褌かつぎのポジティブシンキング

木園 碧雄

褌かつぎのポジティブシンキング

 明治維新の象徴とも言うべき、江戸城の無血開城。

 日本史上最後の征夷大将軍であり最後の徳川家将軍でもある徳川慶喜が、水戸にて謹慎したことにより幕府は事実上瓦解し、新政府軍による江戸攻撃は取りやめとなった。

 計画通りであれば焦土と化したであろう江戸は戦火に巻き込まれることなく、また新政府軍と幕府軍の双方も無駄な犠牲を払わずに済んだことになる。

 その反面、解散しただけで戦力を有したままの幕府側の諸藩や、大阪城攻略に続き今回も壮大な肩透かしをくらった新政府軍の将兵らは、戦意の持っていき場が無く憤懣やるかたない。

 抵抗を望む者は軍を脱走してでも抵抗し、降伏を受け入れられぬ者は近隣へと逃げ、鎮圧すべしと言う者もまた彼等を追った。

 どんな大義名分があろうと、所詮は大名公家同士のくだらぬ権力争い。

 巻き添えは御免とばかりに江戸から近隣諸国へと逃げ出した江戸っ子達からすれば、拍子抜けともありがた迷惑とも言える話である。

 さて。



 時は慶応元年、西暦にして千八百六十五年の夏。

 年が明けてから加わった品川宿の名物に、旅籠屋「岩国屋いわくにや」の喧噪――即ち看板娘、おたみの罵声がある。

「あんた一体、何考えてんのさっ!」

 今日も今日とて、あの小柄で華奢な体のどこから出ているのか――と奉公人たちが不思議がるほどの大音量が、岩国屋の屋内に響き渡り、やや遅れて鬼の如き巨漢が、豆でもぶつけられたかのように大慌てで表通りへと飛び出してきた。

 追い出されたのは、岩国屋の用心棒にして雑役夫、元相撲取りの笹ヶ峰ささがみねこと留吉とめきちである。

 身の丈六尺を超える長身、横に広がるアンコ型ではなく細身に筋肉が付くソップ型なのだが、その体格に見合うだけのあわせは仕立てるのに金も時間もかかるのか、いつも裸に褌とたいして変わらぬ恰好をしている。

 もっとも、この頃は肉体労働者は大抵が衣装に無頓着で、労働により汗をかく駕籠かきなどは、逆に褌一丁が当たり前とまで考えられていた時代である。

「なんだよもう。ああするしかねぇじゃねぇか」

 白い脛が露わになるのも躊躇ためらわず蹴ってくるお民から逃げおおせた留吉は、赤くなった腿や脛をさすりながら、それでも不満顔で文句を言う。

 宿場と言えば、留女と呼ばれる客引き女が、旅人の袖どころか腕や荷物まで引っ張って旅籠に引き込もうとするものだが、岩国屋だけは逆に小娘が大男を蹴り出していると、近所でも笑い話の種にされている。

「また、やらかしたのかい」

 仏頂面の留吉に声を掛けてきたのは、岩国屋の軒下に筵を敷いて座っている、これまた半裸の三十路男。

 坊主頭に背丈はそれほどでもないが、身体つきはがっしりしており、精悍な顔に坊主らしい品の良さや神妙さは微塵も感じられない。

 名を忘月ぼうげつと称し、最近は毎日のように岩国屋の軒下に居座っている願人坊主がんにんぼうずである。

 願人坊主とは、往来で得体のしれぬ読経ないし念仏を唱え、また時として唄や踊りを披露してはお布施と称して見物料をせびる、大道芸人の一種であるが、忘月はそれだけに留まらず、時には頬被りをし、時には禿頭に宗匠帽を乗せ、庶民的なものから知的なものまで様々な芸を見せている。

「お望みとあらば両手の指で琵琶を弾きつつ、両足の指で琴を弾いて御覧に入れましょう」

 坊主に何が出来るんだい、と飛んできた野次に対して、高らかに宣言したこともある。

 結局、誰も琵琶と琴を用意できなかったので、その話はお流れになってしまったのだが、あの時の忘月に焦りや躊躇いの色は全く見えなかったと言って良い。

 大道芸と呼べるものは粗方こなせるようなのだが、念仏や読経を岩国屋の軒下で披露するのは自粛しているらしい。以前一度だけ、本物の坊主の読経と勘違いした岩国屋の主人が、歓迎しようと表へ飛び出してきたことがあるからだ。

「今日は何をやらかした」

「客に頼まれたことをやっただけだよ」

「何を頼まれたんだ」

「前の晩に、明け六つの鐘が鳴ったら発つんで起こしてくれって言われてたんだ。ところが起こしに行ったら、もう少しだけ寝かせてくれと布団から出ようとしないんで、しょうがねぇから布団のまま包んで運んだら、お民に怒られた」

「当たり前だ」

「いや、おかしいだろう。あれが一番正しいだろ、布団から出ようとしないんだからさ。そうなりゃ布団ごと玄関まで運んでやるのが人情ってもんだろうよ」

「どこが人情だい。死んじゃうよ、そんなことしたら」

「死ぬわけないだろう」

「死ぬよ、死ぬ。海外の清国が東晋と呼ばれてた大昔、孝武帝ってぇ向こうの帝様が、妾にそれを長々とやられて殺されてるんだ」

 忘月は、妙なところで学がある。

「おかしいな。俺ぁ新弟子だった頃に稽古の一環でおんなじことをされたけど、コレこの通りピンピンしてるぜ」

「そいつぁ稽古じゃなくていじめだ。お前さんを辞めさせるのが目的の、稽古に見せかけた苛めだよ」

 渋面を作る忘月の、咎めるような言葉を笑い飛ばす留吉。

「馬鹿言うなぃ。あの程度で辞めようとか思うようなら、俺ぁそん時に夜逃げしてらぁな。俺ぁな、修行や稽古が嫌になって相撲辞めたわけじゃねぇんだ。そんなにやわじゃねぇ」

「そういや、前にも言ってたな」

 土佐に生まれた留吉は、唯一好きで続けていた相撲でひと旗揚げたいと家族を説得し、上京してきた。

 両親は両親で、貧しいうえに子沢山で全員を喰わせていくのが難しくなってきたところに、人一倍飯を喰う末子が自ら家を出ると言い出したので、驚きよりも喜びの方が先に出てしまったそうである。

 しかも体格優れ村相撲では大人顔負けの留吉ならば、兄姉たちに比べ少しは出世の見込みもあろうというもの。これを認めぬはずがない。

 意気揚々と江戸に出て、伝手つてを頼って新弟子として修業を始めた留吉は、序ノ口から序二段、三段目、幕下と順調に勝利を重ねながら出世して、国元の地名から「笹ヶ峰」なる四股名まで頂戴したものの、十両まで手が届きかけたところで兄弟子と揉めて廃業した。

 背が高く肉が付きにくいソップ型の留吉が、岩や大木の幹を投げ転がす稽古を続けていた時に、アンコ型の兄弟子から重心の高さと足腰の細さをからかわれ、ついカッとなって大木の幹を投げつけてから大喧嘩になったことが原因である。

 もっとも、この大喧嘩の前から、留吉は人と揉めることが多かった。

 集団生活に馴染めず、腑に落ちぬところは相手の迷惑顧みず問い質し、そのくせ少しでも気にくわぬところがあればすぐヘソを曲げる。

 本来ならば可愛いはず、別れが辛いはずであろう末子の江戸出立を、両親が手放しで喜んだ理由の一つが、家族の言うことを聞かないこの性格にあったのかもしれない。

 放逐同然に相撲を廃業し、何度も職を変えながら糊塗を凌いでいた留吉が辿り着いたのが、品川の岩国屋である。

 無銭飲食と詫び料目当てに難癖をつけてきた旅装束の無頼を相手に、中身入りの四斗樽を頭上高く抱え上げて脅しつけ、追い払ったことが縁の始まりだった。

 留吉としては、難癖をつけていた無頼の態度が気にくわなかったのと、やたらと腹が減っていたのとでむしゃくしゃしてやっただけに過ぎなかったのだが、頼りの役人が到着せず難儀していた主人の岩国屋徳兵衛いわくにやとくべえは、剛力の助勢に感動し、飯を喰わせてくれたうえ、先程の無頼が意趣返しに来るやもしれぬと、留吉の雇い入れを提案してきた。

