第十七話:雨の夜と、零れた本音
公園での、あの夕暮れ。航くんのスランプに対して、私が提案した「告白シーンの共同創作」。最初は戸惑っていた彼も、次第に本気で向き合ってくれ、アドリブのはずの告白は、まるで本物の想いが溢れ出たかのように、私の心を強く揺さぶった。「弥生さんが好きです」という彼の言葉と、それに応えた私の「私も好きだよ」という言葉。それはお芝居だったけれど、私たちの間には、確かに特別な空気が流れていた。
その後、彼の表情には確かに、ほんの少しだけれど、前向きな光が戻っていたように見えた。「もう少し、頑張ってみます。弥生さんのおかげで、書ける気がしてきました」という彼の言葉を信じ、私は、彼の物語も、そして私たちの関係も、また少しずつ良い方向へ向かうのではないか、と淡い期待を抱いていた。
だが、現実はそう甘くはなかった。
数日経っても、航くんから「告白シーンが書けた」という報告はなかった。それどころか、彼は再び、深いスランプの闇へと沈んでいってしまったようなのだ。メッセージの返信はさらに滞りがちになり、たまに返ってきても、「すみません、まだ全然ダメです…」「俺にはやっぱり無理なのかも…あの時、弥生さんに言ってもらった言葉を、うまく小説にできないんです…」といった、弱気で自嘲的な内容ばかり。図書館で見かける彼の姿も、日に日に憔悴していくように見えた。
(どうしよう…。私の言葉は、結局彼には届かなかったのだろうか…。あの「共同創作」は、彼にとって重すぎたのかもしれない…。「弥生さんへの本当の気持ち」と向き合うのが、怖くなってしまったの…?)
彼を励ましたい、力になりたい、という気持ちは山々なのに、今の私には、かけるべき言葉が見つからなかった。告白シーンという、あまりにもデリケートなテーマ。そして、私たちの間の、この微妙でぎこちない空気。それが、私から積極的な行動を奪っていたのだ。
莉子ちゃんの存在も、相変わらず私の心をざわつかせていた。彼女は、航くんがスランプに陥っていることを知ってか知らずか、以前ほどではないにしろ、時折、図書館に現れては、航くんに「先輩、頑張ってくださいね!」「私、いつまでも待ってますから! 先輩の書くラブコメ、大好きですから!」と、屈託のない笑顔で声をかけていく。その度に、私の心には黒い靄がかかり、航くんに優しく接することができなくなってしまうのだ。
(…最低だ、私。彼がこんなに苦しんでる時に、ヤキモチ妬いてるなんて…。でも、莉子ちゃんの言葉は、彼にとってプレッシャーになってるんじゃないかしら…)
自己嫌悪は募るばかり。航くんを支えたい気持ちと、自分の醜い感情との間で、私の心は引き裂かれそうだった。美咲には「だから、さっさとハッキリさせなさいって言ったのに! あんたが中途半端だから、彼も苦しんでるのよ!」と、またしても呆れられてしまった。
そんな、八方塞がりの状況が続いていた、ある日の夜のことだった。
その日も、外は朝から冷たい雨が降り続いていた。まるで、私の心の中の、どんよりとした気分を映し出すかのように。私は、大学の課題も手につかず、部屋で一人、ぼんやりと窓の外を眺めていた。雨音が、やけに大きく聞こえる。
スマホが、不意にメッセージの着信を告げた。航くんからだった。
珍しいな、と思いながら画面を開くと、そこには、いつも以上に切実な響きを帯びた言葉が綴られていた。
『弥生さん、こんばんは。夜分遅くにすみません』
『どうしても…どうしても、書けないんです。告白シーンが…』
『もう、何日も、何時間も、PCの前で唸ってるのに、一行も進まなくて…』
『俺、やっぱり、ダメみたいです…。もう、諦めた方がいいのかもしれません…。弥生さんにも、迷惑ばかりかけてしまって…』
その、弱々しく、絶望感に満ちた言葉に、私の胸は締め付けられた。
彼が、どれだけ苦しんでいるか。痛いほど伝わってくる。
諦める、なんて、そんなこと、絶対に言わせたくない。
(私に何かできることは…? あの公園での「共同創作」の続きを、今度こそ、私の本当の気持ちで…? もしこれで彼が私の気持ちに気づいてしまったら…? でも、それでもいい。彼が前に進めるなら…)
今度こそ、ちゃんと彼と向き合わなければ。彼の苦しみを、少しでも和らげてあげなければ。
でも、どうすれば?
