第2話 埋もれた声

 沈黙は、嘘より雄弁だった。

 言葉にできぬ感情が、指先に震えていた。

 だから私は問う。記録は赦しではない。


 ※


「……上手く選びましたね」

 わずかに伏せた視線の先で、異端者の顔が曇った。

 その反応を、エルヴィンは黙って受け取る。

 黒衣に触れる湿気は、窓硝子越しに続く雨のせいだ。もう四日、太陽の昇らない空から、止むことなく水音が降ってくる。

「選んだ?」

 問い返すアイルの声は静かで、どこか間を試すようだった。

 その唇が、言葉のかわりに緊張を刻む。

 エルヴィンは資料を閉じ、机に手を置いたまま、わずかに口角を上げて応じた。

「貴方の故郷、レテの記録を確認しました。証言通り、百余年前、山津波で廃村になっています」

 一言ごとに、アイルの眼差しがわずかに揺れた。表情は変わらない。けれど視線の奥で、慎重な構えがほんの一瞬、崩れたように見えた。

 感情ではない。生存術だ。この男は、そうやって嘘と真実を塗り分けてきたのだろう。


 一拍置き、エルヴィンは続ける。

「それだけ昔の話です。現在も生存者がいる可能性は、極めて低いですね。これ以上詳しい情報は得られなかった」

 アイルの目が、わずかに逸れた。

 警戒でも挑発でもなく、ただ、記憶を奥へと押し込めるような動きだった。

 沈黙の重さに、室内の空気が少しだけ冷たくなる。足元の石床に染みた湿気が、アイルの枷の鎖をわずかに軋ませた。

「その言葉の意味が、私にはわかりません。ですが、故郷の記録が残っていたなら、皆も喜ぶでしょう」

「やはり故郷と呼ぶのですね。なぜ、貴方がそう呼ぶのか。少々、気になります」

 無感情な問いかけに見せかけて、観察の刃は冷静に振るわれていた。

 エルヴィンは疑っていた。

 この異端者が、語る記録はあまりに整いすぎている。崩す隙のない証言を積み上げで、アイルという人物を作っている。

「生まれ育った地を、人は故郷と呼ぶでしょう? たとえもう、この世に存在しなくとも」

「では、なぜ偽りの名を名乗るのですか。アイル――古語で、意思を意味する言葉ですね」

「それは……」

 珍しく、アイルの言葉が詰まった。

 エルヴィンが静かにその様子を観察する。

 アイルは視線を戻し、ほんの少しだけ、机の上の書類を見た。

「もう家族に呼んでもらえないのに、名乗っても仕方がないでしょう。あの名は、誰にも呼ばれたくない。奪われたくない」

 その言葉に、エルヴィンのまぶたが僅かに動いた。

 仮面の隙間から零れた音だった。

 作られた物語ではない。少なくとも、それは嘘ではないように聞こえた。

「では、なぜアイルと名乗っているので?」

「私が、そう在りたいと願ったからです。――それで、私の力は、禁呪と祝福、どちらに定義されましたか?」

 言い終える頃には、もう挑発の眼差しに戻っていた。

 エルヴィンはそれを受け止め、ゆっくりと眼鏡の奥でまぶたを落とす。

「それを判断するのは、私の役目ではありません」

 その返答と共に、エルヴィンは静かに目を逸らした。挑発に乗らない。評価を与えない。

 ただ記録として、今のやりとりを胸に収める。

 異端者は静かに息を吐いた。

 言葉を交わすには、十分すぎる重さが残っていた。


 だからこそ、エルヴィンは切り替える。感情の余熱が冷める、その刹那に。

「――ラグナ様。議会からの呼び出しです」

 わざとらしいほど丁寧な声で告げると、ラグナはわずかに眉を上げた。

 真顔だった。だが、呆れを隠しきれていない。

「俺としては、お前たちにはもう少しくらい、仲良くしてもらいたいんだけどな」

 その一言で、エルヴィンとアイルは、一瞬だけ目を合わせた。何も言わなかったが、それで十分だった。

 双方、これ以上譲る気がないということだけは、伝わっていた。

「で? 議会はなんだって」

「五日後、話し合いの場を持ちたいと。詳細は私にも明かされていません。ただ、アイルの件以外に理由は考えにくいですね」

 エルヴィンは一歩、机に近づきながら、ため息を吐いた。

 手にした書類の端が、わずかに揺れた。

 ラグナは肩をすくめるように苦笑する。

 そして横目でアイルを見る。彼は黙ったまま、困惑気味にやりとりを見つめていた。

「先日、アイルが記した誓約書も、すでに議会に提出済みです。教皇印付きで」

 そう告げながら、エルヴィンは書類の写しを静かに差し出す。

 視線だけを、ラグナに向けたまま。

「さすがに、文句は言わないか」

「教皇印の効力は絶対ですからね。ラグナ様がその誓約書を承認された記録も、正式に残っています」

 声に感情を乗せないように、エルヴィンは警告を添えた。その意味を、誰もが理解していた。

 エルヴィンは、視線を逸らさずに言葉を継いだ。

「ラグナ様。議会と、どう戦うおつもりですか? 異端者を伴って聖都へ戻ったという事実は、すでに消せません」