 飯を喰わせてくれた恩もあるし、稼ぎ口にも困っていた留吉にとっては、まさに渡りに船である。

 以来、半年が経ち留吉は二十歳を迎えていた。

「ちょいと、若旦那!」

 留吉は、鉄砲玉のような勢いで岩国屋から飛び出してきた若旦那、竹次郎たけじろうを呼び止めた。

「出かけるんなら、行き先をおいらに伝えてくださいな。嫌ですぜ、旦那の言いつけで見当違いのとこを歩き回るのは」

 立ち止まり振り向いた竹次郎は、歳が二十一と留吉の一つ上。

 縞の小袖に白練の帯と、身なりは良いが線が細げで頼りなく、勝ち気を母親の腹に置き忘れたまま妹が生まれてきた――と揶揄やゆされるほど気が弱い。

 父の仕事の手伝いもせず、触らぬ神に祟りなし――とばかりに、妹の勘気から逃れるように岩国屋を飛び出しては、彼方此方あちらこちらで遊び回っている、という有り様。

 お民のように直接罵声を飛ばしてくることは無いが、そうかといって格別仲が良いというわけでもない、いたって薄い主従関係である。

「浅草っ! 浅草行ってくるから!」

「お嬢にお土産買ってくんの、忘れないでくださいよっ! そいつがあるかないかで、おいらが蹴とばされる数が変わってくるんですから!」

「あいよっ! 留吉さんこそ、またヘソ曲げて騒ぎを起こすんじゃないよっ!」

 余計なお世話だと言い返そうとはしたものの時既に遅く、竹次郎の姿は遠く離れて米粒程度になっていた。

 留吉には、協調性というものがまるで無い。

 しかも、すぐカッとなって手を出してしまう。

 それ故、相撲取り時代はもちろん大工や鳶職、力者といった集団社会には馴染めず、また物売りを始めてもその図体をからかわれては暴力沙汰を起こす。

 いざ岩国屋に雇われたものの、駕籠かきですら相棒と揉めていた留吉に客の応接など出来るはずもなく、図体で脅す用心棒か力仕事の雑役夫ぐらいしか仕事を任せられない。

 多少なりとも後悔する岩国屋であるが、向こうっ気の強い娘お民の鋭鋒が留吉に集中することで自分と竹次郎への被害が減っていることも事実であり、済まないと思いつつも半ば放置している。

 お民にしても、亡き母の代わりとして岩国屋を支えていこうという健気さが強情に繋がっていると思えば、強く叱りつけるわけにもいかない。

 竹次郎の背中を見送った留吉の口から、トトントントン――と太鼓を真似た呟きの後に、朗々とした唄声うたごえが流れ出る。


 はぁ どすこい どすこい

 花を集めて 甚句じんくにとけばぁよぉ

 ははぁん

 正月ぅことほぐ福寿草ぅぅおぅ

 二月に咲くのがぁ梅の花

 三月桜やぁ四月藤ぃぃ

 五月あやめにぃ かきつばたぁ

 はぁ どすこい どすこい


「また相撲甚句かい」

 ちょっと呆れたかのように、忘月が呟いた。

 相撲甚句とは、興行開始前に相撲取り――力士たちが土俵上で輪になり、一人が唄い上げながら周りが「はあ、どすこい、どすこい」と合いの手を入れる、七五の歌である。

 留吉も笹ヶ峰だった頃は何度か唄わされており、歌詞は粗方頭に入っている。

 留吉は、この相撲甚句と独り相撲の大道芸で稼ごうとしたこともある。

 相撲のひと勝負を、二人の力士と行事で合わせて三人分の物真似で表現する独り相撲は、実際に相撲を取った経験のある留吉にはうってつけの見世物芸と思われたのだが、それに「待った」をかけたのが忘月である。

「おめぇ、香具師やしじゃねぇだろう。香具師の元締めに話をつけてねぇんなら止めときな。因縁つけられてからの袋叩きが待ってるぜ」

 その時の恩を着せているのか、はたまたお民に蹴られる留吉を面白がっているのか、ここしばらくの忘月は、岩国屋の軒下を根城にしたも同然の生活を続けている。

「ここは、言うなれば西側諸国にとって江戸の入り口だからな。一見さんの多い場所ならば、儂のつたない芸もきられずに見てもらえるってぇ寸法よ」

 もし岩国屋の旦那から追い払えと命じられたら、儂を追い払うかい。

 冗談めかして尋ねてきた忘月に、しかし留吉は被りを振った。

「友達は追い払えねぇ。俺が岩国屋を出るだけだ」

「友達ねぇ」

 その時は皮肉めいた笑みを浮かべていた忘月が、思い出したかのように呟く。

「そういえば、西欧では友人のことをフレンド、と呼ぶらしいな」

「言い辛そうだな」

「儂には友が沢山おる。数え上げたら百を超えるだろうな」

「そんなにいるのか」

「こいつらだ」

 筵に尻を据えたまま、忘月が頭上に掲げた左拳に止まる漆黒。

 烏。

 忘月は、飼い慣らした烏を使った大道芸を披露することもある。

 軽く肘を曲げ、強く伸ばした忘月の拳から、勢いよく解き放たれる烏。

 その飛び立つ方角を仰ぎ見ながら呟く忘月。

「西……か」

「そういや、二度目の征長ってもう終わったのかね」

「馬鹿、まだ始まってもいねぇやな」

「どうせ御公儀が勝つに決まってるけどな」

「どうして、そう言える」

「前回も勝ったじゃねぇか。あれからまだ半年しか経ってねぇ。一度ついた負け癖とガキの寝小便は、そう簡単には治らねぇぞ」

 長州毛利家と将軍家が京で大きな諍いを起こし、朝廷からも討伐の命が下った長州に兵が派遣され、家老三人の首で決着がついたのが、僅か半年前の話である。

「さすがに今度は、家老の首だけじゃ済まねぇだろうな。大名様の切腹なんて、前代未聞じゃないかね」

「そう簡単に事が運ぶかどうか、怪しいもんだな。案外、油断してたら足元をすくわれるかもしれんぞ」

 あくまでも楽観視する留吉とは対照的に、忘月は懐疑的だ。

「そもそも、前回は両軍ともまともにぶつかってねぇんだ。相撲で言うなら、はっけよいの声が掛かる前に勝敗が決まったようなもんだぜ」

「そうなのか?」

「そうだよ。だから、どちらが強いかなんて、まだはっきりとわかっちゃいねぇんだ。これで長州が勝ってみろ。永きに渡る将軍家の御威光も衰えたり――ってなもんで、北から南から、力のある大名が打倒徳川の名乗りを挙げて、江戸に向かってくるかもしれねぇぞ」

「忘月、おっかねぇこと言うなよ」

「江戸も安全とは言えねぇってことさ。忘れたかい、御殿山に建てられてた公使館の焼き打ち事件」

「ああ、外国の」

英吉利えげれすだ。あれを仕掛けたのも長州の連中って話じゃねぇか。長州だけじゃねぇ。今のお江戸は、公儀の政に楯突く奴らが、手には刀で懐には火打ち石と、いつ寝首を搔こうか隙を窺いながら歩き回ってるようなもんだ」

「まあ、こういう時だからこそ名の挙げようもあるってもんだわな」

 ふふん、と胸を張る留吉に、忘月は心底から羨ましげな声を上げる。

「そりゃ、おめぇはなぁ。そういう暴漢どもがたむろしてりゃ、この岩国屋を物騒な連中から護ってやってるんだと威張っていられるんだからな」

 確かに、元相撲取りであると一目でわかる銀杏髷いちょうまげと巨躯の持ち主である留吉は、その存在だけでも十分な威圧となり、時には難癖をつけてくる無頼相手に、かつての得意技を披露することもしばしばである。

