のまつ毛が、白い頬に影を落としている。


(本当に、ただの少年か…? 何か、妙な感じがする)

胸のあたりが、ざわざわと落ち着かない。これは、厄介事を拾ったことに対する後悔か、それとも…。


俺は首を振り、雑念を追い払った。

(とにかく、こいつも汗臭い。明日はまず、風呂にでも入れてやるか…)


そう考えながら、俺は硬い床に背中を預け、目を閉じた。

まさかその「風呂」が、さらなる衝撃と混乱を俺にもたらすことになるとは、この時の俺はまだ、予想すらしていなかったのである。

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