第四章∶出・エジプト 一節 大族長との謁見
翌日、ネケン一行とバラカ、カカセオは共にネケンへと旅立った。
ヌエベからメハ(現在のアブシンベル)までロバで三日。
そこからナイルを北に下りネケンへと向う。この行程はセヘテプが使うルートであり、途中オアシスに寄りながら旅路は進んだ。
ナイルへ近づくにつれて大気に水の匂いが混じりだす。
メハ付近では、迫り来る水が乾いた大地を飲み込み始め、葦の茂る湿地が広がっていた。地を這うように靄が立ちこめ、あたり一面が水に染まる前触れのようだった。
船に乗り換えネケンに向う途中、広々としたナイル川の両岸には町や村が島のように孤立しケシ粒の様に点々と広がっている。
三日目の昼を過ぎた頃、一帯に島が増え、その中に一際大きな島が見えてきた。
島々を沢山の立派な船が、帆を膨らませ往来しナイルを横切る。
カカセオは初めて見るその光景に心を躍らせた。
(これが氾濫期のナイルか…まるで水の世界だ。)
セヘテプはまっすぐに川を眺めながら大きな島を指差し、バラカとカカセオに言った。
「あれが我が町、ネケンだ。雨季のナイル付近では乾季と異なり辺り一面が水に沈む。孤島となり船がなければ隣村までも行けぬ。我らはこの三か月の間、船の民となるのだ。」
「船の民…」
カカセオは眼に広がる景色に未だ見ぬ大海への想いを馳せずにはいられなかった。
ネケンに上陸すると、そこにはナブタプラヤとはまた違う活気が満ち、大勢の人々で賑わっていた。
人々はセヘテプ一行の姿を見ると、その帰還を労うように次々と集まってきた。
そして、その好奇心に満ちた視線は自然とバラカとカカセオに向けられる。
二人は、自らがナブタプラヤを代表してこの地を訪れたことを誇るかのように、堂々とその視線を受け止め、胸を張って大きく一歩を踏み出した。
トヘルはその姿を横目で確かめると、二人へ対する好意の高まりを感じる。
一行はそのまま大通りを抜け、王の館へ入った───
カカセオは館の中に入ると初めて見る様々な金属の装飾に驚きを隠せなかった。
ネケンに入ってからというもの、その高度に発達した文化に強大な力を感じざるを得なかった。町の外に泊まっている大小様々な船を見ても、これならば二艘の大型船を容易く用意出来ると確信したのだ。
族長の館に一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
外の喧騒はまるで隔絶された別世界の出来事のように感じられ、そこには静寂と威厳が満ちていた。
光の差す天窓からは金の置物が揺らめいた。それは丁寧に作られた土レンガの壁と妙に融和し、独特の雰囲気を醸し出していた。
護衛が並ぶ廊下を抜けると、広間に変わりその真中のテーブルには幾人かの族長と共に一際品の良い男が真ん中に座り、優しげな眼差しを向け一行の帰りを待っていた。
油できちんと整えられた長い髪、一見して上質と分かる亜麻のローブ、品の良い金のブレスレット、その出で立ちに神聖ささえ滲み出るような雰囲気を醸し出していた。
天と繋がりを持つようなその佇まいは思慮深さと気品を携えている。
これがネケンの大族長メスウトか…
バラカとカカセオは、その男が放つ霊的なエネルギーに圧倒された。
「諸君、ヌエベでの大競技会への視察を経て、ナブタプラヤの若者二人を引き連れ戻って参った。」
セヘテプが堂々とそう告げる。
族長達の視線と共にメスウトは六人を見渡すと笑みを浮かべ応えた。
「セヘテプと、その一行よ。よくぞ無事に戻ってた。そして、ナブタプラヤの二人よ、よくぞネケンへ参った。長旅だったろう。」
バラカは応えた。
「ネケンの大族長、お会いできて光栄だ。ナブタプラヤの地からやって参ったバラカだ。」
カカセオに目で合図を送ると、カカセオはたどたどしさを必死に堪えながらバラカにならって堂々と声を上げた。
「ネケンの大族長、同じくナブタプラヤから参ったカカセオだ。」
メスウトはそんな二人の様子に微笑ましさを感じた。
そして、そこに二人の純粋さと関係性までをも見抜いたのであった。
「先ずは牛の贈り物に対する礼を言おう。誠に素晴らしい牛だ。セヘテプから話は聴いているが、私達もナブタプラヤへの関心は並々ならぬ物を感じている。この度はお前達の叡智を我がネケンに聴かせて欲しい。この時を楽しみにしていた。」
族長の間には優しい空気が漂った。外交とも言えるこの場がこの様な展開を迎えるのは珍しい事である。これはセヘテプへの信頼と、二人の純粋性、そしてメスウトの深い洞察が織りなした奇跡の様な場であった。
「一先ず、長旅の疲れを癒すが良い。そして、晩に皆で集まり話を咲かせようではないか。」