 しかし――

「そうじゃねぇんだよ、忘月。旦那や若旦那にゃまだ秘密なんだが……こんな世の中だ、俺ぁひと旗揚げたいと思っているんだ」

 ひぇっ、と忘月は頓狂とんきょうな声を上げた。

「なんだよ、仕官して兵にでもなるつもりかい」

「いんや。俺にゃ軍隊の堅苦しい生活なんぞ出来っこねぇってことぐらい、俺自身がよぉくわかっているさ。俺は、侠客になりたい」

 きょおぉかくぅうぅ――と、また頓狂な声を上げる忘月。

「おうよ。侠客なら多少のヘソ曲がりは通るだろうし、侠客の喧嘩は戦と違って飛び道具を使わねぇそうじゃねぇか。力と力なら、人より自信がある。俺なら、大親分になるだけの資質があると思うんだ」

「と、留吉っつぁんよ。おめぇ簡単に言うけどよ、大親分ってのがどんなもんか、ちゃんとわかってんのかぃ」

「おうよ。平時は賭場の畳敷きにふんぞり返り、常に義理と人情を重んじて、いざってぇ時にゃ号令一下、大勢の子分を引き連れ鉄火場で暴れ回り、界隈にその名を轟かすような連中だろうよ」

「おめぇ辻講釈に入れ込み過ぎたな、現実はそんなに甘かぁねぇぞ」

「なんだとっ!」

 留吉と忘月の付き合いが長い理由は、もう一つある。

 どういうわけか、この願人坊主は、留吉が掴みかかろうとした時には既に手が届かない場所にまで逃げおおせているのだ。

「まあ、お前さんがホントの本気でそう思っているのなら、手伝ってやれんでもない」

 今回も、いつの間にか岩国屋の軒に逃げていたらしい忘月の声が、天啓の如く留吉の脳天に突き刺さる。

「儂もこの界隈で長く暮らす男だ、親分さんに知り合いがいないわけでもない。どうだ、紹介してやろうか」




「あんたが、忘月の言っていた笹ヶ峰、いや留吉さんかい」

 当たりも当たり、大当たりである。

 相政あいまさこと相模屋政五郎さがみやまさごろう

 齢は五十を超えた老域に差し掛かっているにもかかわらず髪は黒々としており、東大寺に並び立つ広目天の如き渋面しぶづらのまま、煙草盆の前で銀煙管を吹かしている。

 相模屋を訪れた留吉の恰好は、さすがに裸同然の普段着とは異なり、一張羅とも言える紺の袷の着流し姿。

 それでも丈が短いので、夏向けの浴衣にしか見えず、下も半股引を履いているものの、ちょっとしゃがんだだけで尻の辺りが音を立てて裂けそうですらある。

「まあ、入んねえ」

 奥座敷の向こう側から手招きされた留吉は、政五郎の誘いに応じる代わりに、図体を屈め片手を斜め下に突き出す。

「陰ながら親分さん御免なんせ。向かいましたる上さんと今日初めてのお目通りでござんす。手前、土佐は笹ヶ峰の麓流れる加茂川の産湯を使い、今現在は品川のしがなき旅籠をねぐらとしております、力士崩れの留吉と発する、しがなき者にござんす。後日にお見知り置かれ行末万端御昵懇ゆくすえばんたんごじっこんに願います」

 自分なりに侠客らしさを演出して見せようと、数日前から知恵を振り絞って練り上げた留吉の仁義に、しかし政五郎は鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情を見せてから、すぐに何事かを思い出したかのように苦笑する。

「まさか、こんな場所でそんな古めかしい仁義を聞かされるたぁなぁ。まあ、ここは出入りの場じゃねぇんだ。しがない口入れ屋の奥座敷なんだからさ、そうかしこまっていられたら、こっちが困っちまうよ」

 いいから入んな、と手招きする政五郎に、表情を強張らせたまま、へぇと鼻息のような声を出してから、身を屈めて鴨居をくぐる留吉。

 まあ座んなと言われ、留吉は遠慮がちに正座する。

「そんな、親分から盃を頂戴するような身じゃござんせん」

 留吉からすれば身を弁えた正しい断り方のつもりなのだが、その態度に政五郎はかえってやり辛そうな顔をする。

「さてと、あんた忘月さんの紹介だったね。あの坊さんは、得体が知れないのに妙なところで役に立つから重宝しているんだが、まさか人を紹介されるとはねぇ」

 得体が知れないというのは、忘月に対して留吉が抱いている印象と一致している。

 相模屋政五郎の本業は、仕事の斡旋を行う口入れ屋である。

 日本橋に居を構え、子分の数は千三百とまで言われる大物であり、留吉の生地である土佐の領主である山内家から火事の際の指導力を評価され、今は山内家江戸屋敷の火消し頭にもなっている。

 の侠客になる為、親分衆の傘下に加わりたい。

 そう考えてはいた留吉であったが、彼が知る限りの大親分――清水の次郎長や駿河の文吉らの拠点は、江戸から離れすぎている。江戸を拠点とする新門の辰五郎は、評判が宜しくない。

 どうしたものかと思案に暮れていた留吉にとって、相模屋政五郎はうってつけの存在でありながら、同時に縁も伝手も無いという理由で盲点になっていた大親分でもあった。

「まあ、あんたのことは、まんざら知らなかったわけでもねぇ」

「えっ」

 その、雲の上の人物とも言うべき相模屋政五郎の口から出た意外な言葉に、留吉は目を丸くし頓狂な声を上げる。

「俺ぁ山内家江戸屋敷の火消し頭を勤めているんだ。十両手前まで昇進した相撲取りが、地元でその名を知られぬはずがねぇだろうさ。江戸屋敷の連中なら、大抵その笹ヶ峰って四股名は知ってらぁ」

「なるほど」

 平静を装いながら答えたものの、留吉の腹の中は、稀代の大親分が自分の名を知っていたことへの喜びと、意外なところで自分の四股名が知られていたことへの驚きが、土俵の上でがっぷり四つに組み合っていた。

「あんたが廃業したと聞いて、屋敷の連中は皆がっかりしてたんだよ」

 なんだか叱られたような気がして、留吉ははなはだ居心地が悪い。

「忘月の話じゃ、やくざになりたがっているそうじゃねぇか」

「やくざじゃござんせん、侠客でさぁ」

「言われる側からすりゃ、たいした違いはござんせんや」

 そういうものだろうか、と留吉は内心で首を傾げる。

「だがねぇ。その若さと膂力りょりょくで侠客とやらの道を選ぶのは、いかにも惜しい。あんたはそう思わねぇ、いや気づいてねぇのかもしれねぇが、土俵で大男を投げ飛ばすだけの力がありゃ、喰うに困らねぇだろうに。なんならウチで紹介してやってもいいんだぜ」

「親分さん、そいつぁさすがに御勘弁ください」

 本業故か、他の仕事を勧めてくる政五郎だが、留吉は両手を合わせて拝み倒すような姿勢で頭を下げる。ここで話を合わせて侠客になれなかったのでは、全てが水の泡である。

「しかしねぇ……お前さん、本当にやくざなんてもんになりたいのかい?」

 それまで、留吉の愚直な態度に苦笑いを浮かべていた政五郎の顔つきが、神妙なものに変わる。

「どうなんだい」

「当たり前でさぁ」

 それまで米搗こめつきバッタの如くひれ伏していた留吉だったが、やにわに半身を起こすと、分厚い胸板を己が拳でどんと叩く。

「あっしみてぇな力自慢のはぐれ者は、そういう道でしか生きていけねぇだろうし、力を活かせませんからな」

「そうは思えないがねぇ」

 何気ないひと言が、例によって留吉の強情に火を点ける。

「お言葉ですがね、この歳で十両にもなれずに相撲を捨てたあっしが選べる正道なんて、たかが知れてまさぁ。人にいいようにこき使われ、力奮わなくなるまで安い手間賃で暮らしを支え、痩せ衰えたら見向きもされない。そいつぁあまりにも惨めってもんだ。それに比べて任侠を御覧なせぇ。笹川の繁蔵しげぞうに子分の勢力せこ富五郎、さらには駿河の文吉は、任侠の道に入るまではどうだったか。あっしと同じ、土俵の上で力を振るっていた相撲取りだ。ならば、あっしにとっちゃひと筋の光明だ。他人に見下されながら生きるより、他人に怖れられながら生きていこうと決心するのに、なんのとがめもありゃしねぇじゃござんせんか」

