血|縁

紫陽_凛

見せモンじゃねえぞ

 父がありとあらゆるもので、例えば拳で、例えばマグカップで、例えば偶々持ってた箸で母を撲つので、撲たれた母は「お前だけは、お前だけは優しい子になりなさい」と僕を抱きしめた。「お前ばかりは優という名の通りになって欲しい」と言うのが、やがて父の横暴に耐えかねて自死を選んだ母親の願いだった。

 母の葬儀のとき、まだ若い、高校生だった叔父が父に包丁を向けたのは当然の流れだと思う。僕は極めて冷静に彼を止めた。涙は必要に応じて流れたし、それまで子どもっぽくないと言われつづけた振る舞いが功を奏した。健気な子どもが見せた涙に、誰もが涙を誘われた。叔父は包丁を下ろして姉の死に咽び泣いた。

「ゆうちゃんは優しい子になって欲しいってずっといってたもんな」

 それから叔父はそんなことを言った。僕は頷いて、内心で毒づいた。なら包丁なんか取り出すんじゃねえよ。だけど十歳ながら相応に分別のついていた僕は叔父の背中に腕を回してうんうん言いながら泣くフリをしたのだった。


 そんな僕が叔父くらいの年齢になる頃には――甘いマスクだけが取り柄の父だったから、その血を引く僕も相応に甘いマスクだったわけで、その甘さを吸うために同級生の女子が沢山群がってきた。イケメンは性格が良くて優しいという幻想はどこから来るんだろう。僕はそんな嘘を流布する奴を片っ端から絞めて殺してやりたい。人は日常の中にすら偶像を求めたがる。おかげで女子相手にやりたくもない事をやったし、言いたくもないことを沢山言った。教師に媚びては嬉しくもない褒め言葉を貰い、順当に彼女を作っては飽きた。チャラいという形容詞が尾ひれのようについてくる頃には、僕はある衝動と戦わなければならなくなっていた。

 それは誰かを心底愛したいという衝動だった。父が母にそうしたように。母が受け止めきれなかったそれ。僕の体に流れている血の半分に宿るそれ。母がいなくなってから、僕に矛先がむくようになった

 僕はそれを心底嫌悪していた。父のそれが愛情の裏返しであることは早々に気づいていた。なんなら母親が生きている時から気づいていた。父は母を心底愛していたから撲ったのだ。あれは彼の愛なのだ。彼は暴力をしてしか人と繋がれない男だった。

 だけど、僕は撲つことで誰かと繋がりたくはない。でも、――愛したいなぐりたい


 父の投げつけてきたマグカップの破片を片付けていると、父の拳が僕の後ろ頭を撲つ。おかげで、手を切った。だらだら流れる血を見ていると、父親が不機嫌に吐き捨てた。

「お前気色悪いわ。おれが何しても、黙って、後片付けして、由子ゆうこのマネか。あ?」

「別に」

 父は僕の胸ぐらを掴み、じっと僕をにらみ据えた。そして拳を振り上げた。

「由子と同じ目しやがって。当てつけのつもりか。馬鹿にしやがって」

 僕はすかさずそのデコに激しい頭突きをした。父親の手を振りほどいて、陶器のかけらで切った手でやつの首をつかんだ。僕の血が父親の首筋から鎖骨へと流れていく。鬱陶しい血。

「自分で好きな女殺しておいて言うことがそれかよ、アホくさ」

 額から滴る血が唇に到達した。鉄臭い。唇から滴る血をぐっと拭って、僕は父親の頭をつかんだ。殴ろうとは思わなかった。殺そうとは思った。でも殺したら面倒だからやらない。それまでのことだった。

「お前、マジでもういいよ。……お前のこと父親と思ったことないし」

 わかれの言葉をそれにしたのは、僕なりのだ。


 荷物を段ボール箱に詰めて家を出た僕が頼ったのは母の弟にあたる叔父だった。叔父は僕を快く迎えてくれた。そもそも義理の兄に思うところがあったのだろう。叔父は二人きりの話を好み、二人だけの秘密を共有することをこよなく愛していた。

 後ろ頭で括った団子の黒髪が、彼のトレードマークだった。笑ったときのえくぼが若い頃の母に似ていた。彼の良いところは、僕のことを「イケメン」と呼ばないところと料理がうまいことだった。彼の作るオムライスは絶品だった。なんでも洋食屋で調理員をやっているということだった。僕は彼のその腕が気に入っていた。

「優くん、うちで働かない? 優くんならみんな大歓迎だよ」

「僕、不器用なんで、無理ですね」

 彼を失望させたくないと思い始めたのは僕が高校を卒業する春だった。彼は僕の本性を知らないし、知る必要もないと思った。あの男の血が流れている僕はいつかきっと叔父を殴る。だから叔父とは一定の距離を置いておきたかった。

 だけど、叔父は甥である僕のことを相当に気に入っているらしかった。僕の感情は計算できても叔父の感情までは勘定にいれていなかったので、叔父が僕にそれなりの好意を抱いていると知ったときは驚いた。

「これ、好きなんでしょ。優くん。昔、姉さんが言ってた」

 オムライスを差し出すなにげない笑顔が母によく似ていることに気づいた時、僕は叔父のもう一つの気持ちにも気づいてしまった。

 それは、高校時代僕を悩ませた女子の視線によく似ていたのだ。イケメン、優しい、誰にでも分け隔てない――そうした偶像を見る目に似ていた。いや、そのものだった。血縁から遠く離れたその感情を、僕は嫌悪した。

 さりげなく肩に置かれた手を振り払い、僕は叔父を拒絶した。

 そしてすかさず、そのみぞおちに一発拳を入れた。

 叔父はうめいてよろめき、何が起こったのか分からないと言った顔をしていた。僕は続けて叔父の頬を張った。殴った。撲ってしまった。

 やってしまった。後悔とともに、何かがひたひたと心を満たしていくのがわかった。いちど乗り越えた後はもう、箍が外れたように繰り返すまでだ。母の言葉でさえも僕を止められない。

 きっと明日も、僕は叔父を殴るだろう。

「叔父さん」

 僕は頬を押さえている叔父に向かって言った。

「僕は貴方が嫌いな、あれの息子なんですよ」

 叔父は何も言わなかった。ただ床に落ちてしまったオムライスを見下ろしていた。

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