第5話


「・・・・・」




彼女の排泄を待っているこの時間は、今までの人生で一度も経験したことのない“静寂”だ。


人造人間ヒューマノイドである俺には無縁の行為。

というか、そもそも“トイレ”という概念がない。


日々の排泄は体内の吸収タンクから回収され、定期的にカートリッジとして交換する。つまり、専用のカートリッジを使い終わったら回収ボックスに捨てるだけだ。



わざわざ隠れてしゃがみこむ理由なんて、俺たちには存在しない。だが、彼女は違う。



「まだなのか?」


「うぅ〜……もう少し……」



背後から、リカの小さな声。

俺は壁にもたれて一息ついた。



——寒い、喉渇いた、お腹すいた、トイレ行きたい。



彼女は、明らかに俺たちとは違う。

この短時間で何度聞いたか分からない。

だが、それを鬱陶しいと思うことはなかった。



その度に、俺はどこか笑いそうになったが言い返せずにいた。



「……女ってのは、大体そんなもんか」



口にしてみたが、どこかで分かっていたのだ。

彼女が“ただの生産階層からきた女の子”なんかじゃないと。



「おまたせ〜!いこーっ」


「はいはい…」



身軽な足取りで戻ってきたリカは、手に小さな金属端末を握っていた。



「それ、ジョニーからか?」


「うん。これで最短ルート分かるって」



古びた旧軍のナビデバイス。以前見せてもらったやつとは別の機種だが、確かに正面のホログラムパネルには地下構造が表示されていた。



リカはそれを躊躇いなく渡してきた。

少し……重いな。



地下水道への通路に向かっている最中、旧時代の小型デバイスを何度も取り出した。ホログラムが空中に浮かび、ルートが示される。



「まだこんなに動くのか……信じられねぇ」



地下へ向かう道は狭く、複雑に入り組んでいた。

階層コードの読み取り端末、センサー付きの検問ゲート、巡回しているP.A.S.F.ドローンと、タイタンの監視レーザーが交差するエリア――統制局の目は、想像以上に厳しかった。



それに巡回も想定より多かった。

ときおり“P.A.S.F”が編隊を組んで通過し、“タイタン”の影が遠くに揺れて、例の足つきもウロチョロしてやがる。



だが、奇妙なことにリカは彼らに引っかからない。

そしてまるで“事前に知っていたかのように”、彼女は通り過ぎる直前に小声で言う。



「……こっち、はやく……!」



暫くすると検問をやっているのが目に入る。

定期的に行われるやつだ。まったくツイてねぇや……




「あのゲート……ジョブコードの照合必須だな。今の俺じゃ通れねぇ。どうしたもんか」



「わたし、通れるよ。……たぶん」



「……なんでだよ」




そう言いかけた瞬間、リカがスッと身を低くした。



「しっ!来る」



次の瞬間、階段の上から、パスフの一群がババババババッと低音の羽音を響かせながら通り過ぎていく。


彼女は呼吸すら止めていた。

何かに“聞き耳”を立てているような顔をして。

当然俺には、何も聞こえない。



「なんで分かったんだ?」


「なんとなく……声がするの。“ここにいちゃダメ”って、そんな声」


「……なんだいそりゃ」



彼女が感じている“何か”――それが何かは分からない。


——その音が聞こえたんだ。

リカには。




仕方なく迂回して遠回りして地下水道の入口へ向かっていると、時折“観測”されているような感覚が俺を襲った。



「——幸福の為に」

「——選別開始」



頭の奥に響く断片的なノイズ。

それはいつもどこかで流れている“無害な電波”のようなアナウンスだったはず。


だが今はそれが何かを意味しているように聞こえる。

不思議なもんだ。



「あ、あそこマーケットあるよ。おみず、かってくれる?」


「またかよ。……ああ、分かった分かった」


こうして時々止まりながら、リカの喉を潤すため、簡易マーケットで清浄水のパックを購入する。


俺には、こういう感覚が無い。

水を飲みたい、身体が重い、誰かに手を引かれたい――

だが彼女のそうした“異質さ”が、今の俺には妙に心地よく思えるのも確かだった。



「よし。もうすぐ地下水道の入口だ。……本当に、こっちでいいんだな?」



「うん!まえにジョニーがそう言ってたし、わたしもかんじるの」


水を飲みながら彼女は答える。


「感じる……ねぇ……」


ナビデバイスも確かにこの先を指し示してるし、ここまで来たら、信じるしかないか。


「!……待て、隠れろ!」


リカは一瞬の迷いもなく壁の陰に滑り込んだ。


そこを、何人かの人造人間たちがゆっくりと通り過ぎていく。



――バンキンスの野郎、呑気に欠伸をしてやがる。



幸い俺たちには気づいていない。

リカはまるで、その場面を“予知していた”かのように動いていた。



「なぁお前、マジで何が見えてるんだ?」



「……ないしょだよ」



少し間を置いて悪戯っぽく笑うその顔に、俺は何故か安堵した。







ようやく地下水道の入り口が見えた。

だが、その狭さは想像以上だ。


「おなかすいた〜……」


リカが腹を押さえて座り込む。


「我慢しろ。……悪いが、ベターミートはダメだ」


全身に着いたゴミを払いながら俺は言った。

それに、工場で何が起きているかを知ってしまった今、あれを食わせる訳にはいかない。


ホログラムのルートに従うと、扉の前に出た。


「……“たちいりきんし”?」


「これも読めるのか、お前……」


ジョニーから託された鍵のひとつをリカから受け取り、扉を開ける。


中は巨大な通路。

まるで地下鉄のように広く、だが荒れ果てた空間。


“ベターミート工場行き”と書かれたダンボールがいくつも積まれている。


リカはその一つを無邪気に開けた。


——ドロッ……


「ッ! リカ、やめろ!」


遅かった。

鼻を突く腐敗臭が吹き出す。


「う……っ……におい……っ」


リカが口を押えて顔をしかめた。

箱の中身は、原型を留めていない肉片?と、白濁した液体。


その瞬間、ルーカスの足が止まる。


辺り一面に広がる黒い“ヒモ”のようなもの。

そして、乾ききっていない赤黒い“手型”。


「……誰か…いや、”何か”がここを通った……」


そう感じた直後だった。


ブォンッ!

ドドドドドド!!


湿った風と共に、巨大な影が横を駆け抜ける。


「なっ……」


長髪で目元まで隠れた、四つん這いの巨体。

異常に細長い手が何本も生えた、まさに“怪物”。


リカが震えて声も出せずに立ち尽くす。


何だ、あれは……


——いや、どこかで……


通路を進んでいくと、先の方にその化け物の姿があった。

地面にある物体を引き裂き、むしゃぶり喰っている。


そして、糞尿のようなものを器用に手で掴み、箱へ詰め込んでいく。


それは、ベターミート工場行きと書かれたダンボール。

つまりベターミートの“原料”。


「……クソが……ッ」


嘔吐感が襲う。

リカも震えが止まらない。

こんなものを見せてしまっていいのか……


「リカ、目を閉じろ。いいな」


彼女を抱えてその場を離れようとする。


だが——


風が、また吹いた。


腐敗臭、異様な熱気。


「……リカ、しがみつけッ!」


振り返ると、あの怪物が目の前で笑っていた。

裂けた口の奥に並ぶ異様に小さな歯。

気持ち悪い!



「クソ……!」



デバイスの案内なんて目もくれず、リカを抱えて駆け出した。



何も考える暇なんかない。

背後から迫る重い足音を振り切るように——逃げるんだ。



ジョニー、お前の言っていた答えとやらまで……!






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