「それじゃあ、その御三家のとこで下駄を預けりゃいいじゃねぇか。同じ元相撲取り同士なら話も合うだろうさ。なんだって俺みてぇな、しけた野郎のとこへ顔を出すんだい」

「こいつぁ、親分とは思えねぇ冗談だ。繁蔵や富五郎は、縄張り争いで三途の川の向こう岸。文吉は駿河の山奥から顔を出そうともしねぇじゃござんせんか。どうやって会いに行けばよいものやら」

「それで、俺か。高く見られているのか低く見られているのか、わかんねぇな」

 少なくとも、相模屋政五郎はきょうとして本物だと、留吉は考えている。この男の後見ならば、大親分にはなれなくとも、の人物として世間に認められるには十分であろう。

「しかしねぇ、笹ヶ峰関――いや留吉さん」

 銀煙管で煙草を呑んでいた政五郎は、煙草の縁を叩いて灰を落とす。

「なろうと思えばなれるもんだが、の人物になれるかどうかはまた別の話なんだよ、侠客なんてもんは」

 空になった火皿に新たな刻み煙草を詰めつつ、留吉が一方的に押しかけて来た本音を見透かしたかのように諭す政五郎。

「おめぇさんは俺について碌に知らねぇんだろうが、俺はおめぇさんについての噂をいくつか聞いてんだ。その噂通りなら、言っちゃあ悪いが侠の道なんて、とてもとてもだい」

「どういう類の噂ですかい」

「兄弟子と喧嘩して自分から身勝手に相撲を辞めちまったとか、就く仕事就く仕事軒並み人と揉めて辞めちまったとか、そういう噂ばっかりよ」

 うっ――とたじろぐ留吉に、政五郎は見当違いの質問を浴びせる。

「おめぇさん、丈はいくつだい」

「六尺と一寸でさぁ。まあ測ったのが、まわしを締めた時なんで、もう少し伸びてるかもしれやせんが」

「聞けば駕籠かきもやっていたそうじゃねぇか。そいつの丈は」

「ええと、五尺ぐらいですかね」

「儲からなかったろう」

 他人事のように――他人事なのだが――笑いながら人の傷をえぐってくる政五郎だが、留吉は抉られたことに気づかず驚嘆の声を上げる。

「よくご存じで」

「あたぼうよ。背丈にそんな差があったんじゃ、担いだ駕籠が傾いちまわぁ。誰が身銭出してまで乗りたがるかい、そんなもん」

「あっ」

 言われてみれば、確かに政五郎の言う通りである。

 自分は前で担いでいたせいもあるだろう、その事実には気づかなかった。

「相方は気づいていたのかもしれないが、大方おめぇさんが怖くて言い出せなかったんだろうぜ。その相方、いつも何か言いたそうだったんじゃねぇかい」

 思い返せば、確かにそんな節はある。

「目上の人間にゃいちいち噛みつき、同格や下の連中には有無を言わせねぇ。そんな強情じゃ、世渡りが下手くそで当然だぁな」

「いや、任侠というものはそういうもんでしょうよ、力でねじ伏せるもんでしょうよ。だから俺は」

「馬鹿言っちゃいけねぇや」

 新たに火を点けた煙管を口から離し、政五郎は渋面を作る。

「任侠の世界だって同じ、いやむしろ堅気の世界より厳しいんだぜ。上下関係どころか縦横無尽に気を使わねぇことにゃ、あっという間に磨り潰されちまう。カッとなって兄弟子と喧嘩なんて、任侠の世界でやらかしたら、それこそ死人が出らぁな」

 そういうもんかと腹を立てながら聞いていた留吉だが、ふとある疑問が浮かび上がる。

「親分、ちょいと待った。あっしが兄弟子と喧嘩して相撲を辞めたってことは、忘月にもしゃべっていないんだ。一体、誰に聞いたんですかい」

「おめぇさんが今しがた口にしていた、駿河の文吉さ」

 意外なところで、意外な名が出てきたものである。

「親分、駿河の文吉に逢ったことがあるんですかい」

「あたぼうよ。文吉のやつぁ江戸で相撲が行われるたびに観戦に来るんだが、いつも俺んとこに顔を出すんだ。知らねぇでどうする」

 留吉は、文吉が相撲取りだったという過去こそ知っていたが、今も相撲を愛好し観戦までするとは思っていなかったし、政五郎の元を訪れているとは夢にも思っていなかった。

 侠客だの親分だのというのは、そんな気軽な付き合いがあるものなのか。互いの縄張りで揉め、力と力でぶつかり合うのが日常茶飯事ではないのか。

「任侠の世界にも、いや任侠の世界だからこそ、尚更人と協力したり足並みを揃えたりするもんさ。親分だから、気にくわないから、そんな理由でやらないなんて我儘言ってられねぇやな。てめぇの下に集まってくる子分どもを、責任もって喰わせてやらねぇと、他の親分格や子分たちから舐められ、見捨てられちまうんだぜ」

「そういう、もんですかい」

 問うてから返答を待つ留吉の前で、わざと焦らすように煙管を吸い、煙を吐く政五郎。

「そういうもんだよ。留吉さんや、腕っぷしだけで生きていこうなんて肚積もりなら……悪わりぃこたぁ言わねぇ、頭を下げて相撲の道に戻った方が良う御座ござんす。誰にも縛られず自由に生きていたいと仰るのであれば、今すぐ江戸を離れて野に帰ることをお勧めいたしやす」

「でもよ、親分。新門の辰五郎を知っていなさるでしょう。あいつぁ目上の者にも幅を利かせ、手下子分はもちろん同格の者まで脅して顎でこき使ってるじゃねぇか。あいつは侠じゃねぇんですかい」

 言い返したつもりではあるが、なんの反論にもならぬことぐらい、留吉にも自覚はある。

 辰五郎が権勢を誇っていられるのは、本人の度胸と腕っぷしだけが理由ではない。己の娘を、一橋様こと水戸の一橋慶喜公に妾として差し出し、その御威光を笠に着て好き放題やっているようなものである。

 案の定、咎めるような政五郎の声が返ってくる。

「あんな野郎みてぇに生きたいんですかい」

 真っ平御免である。

 留吉が、新門の辰五郎の本拠へ向かわなかった理由は、他にもある。

 相模屋政五郎の本業が口入れ屋であるのと同様に、彦五郎もまた、火消しを本業としている。

 六十年ほど前の話になるが、町火消しの「め組」と木戸銭の払いで喧嘩になり、それ以来双方の仲は改善されないままとなっている。

 廃業したとはいえ、留吉が町火消しの手下になることはあり得ないし、辰五郎の方でも留吉を一家に加える気になるのかどうか、甚だ怪しい。

「任侠の道なんてもんは、正道を通ろうとすればするほど、余計に厳しくなるもんなんでさ。あっしみてぇな立場のもんだって、時には直接関わり合いのねぇイザコザを丸く収める為に、文字通り身を切るような思いをしねぇといけないんですぜ」

 煙草を呑み終えた政五郎は、灰を捨て煙管を収めた煙草盆を部屋の炭へと押しやると、穏やかな笑顔を作りながら己の左手の甲を顔の高さまで持ち上げた。

 それを見た留吉は、あっと声を上げる。

 在るべきものが、

「御覧の通り、あっしの左手の小指は半分から先が無ぇ。訳は簡単。わけぇ時、酒の席での揉め事を収める為に、自分で切り落としたんでさぁ。留吉さん、短気は損気なんてぇ言葉は、任侠にこそ効くもんだ。あんたがこの道を選んだところで後悔するだけだぜ」

