鬼の迎え、抗えぬ運命

死神が帳面を閉じると同時に、灰色の霧の奥から、何かが近づいてくる気配がした。それは、これまでの静寂を破る、異様なざわめきだった。地を揺るがすような低い唸り声と、金属を引きずるような硬質な音が混じり合っている。


鬼島の全身の毛が逆立った。本能的な恐怖が、彼の思考を麻痺させる。生前の彼は、恐怖を与える側の人間だった。他者の恐怖を糧とし、それを楽しむことさえあった。だが、今、彼自身が、抗いようのない、純粋な恐怖に囚われていた。


霧が割れ、現れたのは、二体の巨大な影だった。それは、鬼、と呼ぶしかない存在だった。青黒い肌は岩のように硬質で、爛々と光る眼は憎悪と飢餓に満ちている。鋭い牙が覗く口からは、硫黄のような臭気を放つ息が漏れ、筋骨隆々とした腕には、錆びた鉄の枷のようなものが嵌められていた。その姿は、おとぎ話に出てくるような滑稽な鬼ではなく、悪夢そのものが具現化したような、圧倒的な恐怖の塊だった。


鬼たちは、一直線に鬼島に向かってきた。その足取りは重く、一歩ごとに地面が微かに震えるようだった。


「ま、待て! なんだ、こいつらは! おい、案内係! 説明しろ!」


鬼島は、思わず後ずさりながら叫んだ。彼の声は恐怖に震え、もはや生前の尊大な態度は微塵も残っていなかった。


死神は、肩をすくめただけだった。その表情は、相変わらず退屈そうで、どこか他人事のようだった。


「ああ、彼らかね。君を『次の場所』へ連れて行ってくれる、まあ、専門の係だよ。我々はあくまで『案内係』だからね。こういう力仕事は、彼らの担当なのさ」


まるで、引越し業者を紹介するような、軽い口調だった。


鬼たちは、鬼島の目の前で立ち止まった。その巨大な体躯が見下ろす圧力に、鬼島は身動き一つ取れなくなった。爛々と光る目が、彼の魂の奥底まで見透かすように、じっと見据えている。


「や、やめろ…来るな…俺は…俺はまだ…!」


鬼島は、意味のない言葉を呟きながら、必死に後退ろうとした。だが、足が鉛のように重く、動かない。


次の瞬間、鬼の一体が、巨大な、節くれだった手を伸ばし、鬼島の腕を鷲掴みにした。万力のような力で締め上げられ、骨がきしむ音が響く。


「ぐあああああっ!」


鬼島は、生まれて初めて上げるような、純粋な苦痛と恐怖の絶叫を上げた。もう一体の鬼も、彼のもう片方の腕を掴む。抵抗しようにも、人間の力では到底敵わない。


「さあ、時間だよ。鬼島君。次の手続きが待っているんでね。あまり、我々を待たせないでくれたまえ」


死神は、まるで遅刻しそうな同僚に声をかけるように、淡々と言った。その声には、微塵の同情も、憐憫もなかった。


鬼たちは、鬼島を引きずるようにして歩き始めた。鬼島は、足をばたつかせ、みっともなく叫び声を上げながら、なすすべもなく引きずられていく。彼の狡猾さも、残忍さも、特別な存在であるという自負も、この圧倒的な暴力の前では、何の役にも立たなかった。

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