第十六話:書けない彼と、言えない私
夏祭りの夜。人混みの中、航くんに強く手を引かれた、あの瞬間。彼の頼もしさと、繋がれた手の温もりに、私の心は確かに高鳴った。嫉妬や不安といった黒い感情も、一時的にではあれ、吹き飛んでしまったかのように思えた。夜空を彩る花火を、二人で隣り合って見上げた時間は、ぎこちないながらも、やはり特別なものだった。
けれど、祭りが終わり、それぞれの家に帰る頃には、私の心にはまた、もやもやとしたものが残っていた。莉子ちゃんの名前が出た時の、あの気まずい空気。そして、結局、私たちは、互いの本当の気持ちを探り合っただけで、何も確かなものは得られなかったのだ。彼は、私をどう思っているのか。私は、彼にどう思われているのか。その答えは、まだ霧の中だった。
そして、その霧は、夏休みが終わりに近づくにつれて、さらに深まっていくことになる。原因は、航くんの、深刻なスランプだった。
夏祭りの後、彼は「最高の取材ができました! これで、夏祭りのシーンもバッチリです。弥生さんと手を繋いだ時のドキドキ感、絶対に小説で再現します!」と、いつものように意気込んでいた。だが、数日経っても、彼から「原稿が書けた」という報告はなかった。それどころか、メッセージの返信が遅れがちになったり、電話をしても、どこか上の空だったりすることが増えたのだ。
『航くん、元気? 執筆、進んでる? あのドキドキ感、楽しみにしてるんだけどな』
心配になって尋ねてみても、
『あ、はい…なんとか…すみません、あのシーン、どう表現したらいいか、まだ悩んでて…』
『すみません、ちょっと今、集中してて…また連絡します』
といった、歯切れの悪い返事が返ってくるばかり。明らかに、何かに行き詰まっている様子だった。
(…もしかして、告白シーンが書けない、っていう悩み、まだ解決してなかったのかな…。「弥生さんをモデルにしたヒロインに、自分の本当の気持ちを投影するのが怖い」って、前に言ってたけど…)
以前、彼が「壁にぶち当たっている」と言っていた、物語のクライマックス。年下の主人公が、年上のヒロインに想いを告げる場面。あの時、私は彼に、自分の気持ちを重ね合わせるような、少しだけ踏み込んだアドバイスをしてしまった。それが、かえって彼を混乱させてしまったのだろうか?
あるいは…。
私の、最近の不安定な態度が、彼に影響を与えてしまっているのだろうか?
夏祭りの夜、莉子ちゃんの話が出た時に、私が一瞬見せた冷たい態度。それを、彼は敏感に感じ取っていたのかもしれない。そして、「弥生さんを怒らせてしまった」「嫌われてしまったかもしれない」と、思い悩んでいるのではないだろうか? 美咲にも「あんたの態度、航くんも気にしてるんじゃないの? 好きな子の元気がないと、男の子だって色々考えちゃうもんだよ」なんて言われたばかりだった。
そう考えると、胸が痛んだ。私の、勝手な嫉妬心や不安が、彼を苦しめているのだとしたら…。私は、なんて馬鹿なことをしてしまったのだろう。
(謝らなければ。そして、ちゃんと彼を励ましてあげなければ。彼が、私への気持ちを表現できないでいるなら、私が勇気を出さないと…)
そう思うのに、いざとなると、言葉が出てこない。
「あの時はごめんね、ちょっとヤキモチ妬いちゃって」なんて、今更どう言えばいい?