 長年の習慣だろう。政五郎はその左手を己の腹に当て、覆い被せるように右手を当てる。

「あんたに同じことが出来ますかい。それだけの覚悟がありますかい」

「あるっ!」

 面食らいながらも、留吉は即答した。

 本心である。ここだけは、絶対に譲ってはいけない。

「強情だなぁ。忘月の野郎が頼み込んできたのは、どうにかしてあんたに侠客への道を諦めさせるのが本当の目的だったんだが……成程こいつぁ聞きしに勝る強情だ。材木に例えるなら、東大寺の大黒柱並みの強情だ」

(忘月め、友だちと思っていたのに裏切ったか)

 怒りを露わにする留吉を、なだめるように説き伏せようとする政五郎。

「あっしも、忘月が正しいと思うがね。留吉さん、あんたにゃまだまだやるべきことがあるはずだ。それにねぇ……あっしの私見だがね、悪いがあんたにゃ、任侠の世界で生き抜くだけの度胸は無いと見た」

 無遠慮なひと言が、鎮まりかけていた留吉の怒りを再燃させる。

「そいつぁ、いくら親分さんでも聞き捨てならねぇな。一体、どこをどう見たら、俺に度胸が無いなんて言えるんだい」

「それじゃあ聞くがね、留吉さん」

 言葉を止めた政五郎は、やおら立ち上がって留吉に背を向けると、床の間の刀掛から白鞘ひと振りを手にして振り返る。

「こいつぁ孫六兼元まごろくかねもとでさぁ。御存知ですかい、関の孫六」

 留吉が答えないのを浅学の証と受け取ったのか、ゆっくりと歩み寄りながら解説を始める政五郎。

「今と違って、大名同士が足軽を率いて殺し合いをやっていた時代に作られた刀。つまり正真正銘の、本当に人を殺す為だけに造られた刀でござんす。有名な大名家に転々と仕えながら、最後は徳川家に仕えたという青木某は、敵将をこの孫六で一刀両断したって話ですぜ」

 語りながら、一尺五寸の白鞘を水平に構える。

「これが、だ」

 呟いた刹那――ぱっと白鞘から解き放された刀身が、留吉の眼前にぐいと突きつけられる。

「ひっ!」

「どぉでぇ……おめぇ、これでも啖呵たんかが切れるってぇのかいっ!」

 それまでの、物分かりの良さそうな容貌から一変し、悪鬼の如き形相と化した政五郎。

 しかし彼の豹変ぶりよりも、初めて間近で目の当たりにした白刃が放つ、ギラギラした鈍い輝きに圧倒された留吉には、掴みかかる体力はおろか言い返す気力も無い。

「俺たちぁ目の前で子分、いや仲間が殺されてもこいつを振り回し、かたきに刃向かわなきゃいけねぇんだ。おめぇ如きに、その覚悟があんのかいっ!」

 ある――という言葉が出て来ない。

 それどころか、無いとすら言えない。

 刀とは、こんなに恐ろしいものだったのか。

 その刀を押しつけられただけで腰を抜かしてしまう、自分はこんなにも弱く情けない生き物だったのか。

 留吉は、自分の全てが情けなかった。

「わかっただろう」

 刀身を白鞘に納めた政五郎の顔つきは、気風きっぷの良い江戸っ子のそれに戻っていた。

「いくら力があろう稽古して鍛え上げようが、修羅場でビビっちまうような腰抜けはいらねぇ。まぁ性根を入れ替えて、真っ当な仕事に就いてくださいよ、留吉さん」




 風雲急を告げるという言葉は、幕末の江戸を表現するのに最も適している。

 半分脅しとはいえ、雲の上の存在とも言うべき相模屋政五郎から説教され、何より白刃を前に震え上がってしまったという現実を受け入れた留吉は、侠客の道を断念し、また強情一辺倒であった自分を見つめ直し、膂力だけではどうにもならぬことがあると認めた。

 岩国屋には転職の話をせず、恩人に会いに行くと嘘を吐いていたのが幸いし、戻ってきた留吉を質す者も咎める者もなく、それまで通りの生活を続けていた。

 唯一事情を知っていた忘月に対しても、同じである。事前に侠客への道を断念させるよう頼み込んでいたことへの怒りも、今となってはその慧眼に頷くばかりでしかない。

「どうだったい」

「俺にゃ無理だな。とても務まらねぇ」

 ふぅ、と大きなため息を吐いてから、さばさばとした表情で答える留吉。

 それからの留吉は、別人のようにおとなしくなった。

 へそ曲がりは変わらぬものの、人の言うことには従い、腹が立ったからといって暴れ回るようなこともすっかり減った。

 しかし同時に、留吉は将来に対する不安を抱くようにもなった。

 このまま岩国屋の用心棒として、あるいは力以外に取り柄のない奉公人として、言われるがまま使われるままの無聊ぶりょうな日々を送っていて良いものであろうか。

 侠客に代わる新たな道を模索すべきではないのか。このまま暮らし続けるべきなのか。

 しかし斯様かような留吉の成長などお構いなしに、時代の流れは変転する。

 成功間違いなしと謳われていた二度目の長州征伐に失敗。それどころか返り討ちに遭った公儀が功なく江戸に帰還したことで、品川宿を含めた江戸界隈は騒然とする。

「なんで負けたんだろうなぁ」

 用心棒として、岩国屋の軒下で腕組みしながら、あまり賢くない頭で考える留吉に、隣で銭を数える忘月は事も無げに答えた。

「そりゃあ、将軍様が大阪城でお亡くなりあそばしたからに決まってらぁな。全ての兵を統率する大将軍様が急にいなくなったんじゃ、将兵だって何を基準にどう動けばいいのか、わからなくなっちまうだろうよ」

 もっとも――と忘月は付け加える。

「将軍様……家茂公があのまま生きていたとしても、勝敗はどうなっていたことか。長州には高杉晋作ってぇ戦上手がいるし、彼我の装備も雲泥の差だ」

「どっちも槍と刀と鉄砲じゃねぇのか」

「その鉄砲の性能が違うんだよ。将軍家の兵が持っている鉄砲の弾が届かない距離でも、長州側の鉄砲の弾は届くんだそうだ。なんでも海外から仕入れた最新型らしいぜ」

「長州に、外国から鉄砲を買うだけの金と力があったのか」

「金は薩摩が用意したという噂もあるし、亀山社中って連中が鉄砲を運んでいるってぇ話も聞く。とかく油断ならねえ、まさに一寸先は闇ってぇ世の中になっちまったなぁ」

 江戸にいるのが不安になってしまったのだろうか。

 その日を境に、忘月の姿は忽然と消えてしまった。

 さらに――大政奉還という留吉にはよくわからない儀式で――まつりごとが徳川の手を離れることが決まる前に、徳川と手を切った薩摩が長州と合体。

 これに土佐が加わり、朝廷からのみことのりとやらを受けて討幕の為に東進を始めた。

 徳川家はまたしても大阪城を拠点とし、これを迎え撃ったはずが、何故か戦場に将兵を残したまま将軍慶喜公とその近侍きんじだけが帰還した。

 その大阪での開戦前、薩摩藩士らが無頼を率いて江戸の富豪を次々と襲っていることを、留吉は噂話や瓦版で知った。

 以前の彼ならば、血気に逸って薩摩島津の江戸屋敷に乗り込んでいただろうが、それをやってしまえば岩国屋に迷惑が掛かる――と思い止まる程度の思慮分別がつく今となっては、絵空事として胸中に仕舞い込むだけで済ませていた。

 また、説教されたものの何かと面倒を見てくれて昵懇になっていた相模屋政五郎は、勤王派と言える土佐山内家の火消頭であり、下手に騒動を起こせば彼にも迷惑が掛かるかもしれない――という遠慮が、留吉の自重にひと役買っていた。