告白シーンについてのアドバイスは、やはり難しい。
(そうだ。あの時の話、もう一度してみようか…。今度は、もっと素直に、私の気持ちを…)
以前、彼に少しだけヒントを与えられた(かもしれない)、あの「仮定の話」。
もし、自分が告白されるとしたら、どんな気持ちになるか。どんな言葉が嬉しいか。
あの時は、核心に触れるのを恐れて、中途半端に終わってしまったけれど。今度こそ、もう少し踏み込んで、私の正直な気持ちを伝えてみたら…?
それが、彼にとっての、突破口になるかもしれない。
もちろん、怖い。自分の気持ちをさらけ出すのは、怖い。
でも、彼がここまで追い詰められているのだ。私が、ここで躊躇していてどうする。
彼を、救いたい。その一心で、私は返信を打ち始めた。
『航くん、こんばんは。…すごく、苦しんでるんだね。一人で抱え込ませちゃって、ごめんね。迷惑だなんて、一度も思ったことないよ』
まずは、彼の苦しみに寄り添う言葉から。
『諦めるなんて、絶対に言わないで。航くんには、才能があるんだから。今は、壁にぶつかってるだけだよ。絶対に、乗り越えられるから。私も、一緒に乗り越えたい』
力強く、彼を励ます。そして、私も共に戦う意志を示す。
『それでね…告白シーンのことなんだけど…』
本題に入る。心臓が、少しだけ速くなる。
『この前も少し話したけど…もしよかったら、もう少しだけ、仮定の話、してみない? 今度は、私が、航くんの小説のヒロインになったつもりで、正直な気持ちを話してみるから』
『例えば…もし、航くんが、私に…ううん、ヒロインに想いを伝えるとしたら…どんな言葉を選ぶかな? 主人公じゃなくて、航くん自身の言葉で、ヒロインに伝えたい本当の気持ちを』
少しだけ、角度を変えてみた。彼自身の言葉を引き出すことで、何かが見えてくるかもしれない、と思ったのだ。そして、「私がヒロインになったつもりで」という言葉に、私の本当の願いを込めた。
返信は、すぐには来なかった。
彼は、私の提案を、どう受け止めたのだろうか。
しばらくして、ようやく返事が来た。
『…俺、自身の言葉…ですか…弥生さんが、ヒロインだとしたら…』
『…考えたことも、なかったです…でも、もし、本当に、弥生さんに伝えるとしたら…』
…え?
弥生さんに…?
彼は、今、私の名前を出した…?
ドクン、と心臓が大きく跳ねる。
まさか…?
だが、すぐに次のメッセージが届いた。
『…あ、いや、すみません! 今のは、その、例え話で! もし、俺が主人公だとしたら、っていう意味で! 弥生さんみたいな素敵な人がヒロインだったら、ってことです!』
彼は、慌てて訂正してきた。…やっぱり、そうか。私の、早とちりか。
(馬鹿みたい、私。何を期待していたのだろう。でも、彼も少しは意識してくれてる…?)