「気にしないで、頑張って」と、無責任に励ますのも違う気がする。
結局、私はまたしても、どうすればいいのか分からず、ただ時間だけが過ぎていくのを、もどかしい気持ちで見守ることしかできなかったのだ。
そんなある日の夕方。私は、航くんから「どうしても相談したいことがあるんです。今日、少しだけお時間いただけませんか?」という切羽詰まったメッセージを受け取った。もちろん断る理由はない。私たちは、いつもの図書館の閉館後、近くの公園で会う約束をした。
公園に着くと、ベンチに座って俯いている航くんの姿があった。その背中は、いつもよりもずっと小さく、丸まって見えた。
「航くん」
そっと声をかけると、彼はびくりと肩を震わせて顔を上げた。その顔は明らかに寝不足で、目の下にはうっすらと隈ができている。
「弥生さん…来てくれて、ありがとうございます…」
力なく、挨拶を返してくる。
「ううん。どうしたの? すごく、疲れてるみたいだけど…」
心配で、思わずそう尋ねてしまう。
「…やっぱり、小説、行き詰まってるの?」
私は、彼の隣に静かに腰を下ろし、できるだけ優しい声で尋ねた。
彼は、一瞬だけ、驚いたように私を見た。そして、すぐに視線を落とし、小さな声で呟いた。
「…はい…。…全然、書けなくて…。弥生さんの言葉だけが頼りなんですけど、こんな状態じゃ、またアドバイスを求めるのも申し訳なくて…」
その声は、か細く、自信なさげで、聞いているこちらまで胸が苦しくなる。
「…告白シーン?」
私が核心を突くと、彼は、こくりと、力なく頷いた。
「…はい。…どうしても、書けないんです。…どんな言葉で、どんな風に伝えればいいのか…。どんな結末にすればいいのか…。…何もかも、分からなくなっちゃって…。弥生さんをモデルにしたヒロインに、俺自身の気持ちを重ねて書くのが、怖くて…もし、これが弥生さんの本当の気持ちと違っていたらって思うと…」
彼は、まるで迷子の子供のように、途方に暮れた表情をしていた。
「…俺、やっぱり、才能ないのかもしれません…。ラブコメなんて、書けるはずなかったんだ…」
自嘲的な言葉が、彼の口から漏れる。
「そんなことない!」
私は、思わず、強い口調で否定していた。
「航くんには、才能があるよ! 絶対に! だって、あんなに素敵な物語を書けるんだもん! 私が、一番よく知ってる!」
私の、必死な声に、彼は、少しだけ驚いたように顔を上げた。その瞳が、潤んでいるように見えたのは、気のせいだろうか。
「…でも…書けないんです…。一番大事なところが…弥生さんへの、本当の気持ちが…」
「…」
かける言葉が見つからない。ただ、彼の苦しみが、痛いほど伝わってきた。
(彼も、私と同じように、悩んでるんだ。自分の気持ちをどう表現すればいいのか、分からなくて…)
「…弥生さんは…どう思いますか…?」
彼が、すがるような目で、私を見つめてきた。
「もし…もし、弥生さんが、俺の小説のヒロインだったら…。どんな風に、告白されたいですか…? どんな言葉なら、弥生さんの心に響きますか…?」
…また、その質問。
雨の夜のメッセージの時と同じ、核心に触れる問いかけ。
でも、今度は、彼の表情は、あの時よりもずっと切実で、真剣だった。彼は、本当に、答えを求めているのだ。このスランプから抜け出すための、ヒントを。
(私に何ができるだろう…? 彼が、私への気持ちを書けないでいるなら…私が、彼に伝える勇気を与えるしかないのかもしれない)
正直に、私の気持ちを伝える? 「あなたからの告白なら、どんな言葉でも嬉しい」と?
いや、それはダメだ。それは、彼への答えではなく、私の願望の押し付けになってしまう。
かといって、また一般論で誤魔化す? それも違う気がする。彼は、もっと具体的な、彼自身の物語に繋がるようなヒントを求めているのだ。
(そうだ。二人で、一緒に考えてみよう。彼の物語を、私たちの物語を)
私は、一つの可能性に思い至った。
彼が書けないのは、「告白」そのものではないのかもしれない。
告白に至るまでの、「覚悟」や、「決意」を描けないのではないだろうか?
そして、告白された側の、「戸惑い」や、「喜び」を、リアルに想像できないのではないだろうか?