 長州征伐失敗に続く、よもやの敗戦と、これから東進してくるであろう薩長――新政府軍の脅威に狼狽える江戸っ子たちの間から、「次の戦場は江戸になるかもしれぬ」という類の噂が流れるようになると、意地も気骨もどこへやらと、早くも江戸から逃げ出す者が現れる始末。

 国元が土佐である留吉は、よもや郷里が将軍家に刃向かうとは――と驚愕しつつ相模屋を訪ねてみたものの、大阪から逃げ戻って狼藉を繰り返す旗本らの鎮撫に追われる政五郎には、自宅に戻る暇もないらしい。

 さらに追い打ちをかけるように、将軍家の象徴とも言うべき江戸城が無血開城され、将軍家が降伏するという噂が流れた。

 薩摩も長州も、元はといえば江戸に屋敷を構える身だ。無血開城ならば手荒なことはされまいと、庶民たちの間からは安堵の雰囲気すら漏れだしたが、これに反対したのが抗戦派の兵士たちだ。

 もはや慶喜公に従ってはおれぬ、江戸は我々が守らねばならぬが資金が足りぬ、という名目で、次々と兵舎を脱走しては江戸中を荒らし回っていた。

 それでなくとも戦火によりめっきり客が減り、商売が成り立たなくなりつつあったのが岩国屋である。これを機会と、江戸に対する未練と執着の一切を捨て、主人一家は安房あわ仁我浦にかほ村へと疎開することにした。

 家財は粗方売り払って資金とし、奉公人たちには退職金を手渡して見送った、岩国屋徳兵衛と家族たち。

 残るは徳兵衛に竹次郎、お民の三人と、彼らを乗せる大八車、それを牽く為に同行する留吉だけである。

「すまないねぇ、留吉っつぁん。私が馬を用意できなかったばっかりに」

「何を仰いますかい、御主人。こういう時の為のあっしでさぁ」

 相撲取りを廃業した以上、二度と土佐には戻れない留吉からすれば、牛馬代わりの車引きであろうと疎開に同行できるのは、願ってもない好機である。安房まで逃げ切ったら岩国屋と別れ、戦が終わるまで山野さんやにでも隠れ住んでいれば、何とかなるだろう。

 用意された大八車は三畳四輪の大型。

 荷を積んだ状態ならば、人間が二人掛かり三人掛かりでなければ動かせない代物であるが、留吉はこれを一人で軽々と牽く。

 前日のうちに男衆総出で底板に打ち付けた革紐は、速度を上げた際に乗っている者が振り落とされぬよう掴み、あるいは身体に巻きつける為のものである。

「おぅ、岩国屋」

 その大八車に乗り込もうとした徳兵衛を呼び止める声。

 振り返ると、半被はっぴ半股引はんももひきの無頼が二人、こちらへと歩いてくる。

「なんでぇ、夜逃げかい」

 少なくとも、相模屋政五郎傘下の者ではない。留吉の勤め先である岩国屋には関わらぬようにと、政五郎から言いつけられているはずである。

「いえ、旅人も少なく商売上がったりになったものですから、しばらく江戸を離れようと思いましてね」

「なんでぇ。そんなら俺たちが、この旅籠の留守番してやろうじゃねぇか。この場で五両ずつ、戻ってきたら二両ずつでどうだい」

「いえ、留守番は結構でございますので」

「それじゃあ通行料だ。一人につき十両で車も十両、合わせて五十両寄越さねぇと、ここは通せねぇな」

 実にわかりやすい強請ゆすりである。

 代わりに留吉が前へ出た。

「御主人、こういう手合いをまともに相手しちゃいけませんよ。きりがねぇ」

「おい、牛がしゃべったぜ。珍しい牛だな」

「そうかい」

 笑う無頼の片方を張り倒し、あっと驚く相方に上から覆い被さって角帯を掴むや否や、えいやと掛け声荒く上下逆さに抱え上げ、肩の高さで二、三度揺さぶってから、張り倒され転がっている無頼の上に、どさりと投げ落とす。