そう告げるとメスウトはセヘテプへ合図を送り、六人はその場を後にした。
カカセオとバラカが丁度夕食を済ませた時、護衛がドアを叩いた。
族長の間に行くと、メスウトを中心にセヘテプ、ネフェルス、アクメス、トヘルと族長達がテーブルに集まっている。
ある族長は初めて見るナブタプラヤの民に懐疑的な視線を投げ、またある族長は静かに見守っていた。既にネケン側だけでナブタプラヤについて何か話されていた様子であった。
二人が席に着くとセヘテプが告げる。
「これより、ナブタプラヤから二人を招き、その文化や今後の展望などについて話し合いを持ちたい。」
「先ずは、ナブタプラヤの星読み文化についてその天体の動きや精神性について話を伺いたい。」
バラカはぐるりと見渡し、メスウトに視線を向けるとナブタプラヤの星読みの詳細や神話、信仰を事細かに話をした。
そこには動物達と人間との繋がり、木々や草花との関係性、自然界と共に生きる術と教訓、知恵を包括した世界観が広がっていた。
そして、その話は人間社会における半族という仕組みによる婚姻関係、死生観にまで及んだ。
その話は長い時間をかけて語られたが、誰もがその物語に引き込まれ、目を逸らす事が出来る者はいなかった。メスウトや族長はバラカから放たれる言葉一つ一つに驚き、感嘆した。もはやそこに懐疑的な視線を送る者は誰一人としていなかったのである。
ひとしきり話終えるとセヘテプは口を開く。
「この様にナブタプラヤには極めて洗練された天への理解がある。その神話、特にホルスの右目が太陽を意味し、左目が月を意味するという解釈は、我らネクベト(白いハゲワシ)を信仰する民にとっては新たな視点である。」
眉間にしわを寄せたネフェルスが続ける。
「我らの世界観では人は死後に冥界へと向かい、審判を経て永遠か消滅に別れるが……ナブタプラヤでは魂が生と死を繰り返す。どんな魂にもまた歩む機会があるというのか……これは、ある意味では、我らが持ち得なかった慈悲深い世界観といえる。」
そう言い終えると、カカセオは付け加えた。
「我々は、夜を冥界とは認識しない。ホルスは天空そのものだ。その黒い羽に星々の世界は輝く。夜とは、魂が天を旅する時間。その物語を星々は描き、語るのだ。」
ネケンの族長達はハタと気が付いた。太陽の恵みに対する神聖視は、明るく照らされた時間だけを正義と信じさせていた事、星々の物語に冥界の厳しさと厳格さを当てはめていた事に。
暫し、沈黙が世界を支配した。
メスウトが呟く様に言葉を発する。
「太陽と月の光を放つ身体に、夜の星を纏った両羽をはためかせ、天空をゆくホルス…か…なんとも詩的な素晴らしい解釈ではないか。」
セヘテプは言う。
「この世界観は、我らを更に慈悲深く、神への理解をもたらすのではないだろうか…」
「うむ…ナブタプラヤは我らにとって全く新たな扉を開かせた。」
ネフェルスがそう続くが、沈黙の力はすぐに放たれた言葉をのみ込んだ。
誰もがナブタプラヤから語られた物語に何か大きな可能性を感じ取り、それを必死に解明しようとしていた。
アクメスが沈黙を切った。
「諸君、我々にはナブタプラヤの叡智が必要ではないか?これはネケンが上エジプトを纏める転機が到来したと考えて良いやも知れぬ。」
──上エジプトを纏める?
その場にいた皆がアクメスに視線を移す。
「我らには既にその力がある。このナブタプラヤの信仰を融合させる事により、新たな神への理解を持って上エジプトを牽引する事が出来る。」
「近年、我らを取り巻く動乱から我らの思想を護るためには上エジプトの強固な結束が必要不可欠と見るが如何か?」
そうアクメスが言うとトヘルが続けた。
「この信仰の融合は、人々へ慈悲を与え人生を更に豊かにする物かも知れぬ。ネケンは精神的な支えとなり、その信仰の元に結束力を強化する要となりえる。」
皆は一斉にトヘルへ顔を向ける。
──トヘルが人々に対する慈悲を語った…
メスウトはトヘルの言葉とその真っ直ぐな横顔を見て、全てを察した。
(ナブタプラヤ…想像以上の民である。まさかあのトヘルがこうなって戻って来るとは…)
「──うむ。皆の思う所は理解しているつもりだ。そして、私もまた、そう思う一人だ。」
メスウトのその眼には未だ見ぬ上エジプトの姿がはっきりと映った。そして深く頷くと告げた。
「バラカ、カカセオ、お主達、ナブタプラヤの信仰と文化を我がネケンに取り入れたい。ネケンへ来ないか?」
ネケンの族長達から感嘆の声が漏れた。
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