 夜の帳が濃くなり、教皇庁の灯だけが外の景色を遮っていた。

「俺が負けると?」

 ラグナは小さく笑った。

 だがその笑みに、少年らしい無邪気さはなかった。計算と、諦めと、意志の層が折り重なった、静かな戦意。

「負けてはなりません。その上で、警告を申し上げているだけです」

 エルヴィンは、書類ではなくラグナ本人を見遣る。

「うるさいな。でも正直、もっと早く呼び出されると思ってたよ」

 ラグナの指先が、ペンを転がす。

 軽く転がった金属の軸が、紙の端に当たって止まった。

「ま、なるようになるさ」

「お好きになさってください。……ただし、覚悟の上で」

 書類の角が、エルヴィンの言葉に微かに揺れる。


「私のせいで、面倒をおかけしている自覚はあります」

 アイルが口を開いた。

 声音は控えめだったが、やや大袈裟だとも思った。言葉の選び方が絶妙に狡い。

 まるで罪を認めたふりをしているが、

「ですが、ここで退く理由はありません」

 本心でそう思っていないことがわかる。

「退けないのではなく、退かないと、貴方が選んでいる――私はそう理解しています」

 言葉は肯定だったが、向ける視線には皮肉を混ぜる。

 アイルが、少しだけ視線を逸らす。

 その横で、ラグナは口元をわずかに緩めた。

 どこか楽しげで、どこか、呆れを含んだ笑みだった。

「どのみち、議会とはいずれやり合う必要があった。だから、気にするな。次の一手を考えなきゃな。それより――視察の件、どうなった?」

 ラグナの言葉に、エルヴィンが静かに顔を上げる。

「議会は難色を示しています」

 私も、とエルヴィンは付け加えなかった。

 長い付き合いだ。この少年が、簡単に意見を曲げないことを知っている。

「……本当に話が通じない」

 ラグナが眉間に手をあて、考え込む仕草を見せる。手元の書類から目を離し、やがてアイルが口を開いた。


「視察?」

 少しだけ不思議そうな声だった。

 ラグナが小さく頷き、口元の力を抜いた。

「そう。報告書を読んでると、配給の現場が明らかにおかしい。だから、自分の目で見に行く」

 答えは短く、決意に満ちていた。

 けれどその響きに、エルヴィンは自身の顔がわずかに曇ることを自覚した。

 ラグナの言うように、記録と現場の声が一致しない。伝達に誤りがあったのか、意図して隠蔽されているのか。判断ができなかったのだ。

「この時期に、ですか」

 重ねるように呟いたアイルの声は、冷静さに包まれていたが、その奥に確かな不安があった。

 今、雨が続く季節だ。真冬の視察は、言葉ほど単純ではない。

「……ええ。この時期に、です」

 エルヴィンの声が、僅かに沈んだ。

 諦めにも近い色が、語尾ににじんでしまった。

 アイルはしばらく黙っていた。

 やがて、どこか踏み込むような声音で言葉を紡ぐ。

「……従者としてではなく、、個人として発言してもよろしいか?」

 ラグナは一拍置くこともなく、即答する。

「構わない。なんだ?」

 その柔らかな承諾に、アイルの眉が一瞬だけ揺れる。

 そして、静かに言葉を継いだ。

「ラグナ様は、この季節に。真冬に、外出された経験は?」

「いや、ない」

 不思議そうな返答に、アイルが口を開くより先に、エルヴィンが補足を入れる。

「補足いたします。巡行や儀式での外出経験はあります。形式的な監査を除けば、本格的な視察もこれが初めてです」

 その口調には、冷静と皮肉が交じっていた。

「異端者狩りの時も現場は見たけど……あれは視察というより、監査だったからな」

 アイルはラグナのその声に頷くように、小さく息を吐く。

「これは、あくまで俺の意見です。視察の時期を、ずらすことは難しいのですか?」

「無理だ。夏至にかけて、儀式と政務が集中する。ここを逃せば、次は秋になる。それじゃ遅い」

 ラグナの言葉に、アイルはしばらく何かを考えていた。そして、迷いを払うようにして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「なら、なおのことです。やめた方がいい。冬の寒さは骨まで染みます。雨が続けば、さらに酷くなる。民の心も、冷え込む」

 その言葉に、ラグナの眉がわずかに動いた。

 アイルは、ただの助言ではなく、過去の記憶から引き出した実感で語っていた。

 一方で、エルヴィンは黙ってその横顔を見ていた。

「……雨が続いた年には、配給を巡って争いが起きた。俺も一度、死者を見たことがあります」

 アイルの声は低く、抑えていた。

 けれど、その一言には、真に迫る体験の重みがあった。助けられなかった後悔が、そこにあるように思えた。

「……それでも、行かれますか?」

 アイルの問いは、決して強い声ではなかった。

 けれど、そこに宿る真剣さは、雨音をさえぎるほどだった。

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