「それじゃあ留守番頼むぜ。戻ってきた時に傷一つでも付いていようもんなら、この程度じゃ済まされないと覚悟しときな」

 久方ぶりに暴れて清々した留吉は、両手をぽんぽんと軽く叩いてから、何事も無かったかのように大八車の支木に手を掛ける。

「皆さん乗り込みましたね。あっしが走っている時にしゃべっちゃいけませんよ、舌ぁ噛みますからね」

「そんな時が来ないことを祈るよ」

 竹次郎の心細げな呟きを合図として、岩国屋の大八車は出発する。

「おとっつぁん」

 不安を抱えた旅路で、最初に口を開いたのは、お民だった。

「その仁我浦村に住んでる伯母さんって、あたしたちのこと受け入れてくれるかしら」

 年を経て勝ち気も収まり、すっかり年頃の娘らしくなったお民も、やはり長年住み続けた実家を離れるのは不安らしい。

「心配いらんよ。儂の姉の嫁ぎ先は、仁我浦村の村長なんだ。つまり儂らは、村で一番偉い人間の身内なんだよ。邪険に扱われることはあるまいて」

「それより、江戸を出るまでが大変だよ。近頃じゃ薩長の密偵を警戒して、今まで以上に人の出入りを見る目が厳しくなっているじゃないか」

「心配するな、竹次郎。こういう時の為に、こうして金を用意しておいたのだからな」

 答えてから、徳兵衛は大八車に乗せた丈一尺の岩谷堂箪笥いわやどうたんすを掌で叩いた。革紐の何本かは、この箪笥を固定するのに使われている。

 品川から陸路で安房へと向かう為には、まず江戸を北東に横切らなければならない。辻番に呼び止められるだろうし、先程の無頼のような輩が、また絡んでくるかもしれない。

 大八車が通れるうえに人通りが少ない道については、竹次郎が調べ上げていた。遊びが目的でふらふらして得た知識が、思わぬところで役立ったものである。

 永代橋を抜ける際には、さすがに橋番に呼び止められた。

「儂が話してこよう」

 箪笥の側面を三度叩き、引き出しの中に隠していたらしい小判の包みを拾い上げてから、大八車を降りる徳兵衛。

 戦時であろうと、金は金である。

 賄賂と引き換えに通行を許され、深川から葛飾、さらに松戸へと抜け船橋へと向かう一行だが、遂に前方から誰何の声がかけられる。

「そこの車、止まれっ」

 呼び止めたのは、軍服を着た四人の将兵。

 正規兵なのか脱走兵なのか。その所属は庶民に過ぎぬ留吉たちにわかるはずがない。

 脱走兵ならば追い剥ぎも同様である。正規兵だとしても、この先への通行を許可してくれるかどうかは、甚だ怪しい。

 銃を携えているのは一人だけである。

 狙ってくるとすれば、車を牽く留吉だろう。

 覚悟を決めるべきところだ。

「留吉さん」

「駆けます」

 お民の声にひと言だけ返し、肚を決めた留吉は全身を戦慄おののかせながら力を込め、全力で駆けながら大八車を牽く。

 粋じゃねぇか、格好いいじゃねぇか――と心の中で己を鼓舞しながら。

 どこからか囃し立てる声と、陣太鼓の音まで聞こえてくる。

 すわと抜刀し、銃を構える兵士たち。

 思っていたより刀にビビらないし、腰も抜けない。

 俺ぁどうにかなっちまったのか――と笑う留吉の目の前で、さらに不思議なことが起こった。

 冬でもないのに雪をはらんだ突風が、兵たちを襲う。

 否、雪ではない。

 は雪とは正反対の、黒い烏の群れだった。

 十や二十どころではない。それこそ百を軽く超えるであろう、今までどこに隠れていたのかと疑いたくなるほどの烏たちは、一斉に兵たちを包み込む。

 理由はわからないが、これ幸いと兵たちの間を突っ切ろうとした留吉の目の前で、ぱっと空中に飛び散る無数の烏たち。

「あっ!」

 竹次郎が、驚きの声を上げた。

 地面に残されたのは、白眼を剥いて倒れる兵たちの姿。

「殺しちゃいねぇ。殺すと後が面倒だからな」

 速度を緩めた大八車の後方から聞こえる、懐かしい声。

 走りながら振り向いた留吉よりも先に、お民が声を掛けた。

「忘月さん!」

 いつの間にか大八車の最後尾に腰掛けていた忘月は、しかし僧形に饅頭笠と、半裸の願人坊主だった頃とは程遠い格好をしていた。

「ふふ……この十太夫じゅうだゆう、秘命を受け江戸に舞い戻ってきたつもりであったが、友情などという生ぬるいものに、つい心動かされてしもうた。まだまだ甘い、甘い」

 要領を得ないことを呟いてはいるが、その顔は間違いなく忘月である。

「忘月さん。あ、あんた」

「久しいですな、御主人。儂がいつの間に此処ここにいたのか気になるようですが、種明かしをすれば明快至極。烏どもがひと働きしている間、あんた方がそれに目を奪われているうちに、さっと乗り込んだだけのこと」

 当たり前のことのように説明していた忘月が、不意に前方を指さす。

「おっと留吉、ちゃんと前を見て走んなよ、危なっかしい。おめぇとは背中越しでも話が出来る間柄じゃねぇか」

「あ、そうか」

 言われるがまま、前を向いて足を速める留吉の耳に、忘月の声が流れ込んでくる。

「といっても、たいした話じゃねぇ。俺ぁ、さるお方に頼まれて、江戸からさらに北上してくるだろう薩長と一戦交えるつもりでいる。その為に戦力として使えそうな奴に声を掛けているんだが」

 その戦力として、引き抜きに来たということか。

「おめぇが望んでいた、鉄火場のやり取りみてぇな戦い方をするつもりだ。味方にも、北の親分さんが多い。何より、恐らくこれが日の本最後の、戦らしい戦になるだろう」

「それで、俺を誘いに来たのか」

「そのつもりだったんだが……おめぇさんを誘うのはしにするよ」

 何故。

 振りむいて問おうとする前に、忘月の言葉が続く。

「おめぇにゃ、これから未来へと続く道があるみてぇだからな。巻き添えにしちゃ可哀想だ。あばよ」

「おいっ忘月!」

「飛び降りちまったよ」

 答えたのは竹次郎だったが、いつ飛び降りたのか、留吉にはわからなかった。

 大八車に掛かる重みは、三人乗せた時から変わらないままである。

「留吉っつぁん、少し早さを抑えたらどうだい」

「しかし、御主人」

「走りっぱなしで疲れたんじゃ、いざという時に全力で走れなくなっちまうよ。それに、こうガタガタ揺れていたんじゃ、乗っている私たちもしんどいよ」

「それもそうですな」

 以前ならば、相手が主人であろうと反発していただろう。

 素直に徳兵衛の進言を受け入れ、牛の如く緩やかに歩き出したものの、今度は友人と別れた寂寥感と、これから起こるであろう戦に対する不安がどっと押し寄せ、留吉の首のあたりにまとわりつく。

 嫌な気分を払拭したいと思った留口の口から、唄い慣れた相撲甚句が朗々と流れ出た。


はあぁ

観進元や 世話人衆

お集まりなる 皆様よ

いろいろお世話に なりました

お名残惜しゅうは そうらえど

今日はお別れ せにゃならぬ

我々発ったる その後も

お家繁盛 町繁盛

悪い病の 流行らぬよう

陰からお祈り いたします


「あら、相撲甚句」

 お民の声に、徳兵衛と竹次郎もそうだそうだと相槌を入れる。

「当地興行ってぇ甚句だったな」

「うん、たしかそんな名前だった」

 徳兵衛の言う通り、留吉が唄っている相撲甚句は、当地興行と呼ばれるものである。

 内容は、最終日の興行に来てくれた勧進元、世話人や客に対する別れの挨拶と、次回興行の際の応援よろしくというものである。

 江戸を出ようとする自分たちにはおあつらえ向きだと、留吉は唄いながら苦笑する。


せっかく馴染んだ皆さまと

今日はお別れせにゃならぬ

いつかまた何処で会えるやら

それともこのまま会えぬやら

想えば涙がぱぁらりぱらりとぉ


「はぁ、どすこい、どすこい」

 可愛らしい声で合いの手を入れる、お民。

「なんだい、そりゃ」

「はしたないぞ、お民」

 呆れながらも笑う徳兵衛と竹次郎だが、大八車の上は逆に和やかな雰囲気に変わる。

 留吉が唄い終えると、後を引き継ぐようにお民が唄い出し、さらに竹次郎が、遂には徳兵衛までもが慣れぬ唄声を披露することとなった。




 明治政府が江戸の呼称を「東京」に変えてから、五年の月日が流れた。

 廃墟と化すべき運命を免れた東京は、江戸であった頃とさほど変わらぬ活気と――政府のお偉方が躍起になって作り、また外国から購入した煌びやかな装飾で溢れかえっている。

 世情に詳しい竹次郎の話では、城と政とを新政府に明け渡したことが功を奏し、徳川家最後の征夷大将軍となった慶喜公は、処刑されることなく駿府に移動させられたという。

 江戸城の無血開城が成功したことで、抗戦派はこぞって北へ逃げた。一部は上総にまで移動し、岩国屋一行を震え上がらせたものの、幸いにも房総半島の南端とも言うべき安房にまで南下する前に全滅した。

 残った幕府軍は抗戦しながら北上し、最後は蝦夷の五稜郭という戦場で全滅、生き残った残党も降伏したらしい。

 幕府の本拠地ではなく日本国の首都となった東京には、戦火に怯え疎開した江戸っ子たちが次々と舞い戻り、新たな江戸城の主となった明治天皇を歓迎したという。

 品川もまた、かつての活気を取り戻しつつある。

 さすがに銀座の如き西洋化、とまではいかないものの、往来は散切り頭の若者と、髷を残したままの中年や老人が並び歩いているが、どちらもみだりに肌を露出させてはいない。

 岩国屋は、戦火に巻き込まれることなく品川にその姿を残していた。

 しかし、無人のまま風雨に晒された数年の間に所々がすっかり傷んでしまい、現在の主人――竹次郎は、これを機に岩国屋を西洋風ホテルに建て替えようと画策している。

「行ってくらぁ!」

 その岩国屋から、威勢の良い声と共に表へと飛び出す巨漢。

 五年の間に、すっかり日に焼けたくましさが目立つようになった、元相撲取りの留吉こと、笹ヶ峰留吉である。

 大八車をひたすら引いて走り続けた留吉と岩国屋一行は、徳兵衛の姉の夫が惣領をしているという仁我浦村で騒乱の終結を待ちわびていたのだが、やはり慣れぬ生活というものは苦しい。

 品川では人をもてなすことと金の数え方ばかりに執着していた岩国屋は、不便で華の無い場所で暮らすことそのものに悪戦苦闘。村人を手伝うのも、留吉の膂力任せになるのが日常という有り様。

 いつかはまた江戸品川に戻れる日がきっと来るだろうと、お互い励まし合っていた岩国屋の家族に留吉が溶け込んだのは、ある意味ではごく自然な流れだったのかもしれない。

 まず主人の岩国屋徳兵衛は、これを機に家督を息子の竹次郎に譲り、場合によっては自分だけ江戸には帰らず仁我浦村での隠居を、と言い出すようになった。

 隠居はさすがに気が早いのではないか、と息子の方から意見したこともあったが、これから目まぐるしく変化するであろう世情に、追いつき合わせられる自信が儂には無い、と徳兵衛は晴れやかな笑顔で答えた。

