第5話 証明される赦し
ラグナは、誰にも見えない角度で、そっと右手を握った。
議場にいる面々は、若いセラフィナを除けば、三十代後半から八十代までの男女で構成されている。いずれも、ラグナより遥かに経験豊富で、言葉だけで戦ってきた者たちばかりだ。
本当は、神の名や権威を振り翳したくなどなかった。
できることなら、穏やかに、話術だけで対話をまとめたかった。
けれど。
それでは、きっと議論で押し負ける。
説得されてしまう。
もしそうなってしまえば、ラグナは本当に守りたいものを守れなくなる。
だから、ラグナは演じた。
強く、自信があり、権威ある教皇を。
「では、教皇陛下にお伺いします」
老齢の男性の声。冷静だが、容赦はない。
「異端者を、なぜ貴方様の私室に招き入れたのですか?」
一瞬、議場の空気が引き締まる。
記録官の走らせる、ペンの音が聞こえる。
「公的な監視が可能な部屋に、留置するべきでは? これは制度上不適切です」
ラグナは、わずかに言葉を詰まらせた。
真実は言えない。
『契約』のために、招き入れたことは秘匿しなければならない。
沈黙を逃さず、別の議員が続ける。
「さらに、異端者の手枷を解除したという記録も確認されています。なぜ、そうした危険な判断を? 禁呪を扱う者に対し、あまりにも軽率では」
「御身に万一の事があるとは思わなかったのか――」
質問が、一転して責めに変わる。
でも否定できない。彼らの言う事は、正しいからだ。だから一語ごとに、ラグナの周囲が狭まっていく。
(わかってる……わかってる。けど)
右手が膝上で握られる。
それでも、ラグナは逃げない。
「順に答える。まず、あの部屋は俺が最も制御できる空間だ。俺の許可無しに、誰も出入りはできないことは、皆も知っているだろう? 部屋には、結界が幾重にも用意されている。だから、結果的に俺の目の届くところに置く方が、安全だと判断した。それだけだ」
誰かの声が届くより先に、次に、と言葉を続けた。
――もう、後には引けない。
本来この場に立ち、抗議あるいは弁明する資格を持つアイルは、今ここにいない。
ラグナは、アイルのかわりに、彼の祈りを証明しなければならないのだ。
契約を結ばせた以上、アイルの主人として。契約者として。
ラグナには、彼の安全を保障する義務がある。
「拘束を解いたのも、彼が自ら祈りの意思を示したからだ。祈りの言葉を選び、神への信仰を自らの口で語った。――それを否定する理由があるか? 教会が、祈りを拒むのか? ありえないだろう。そこまでの意思を示すならば、彼は力は使わないと、この俺が判断した」
あえて、ラグナは議会をゆっくり見回す。
彼らがこの金眼に、畏れを抱いていることを、ラグナはよく知っているからだ。
ただ、エルヴィンだけが、目を逸らさずにいた。
「彼の禁呪――力については。俺たちが、議論する資格があるのか、今はまだ判断しかねる」
ラグナは、教会に伝わる記録を知っていた。
おそらく、この場にいることを許された者たちも、知っているはずだ。
けれど、誰でも知ることができるわけでもない。
教会が、秘匿しているからだ。
――かつて、神々は魔法によって様々な奇跡をもたらした。
雨を降らし、風を吹かせ、火を生み出す。
神々はそのような奇跡を、人が模倣することを許したのだ。
「だからこそ、教会は許された奇跡を『祝福』と呼ぶ。神聖さを穢さぬよう、厳格な認定と手順を術者に課して。対して、アイルが使う『禁呪』は逆だ。教会の手順から逸脱し、許されぬ奇跡の模倣を試みる術」
制度に許された祝福と、制度から逸脱した禁呪。
ラグナには、もう両者の区別に意味があるのか、判断したくなかった。
アイルの構成は、美しい願いと祈りで織られていた。
祝福か禁呪か。
あの魔法を、どちらかに定義できるわけがない。
(でも、俺がそんなこと言ってはいけない)
ラグナは、定義する側。制度の頂点に立つからだ。
だから、慎重に言葉を選ぶ。
「しかし、彼が使った魔法は……自分ではない誰かを救うためのものだった。自らの犠牲も厭わず。あの構成に編まれた祈りは、俺たちの祝福と何が違うだろうか?」
穏やかに、けれど確実に届く声でラグナは続ける。
「この定義を決めるには、まだ記録も話し合いも足りない。――彼は、改宗に同意し、祈りたいと願った。俺はそれを赦し、近くで導くために従者とした。教皇として。アイルの真意も、力の定義も、いずれ記録が証明するだろう」
議場の空気がわずかにざわめく。
反論の前に、ためらいが立ち上がる。
セラフィナと目が合う。その瞳には、探るような冷静さと、わずかな躊躇が宿っていた。
――まだ、議会は揺らいでいない。
だから、もう一手、必要だった。
「俺の判断に、問題があるというなら、こう問おう」
一斉に向けられた視線が、火花のように自分に突き刺さる。