少しだけ、がっかりしたような、でも、ほっとしたような、複雑な気持ち。
『…主人公だとしたら…そうですね…弥生さんみたいな人に、伝えるとしたら…』
彼は、少し考え込むような間を置いてから、続けた。そのメッセージからは、彼が何か大切なものを思い浮かべているような、そんな気配が伝わってきた。
『…やっぱり、上手い言葉なんて、出てこないと思います』
『ただ…「好きです」って…それしか、言えないかもしれないです…弥生さんのことが、本当に、好きなんです、って…』
『…すごく、緊張して、声も震えて…顔も真っ赤になって…。めちゃくちゃ、格好悪いと思います…』
彼の言葉は、まるで、あの公園での告白を予言しているかのようだった。
不器用で、格好悪くて、でも、真っ直ぐな想い。
『…でも…それでも、伝えたいんです。この気持ちを…』
『…あなたがいると、毎日が、全然違って見えるんです、って』
『…あなたの笑顔を見ると、それだけで、幸せになれるんです、って』
『…だから…ずっと、そばにいたいです、って…弥生さんの、隣に…』
彼の言葉が、一つ一つ、私の心に染み込んでいく。
それは、小説のセリフなんかじゃない。彼の、心の奥底からの、本物の叫びのように聞こえた。
涙が、じわりと滲んでくる。
『…そんな、拙くて、ありきたりな言葉しか、出てこないと思います…』
彼は、自嘲するように付け加えた。
『…ううん』
私は、震える指で、返信を打った。心臓が激しく高鳴り、タイプミスしそうになるのを必死で堪える。
『…そんなことないよ』
『…すごく、素敵な言葉だと思う。航くんの、本当の気持ちがこもってる』
『…もし…もし、私が…航くんから、そんな風に言われたら…』
『…どんなに格好悪くても、どんなに拙くても…』
『…すごく、すごく、嬉しいと思う…! だって、私も、航くんのことが…』
それは、もう、仮定の話なんかじゃなかった。
私の、本当の気持ちだった。
彼に、そう告白されたい、と願う、私の心の叫びだった。
言ってしまった。
今度こそ、本当に、言ってしまった。
メッセージを送った瞬間、激しい後悔と羞恥心が襲ってきた。
なんてことを言ってしまったんだろう! これでは、まるで、私から告白しているようなものではないか!
慌てて、取り繕うとする。
『あ、いや、だから、これはあくまでヒロインとしての気持ちで! 私個人の意見というか!』
『小説のヒロインだったら、きっとそう感じるんじゃないかなって! そういう意味で! 航くんの言葉、すごく素敵だったから、ヒロインもきっと喜ぶよ!』
だが、もう遅いかもしれない。
彼は、私の言葉の真意に、気づいてしまったかもしれない。
あるいは、気づかずに、また「情報」として受け取るだけかもしれないけれど…。
返信が、怖い。
彼の反応を見るのが、怖い。
雨音だけが、しとしとと響いている。
永遠のように長い時間に感じられた。
そして、ようやく、彼からの返信が来た。
その内容は…。
『…そう、ですか…。…嬉しい、ですか…。弥生さんが、俺の言葉で…』
『…そっか…』
それだけだった。
絵文字も、感嘆符も、何もない。ただ、短い、呟きのような言葉。
(え…?)
どういう意味だろう?
喜んでいるのか? 困惑しているのか? それとも、呆れているのか?
全く、分からない。
『…あの、弥生さん』
彼からのメッセージは続く。
『…弥生さんの言葉、すごく…響きました。ちょっと、色々考えちゃって…俺、弥生さんの本当の気持ち、知りたくなりました…』
『…すみません。俺、ちょっと、頭の中、整理してみます。弥生さんの気持ちも、俺の気持ちも…』
『…今日は、もう、ありがとうございました。おやすみなさい。また、連絡します』
…頭を、整理する? 弥生さんの本当の気持ち?
それは、どういう…?
一方的に、会話を打ち切られてしまった。
まるで、何か、彼の中で、大きな混乱が起こっているかのような…。
(もしかして、気づいたのだろうか…? 私の、本当の気持ちに。そして、彼も、私に何かを伝えようとしてる…?)
私の、本当の気持ちに。
そして、それに、どう応えればいいのか、分なくなってしまった…?
だとしたら…。
私は、彼を、さらに追い詰めてしまったのかもしれない。
良かれと思って言った言葉が、彼にとって、重荷になってしまったのかもしれない。
(どうしよう…。私、また間違えてしまったのだろうか…。でも、彼が私の気持ちを知りたいって…)
不安と後悔と、そしてほんの少しの期待で、胸が押しつぶされそうになる。
スマホを握りしめたまま、私は、ベッドの上で動けなくなっていた。
窓の外では、雨が、まだ降り続いていた。
それは、まるで、私の涙のように、とめどなく、流れ続けているかのようだった。
零れてしまった、本音。
それは、彼に届いたのだろうか。
それとも、ただ、彼を混乱させ、傷つけただけだったのだろうか。
答えは、分からない。
ただ、この雨の夜が、私たちにとって、またしても、大きな転換点になるであろうことだけは、確かなような気がした。
それが、良い方向への転換なのか、それとも…。
今はまだ、知る由もなかった。しかし、彼の「また連絡します」という言葉に、ほんの少しだけ、希望の光を見た気がした。
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