 竹次郎は竹次郎で、生家である品川の旅籠を遠く離れた地で想起すると共に、自分の居場所があの旅籠であることを再認識したのだという。

 最も大きな変化は、留吉とお民の仲だった。

 僅かな休憩のみを挟んで、品川から仁我浦村までひたすら大八車を牽き続けていた代償は大きく、村に到着するや否やぶっ倒れた留吉は、そのまま二日間寝込んでいたのだが、その間に介抱してくれたのがお民だったという。

 元々、江戸を出る前から精神的に成長し、お民との仲も進展していた留吉は、村で暮らす間にお民へ想いを打ち明け、徳兵衛や竹次郎もこれを許し、晴れて夫婦となった。

 その嫁と、生まれて間もない我が子に見送られながら、留吉は商売道具である人力俥じんりきしゃ支木しぼくに手を掛ける。

 大型の特注品なので、乗せようと思えば四人まで乗せることが出来るし、それを一人で牽くだけの力が留吉にはある。

 俥夫しゃふという商売は、明治になる前から存在していた。

 しかし牽いていたのは主に荷を乗せた大八車であり、荷の上げ下げにも力を求められる反面、客人相手に世間話をするような愛想の良さを求められる商売ではなかった。

 俥夫は、東京に戻って仕事を探し始めた留吉には、まさにうってつけの商売だった。

 人が三人に家財道具まで乗せた大八車を、品川から安房まで一人で牽き続けたことで、膂力にも脚力にも更なる自信がついたし、駕籠と違って単独の仕事だから相棒と揉めるようなこともない。

 相模屋政五郎に説教されて心を入れ替えた上に、妻子持ちとなった留吉にとっては、客商売も難なくこなせる仕事となっていた。

 何より、明治に入っても生き残っていた大相撲が、客との共通の話題として、留吉の大きな強みとなっている。

 人力俥を買う費用は、義父と義兄が用意してくれた。

 婿が岩国屋の収入に頼らず、しかも利用客が宿泊先を求めていた場合はそのまま連れてくれば良いという利点は岩国屋にとっても益となるし、何より当時は身重だった愛娘の亭主の頼みである。

 当初はどうなることかと危ぶまれた俥夫生活だが、お民の発破かけもあり、親子三人を喰わせていくには十分な稼ぎを出している留吉の前に、今日も彼を呼び止める客の声。

「氷川神社へやってくれ」

「麻布のですかい」

 留吉の確認に、見たところ五十前後の老人客は、慌てて違う、違うと訂正する。

「氷川といっても、赤坂の氷川だ。いっつもこいつをやっちまうんだ。まぁ許してくんな」

 許すも許さないもない。

 老人を乗せ赤坂へと向かう道中、俥を牽く留吉の口から、相撲甚句が流れ出る。

 安芸を目指して大八車を牽いてからというもの、留吉の癖になっている。

 内容は、正月から八月までの季節の花を謳い上げる「花づくし」。


 あまた名花の ある中で

 自慢で抱えた 太鼓腹

 しゅすの締め込み ばれん付き

 雲州たばねの やぐらびん

 きよめの塩や 化粧水

 四股踏みならす 土俵上

 四つに組んだる 雄々しさは

 これぞ誠の よぉぃほほぉ

 はあぁぁ 国の華よぉい


「はぁ、どすこい、どすこい!」

 ひと通り唄い終えたところで、老客が体格と白髪頭に似合わぬ大きな声で、合いの手を入れた。

「大将、相撲が好きかい」

「好きどころか、あっしは幕下まで行ったんですぜ。笹ヶ峰って四股名を貰ったんで、今じゃ苗字にしているんでさぁ」

「そいつぁ確か、土佐の地名だったかね?」

「そうでさぁ。お客さん、土佐の出身で?」

「いや、知り合いがねぇ、うん、いたのさ。何かにつけて上手く立ち回ろうとする、ポジティブな野郎がさ」

「ぽじてぃぶ?」

「前向きに、物事を良い方に考えようってことさ」

「へえぇ」

 あまり深く考えない、ということか。

「あっしは、相撲取りを辞めてからは品川の岩国屋って旅籠で厄介になってたんですがね、そこの娘のお民ってぇのと所帯を持って、今じゃ家族の食い扶持の為に、ひいこらと俥を牽く日々でさぁ」

「なんでぇ、おめぇの女房の名はお民ってぇのかい。俺っちのかかぁとおんなじ名じゃねぇか」

 えっと驚きながら、ちらりと顧みた老客は、眩しいほどに破顔している。

「いやぁ、でもあっしんとこみてぇな嬶天下じゃないでしょうよ。なんせ夫婦になる前は、怒鳴りながらあっしを蹴っ飛ばして、夫婦になったらなったでガキを人質に発破をかけてくるんですから」

「そんなとこまで一緒かい! まったく、お民ってぇ名の女は気が強えぇって、相場が決まっているんだねぇ!」

 年甲斐もなく呵々大笑かかたいしょうする老客。

 変わった客だが、悪い人間ではなさそうである。

「まあ、あっしとしても正道で稼げるようになって、女房子供に胸張って飯を喰わせてやれるのは嬉しい限りなんですがね。こう見えて、昔は相政こと相模屋の旦那に御厄介になろうと思ってた身でさぁ」

 関の孫六で脅されたのも、今となってはありがたい説教だったと感謝してさえいる。

 留吉の言葉に、老客はへぇ!と感嘆の声を上げた。

「おめぇさん、相政に会ったことあんのかい。俺も昔は世話になったもんだぜ。江戸の騒ぎが小火ぼやで済んだなぁ、あの人のお陰もあるってぇもんだぜ」

「えっ、お客さんもですかい」

「おぅよ。ただ最近は、山内の容堂公が中風で寝込んだとかで、相政も気が気じゃねぇらしい。あれでもし、容堂公に万一があったら、殉じちまいそうでなぁ」

「任侠、ってぇやつですかねぇ」

「どっちかってぇと、忠義だろうな。実行したとしても、相政なら頷ける話よ」

 そうはならないで欲しいという気持ちが、留吉にはある。

「お客さん、氷川神社に着きましたぜ」

「すまねぇ、もうちょいとだけ先に行ってくれねぇか――そうそう、そこの角を左に」

 言われるがまま角を曲がったところで、留吉はあっと声を上げた。

 徳川の時代ならば、大身旗本にしか許されぬであろう侍屋敷。

 この老人、もしや元幕臣の大物か。

 さらに、話し声を聞いて表に出てきたらしい若者が、留吉に料金を払って降りようとしている老客の顔を見るなり、咎めるような物言いをする、

「またですか、安房守あわのかみ。少しはご自身の立場というものを自覚してください!」

「えっ、安房守って!」

「おうよ。俺ぁ元安房守の勝海舟さ!」

 三度目の驚き。

 今日は朝からこの老客に驚かされてばかりである。

「まぁ今は地位も役職もねぇもんだから、昔の官位を名乗っているだけなんだけどな」

 大物中の大物、徳川方から江戸城の無血開城について交渉し、成功させた人物である。

 江戸品川が戦火に遭わなかったのは、この老人の交渉力があってこそだったと言っても差し支えないだろうと、留吉は興奮気味の竹次郎から聞いたことがある。

「兄ちゃん、あんたみたいな若者の俥に乗れて楽しかったよ」

「へ、へぇ。ご利用ありがとうございます……」

「なんだい、そう改まって畏まってたんじゃ、こっちが困っちまうよ。さっきみたいに堂々としゃべんなよ。あんたも十分にポジティブなんだからさ」

「そ、そうですかい」

 前向きだ、と言われても実感は湧かない。

 留吉自身は、女房に尻を蹴とばされながら働いているだけのつもりである。

「それじゃ、また乗せてくんなっ!」

 若者に背を押され屋敷へと向かう勝老人を見送ってから、我に返った留吉は、己の頬をぴしゃりと叩いた。

「いけねぇ、ぼんやりしてる場合じゃねぇや。ほいほい次の客、次の客っと!」


                                 (了)

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褌かつぎのポジティブシンキング 木園 碧雄 @h-kisono

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