誰もが言葉を失ったわけではない。けれど、その瞬間だけ、議場は確かに沈黙していた。
だがその静けさを、ラグナは恐れなかった。
「俺に無断で、異端者狩りを行ったのは――誰だ?」
問いかけは、議論ではない。
責任を問う行為だった。
議員たちは、それを理解した。
教皇としての資格を、ラグナが自ら突きつけたのだ。
静けさの中で、ラグナは呼吸を整える。
怒りでも、挑発でもない。
ただ、胸の奥から零れ落ちたものだった。
「俺を教皇に据えたのは、お前たちのはずだ」
議場に、わずかな動揺が広がっていく。
目を逸らす者、咳払いで誤魔化す者。
顔をしかめ、視線を伏せた者たち。
(それでも、こんな程度で済んでしまうのか)
異端者狩りは、教皇の承認の元に行われる。信仰に関することだからだ。
故に、無断での執行は越権行為となる。
ラグナは自嘲気味に唇を噛んだ。
だが、その思いは声には出さない。
「なのに、その俺に背いてまで、異端者を狩った。それを、今ここで問うている」
問いを投げつけるだけで、議会を壊すつもりはなかった。
その場に沈黙が満ちる中、ラグナは息を吐く。
「……だが、罪には問わない。俺は、お前たちの行動を理解したいと思っている」
声の調子を落とし、静かに続ける。
「お前たちは、教会や制度を守ろうとした。そうだろ? ただ、そのやり方が、俺と違っただけだ」
一瞬、誰かの肩が僅かに緩んだ気配があった。
「だから今回は、見逃す。ただし、臨時監査は入れる。実際に、異端者を取り逃がしている。これが凶悪犯だった場合、真っ先に犠牲になるのは民だ。それを防ぐために、受け入れてくれ。この件に関しては、それ以上を問わない。誰かを処罰することもないと誓う」
ラグナは、全議員に向かって視線を走らせる。
「……代わりに、お前たちも見逃せ。一度だけ、彼の祈りを見守れ。それで、今回だけは、引き分けにしよう」
そう言って、ラグナは椅子に身を預けた。
困惑と、疑惑に満ちたざわめきが聞こえる。
「最後に、ひとつよろしいですか?」
セラフィナの問いだった。
議会の中で最年少の彼女だけが、ラグナに言葉を向ける勇気を持っていた。
「構わない、何だ?」
ラグナは、責任を持って彼女に続きを促す。
「もし、改宗が偽りだった場合。異端者が、神と陛下を裏切ったならば、どうされるのですか?」
「もし俺の判断が間違っていたなら、その責任は俺が負う。神を裏切り、従わなくなった時点で、それは改宗者ではない」
ラグナは、はっきりと言い切った。
セラフィナの青い瞳が、怪訝そうに細められる。
「では、そうなった場合のご判断は」
「制度に従う以上、俺にも、彼にも当然罰が与えられるだろう。それを拒むつもりはないさ」
けれど、と一呼吸おいて、視線を逸らさず続ける。
「だが、俺は信じている。彼は祈る者だ。過去に何を犯していようと、今の祈りが偽りだとは思えない。だから、俺は赦した。そしてその選択に、逃げるつもりはない」
静かな声だった。けれど、議場全体に響く力があった。
「俺の信じた者が裏切ったなら、それは――俺が信じる力が足りなかったということだ。その時は……教皇としての俺の在り方そのものを、見直すべきなのかもしれない」
沈黙が落ちる。
ラグナの言葉は、議場の空気を確かに変えていた。
セラフィナは、わずかに視線を伏せ、それからゆっくりと口を開く。
「……承知しました」
声は平坦だったが、その裏にある警戒は消えていなかった。
「ただし、これは教皇陛下の責任においてなされた判断として、制度に基づく記録に明記させていただきます」
「もちろんだ」
ラグナが短く頷くと、セラフィナはそれ以上は言わず、一礼して席に戻った。
そのやりとりをもって、議場には再び静けさが訪れた。
しばらくして、議長が軽く咳払いを一つ。
「それでは、本日の議題については、異端者の身柄については保留。継続的な記録と観察処分とし、異端者狩りについては、臨時監査の実施をもって対応といたします」
淡々と告げた。
「教皇陛下のご判断を、議会は記録に留め、今後の経過を注視する所存です」
それは、追認でも否認でも、勝利でも敗北でもなかった。ただ、現時点での答えを保留するという、最も現実的な結末だ。
形式的な言葉だったが、それでも誰も異を唱えなかった。
ペンを走らせていた記録官エルヴィンの手が止まる。
全ての記録が、今、ひとつの赦しとして刻まれたのだ。
ラグナはそれを受け、椅子に背を預けた。
そして、もう何も言わなかった。
ただ一人、心の中で、名もなき祈りを捧げるように目を伏せる。
それから、立ち上がり議場を後にする。
一瞬だけ、エルヴィンに視線を向ければ、彼は心得たとばかりに首肯を返す。
それで、十分だった。
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