だとしたら…。
私が伝えるべきなのは、「どんな告白が嬉しいか」ではなく、彼と一緒にそのシーンを「体験」することなのかもしれない。
「…航くん」
私は、意を決して、口を開いた。
「…告白って、すごく勇気がいることだと思うんだ。自分の全てをさらけ出して、相手に想いを伝えるんだもんね。…もし、断られたらって考えると、すごく怖いよね」
私の言葉に、彼は、こくりと頷いた。その表情には、共感の色が浮かんでいる。
「…でもね、それでも、伝えたいって思うのは…それだけ、相手のことが、大切で、どうしようもなく好きだから、なんだと思うんだ」
「…」
「だから…主人公くんも、きっと、すごく怖いと思う。でも、その怖さ以上に、ヒロインへの想いが強いから…だから、告白するんじゃないかな?」
「…怖さ、以上、に…?」
「うん。失敗するかもしれない、傷つくかもしれない。それでも、この気持ちを伝えずに後悔するよりは、ずっといいって…。そう思えるくらいの、強い気持ちが、彼の中にあるはずだよ」
私は、彼自身の言葉を思い出しながら、そう語りかけた。
「…だから、書けないって悩む前に、もう一度、主人公くんの気持ちと、向き合ってみたらどうかな? 彼が、どれだけヒロインのことを大切に思っているのか。どうして、リスクを冒してまで、告白したいのか。その『覚悟』の部分を、しっかり描くことができれば…きっと、告白の言葉も、自然と出てくると思うんだ」
私の言葉を、彼は、食い入るように聞いていた。その瞳には、少しずつ、光が戻り始めているように見えた。
「…それからね」
私は、続けた。
「…もしよかったら、今ここで、私と一緒に、そのシーンを考えてみない? 私がヒロイン役をやるから、航くんは主人公くんになって、アドリブでいいから、想いを伝えてみてほしいの。そうすれば、何か掴めるかもしれないし、私も、ヒロインの気持ちをもっとリアルに感じられると思うから」
「えっ!? 弥生さんが、ヒロイン役を…!? 俺が、弥生さんに、告白を…!?」
彼は、顔を真っ赤にして狼狽えている。
「ふふ、あくまでお芝居だよ。でも、本気でやってみないと、意味ないからね? さあ、航くん、勇気を出して。私は、ちゃんと受け止めるから」
私は、悪戯っぽく笑いながら、彼を促した。
彼は、しばらくの間、戸惑い、逡巡していたが、やがて意を決したように、大きく深呼吸をした。そして、真っ直ぐに私の目を見つめてきた。その瞳には、緊張と、恥ずかしさと、そして、ほんの少しの期待が揺らめいていた。
「……や、弥生さん……。あの……俺……」
彼の声は震えていた。でも、その言葉は、紛れもなく、彼自身の心の奥底からのもののように感じられた。
最初はぎこちなかったが、次第に二人の本音が混じり始め、航くんは、言葉を探しながらも、必死に想いを伝えようとしてくれた。彼の言葉は、不器用で、飾りがなくて、でも、だからこそ、私の心に強く響いた。
「……弥生さんが、好きです。初めて会った時から、ずっと……弥生さんの笑顔を見るだけで、幸せな気持ちになれるんです。だから……俺と、付き合ってください……!」
アドリブのはずなのに、その言葉は、あまりにも真に迫っていて、私の心臓は激しく高鳴った。涙が、じわりと滲んでくる。
「……航くん……」
私は、彼の言葉を、彼の想いを、しっかりと受け止めた。そして、自然と、ヒロインとしての、いや、私自身の答えが口をついて出た。
「……私も……航くんのことが、好きだよ……。だから……はい、喜んで……」
言い終えた瞬間、私は恥ずかしさで顔がカッと熱くなり、思わず俯いてしまった。航くんも、顔を真っ赤にして、言葉を失っている。
気まずい沈黙。でも、それは決して不快なものではなく、むしろ、温かくて、優しい空気に満たされていた。
「……な、なんだか、本当に告白しちゃったみたいですね……」
先に沈黙を破ったのは、航くんだった。
「……うん。でも、すごく、ドキドキした。航くんの気持ち、ちゃんと伝わってきたよ」
私も、まだ少し震える声で答えた。
「……俺も……弥生さんの気持ち、すごく嬉しかったです。……なんだか、書ける気がしてきました。弥生さんのおかげです」
彼の表情は、まだ完全に吹っ切れたわけではないようだったが、さっきまでの絶望的な色は消え、代わりに、静かな決意と、確かな手応えを感じているような光が宿っていた。
その時、ふと、彼の背後にある窓の外に目をやると、いつの間にか、雨が上がっていることに気づいた。厚い雲の切れ間から、夕暮れの淡い光が差し込んできている。まるで、彼の心の中の霧が、少しだけ晴れたことを、祝福しているかのようだった。
「うん。頑張って。…応援してるから。航くんが信じる、二人の結末を、私も楽しみに待ってる」
私は、心からのエールを送った。
まだ、スランプを完全に脱したわけではないだろう。
告白シーンを書き上げるのは、依然として、彼にとって大きな挑戦のはずだ。
そして、私自身の心の中の、嫉妬や不安も、まだ完全には消えていない。
でも、それでも。
私たちは、こうして、また少しだけ、前に進むことができたのだ。
互いに、悩み、迷い、そして、支え合いながら。
この、不器用で、もどかしい関係。
これもまた、ラブコメの、一つの形なのかもしれない。
私は、隣で再び何かを考え始めた彼の横顔を、そっと見守りながら、そんなことを考えていた。
そして、心の中で、密かに願うのだ。
(…航くん。あなたの物語も、そして私たちの物語も…どうか、ハッピーエンドになりますように…。いつか私も、あなたに本当の気持ちを伝えられる日が来るのだろうか…)
雨上がりの公園に差し込む、優しい光の中で。
言えない想いを抱えたまま、私は、ただ、彼の背中を、静かに見つめ続けるのだった。
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