鬼の棲家

 雨の暮れだった。

 ひんやりとした森山に続く道のそばにその屋敷はあった。照明は蝋燭と洋灯ランプだけという、何とも頼り甲斐のない薄明かりの屋敷だった。

 ──雨が木葉を弾く音が、しげく聞こえる。

 戸口の前に傘を広げた男が佇んでいる。暗い男だ。腰には佩刀はかせを携えているが、まるで刀などとは不相応なつまらない表情かおをした男だ。

 ガシャガシャ。男が戸を叩いた。随分とこの雨の風情を解さない──不粋な音だ。

 しかし男は雨に馴染んでいる。その茫とした面構えが雨とよく似合う。

 しばしあって、足音もなく戸口が開かれた。

 男だ。

「──津良つらのせがれか」

 低い声。家主のようだ。地味だがたかそうな装束に身を包んだ家主は、男を見ると聞き取りやすい声で話しかけた。二人とも随分と落ち着いている。男は──ああ、津良という男は──彼に呼ばれてこの屋敷まで来たのかも知れない。

 津良は傘も広げたままに頭を下げた。

「ご無沙汰してます。──おや、そちらは」

 津良は家主の奥に一人の子供を見つけた。まだ年端もいかない──とおか、それくらいの子供だった。

修司しゅうじ、挨拶しなさい」

 修司──。子供は修司というらしい。修司は家主に呼ばれおずおずと出たかと思ったら、何をいうでもなくただ小さく頭を下げた。家主はどうやら如何いか程かの位ある人間らしく、この修司という息子も、年離れてあろう津良に気を遣わせている。

「ああ、修司坊ちゃん。俺が分かりますか。津良です。津良廉蔵れんぞうです」

 廉蔵は柄にもないような優しい顔をして腰をかがめたが、耐え難くなった修司は決まり悪そうに引き退がってしまった。

 覚えていなかったのだろう。


 ああ、やはり──廉蔵は家主に呼ばれていたらしく、廉蔵はそのまま家主の部屋に通された。

「ずいぶんと薄ら暗い屋敷ですな、こりゃ何か見えても仕方ない」

 廉蔵は礼だとか節だとかに暗い男らしい。軽口を叩かれた家主の方の男は、だというのに事も無気に返す。

「修司のためだ。君には分かるだろう」

「それで狂っちまっちゃあ世話ないですよ」

 やはり作法ない男だ。

 どうやら間合いを見るに、家主は廉蔵に何かを頼もうとしているらしい。体裁か──家主は逡巡──言いづらそうにしたかと思ったが、すぐに口を開いた。

「修司に憑いたものを落としてくれ」

 廉蔵はそれに、少しの感慨もなく「ええ、そのつもりで」と短く言うだけ言って、家主の部屋をあとにした。


 ※


 修司がじっと見つめる。

 眼の先には箪笥がある。いや、修司が見つめているのは箪笥ではない。──箪笥の少し開かれた隙間である。

 隙間の闇。

 修司はその闇から眼を離せないでいた。

 修司は嬉々として闇を覗いているわけではない。それは心の──具体的な言葉ではないが、──じんわりとした興味──いやむしろ、これは恐怖というに近い。

 しかし怖いもの見たさ、というには、修司はその闇を恐れすぎている。修司は闇を見たくない。しかしどうにも闇見つけると眼が離せないのだ。

 ──そうだ。まさに、という言葉がい。


「──こりゃあ、重症だな」


 開かれたふすまに立つ廉蔵。修司はそこで、ようやくその男の存在を認めた。修司は闇に気を奪われていたのである。

 廉蔵は、修司の真っ向に腰を下ろした。

 二人の間の座卓に開かれたふみは、──何が書かれているのか──細かな漢字が並んでいた。廉蔵もそれを一瞥して

「もっとやることはないのか」

 と一蹴した。そうだ。まだ幼い修司がこうも部屋に籠って文を読むばかりでは、さぞ気も滅入ることだろう。

 修司は廉蔵の登場からずっと不安で胸がいっぱいである。軒先で会ったときとは口調も異なる。またその相変わらずの胡散臭い顔も、修司の警戒心を掻き立てるばかりだ。ここに至っても、依然として修司は眼を合わせようともしない。

 それを感じて、廉蔵は辟易とした顔だ。

 ため息ともつかない呼吸が一拍あって、廉蔵は口を開いた。その内容は、まさに単刀直入という具合であった。

「旦那には世話になったんでな。親父のこともある──俺は、お前に取り憑いたを祓いにきた」

 もはやこの時間がもったいないと言わんばかりの語り口である。

 旦那というのは、おそらくは家主──修司の父のことだろう。

 廉蔵の「鬼」の言葉に、修司の眉が動く。

 当然の帰結。修司としても、何らかのものの仕業というのは察しているところだった。

「──父上は、と仰っていた」

 修司の不安が手に取るように分かる。修司は自分を襲うものが何か判然としないことさえ恐ろしいのだ。

「俺のいうも旦那がいうも正体は一つだ」

 廉蔵はその不安を察したのか、修司が欲しかった答えを与えた。

「旦那は何でもかんでも『憑き物だ』って括りやがるから困ったもんだ」

 廉蔵は鬼の正体について語った。曰く、鬼の正体は闇──いや、闇ではない。闇に潜むものだという。

 続けて廉蔵は

「しかし、そんなものは存在しない」

 と、自らの意を自ら打ち消す。

 廉蔵が言うには、その見避け難い存在しないものこそ鬼というらしい。

 修司は腑に落ちない顔をしたが、それ以上の説明はなく、どうにか自分を納得させる他なかった。

 そして、廉蔵は言った。

「闇を恐れるな」

 お前が恐れるものはそこにない、と──。


 ※


 家主は部屋中明るくするのを好まないそうだ。

「それでは修司のためにならん」

 廉蔵はこのわがままな注文を聞くしかなかった。廉蔵にしてみれば納得のいくところらしく、さほどの問答もなく了解していた。だからこそ廉蔵は、修司自身を変えようと思ったようである。

 廉蔵は三日三晩屋敷を歩き回って鬼の居所を捜した。

「鬼が僕の見る存在しないものなら、捜したって仕方ないんじゃないのか」

 その頃、修司は既に廉蔵と口をきける仲になっていた。窓辺に座ってっていた廉蔵に、修司が近付いて訊いた。

 廉蔵が吸殻を潰す。

「鬼はこの屋敷にいる。特別ボウズに取り憑いてるわけじゃない」

「じゃあ、父上が──」

「旦那は鬼に気付いてないんじゃなくて、気にならないだけだ」

 修司は息を詰まらせた。

「鬼はどこかに心根こころねを持ってる。どこかに宿ってるんだ」

 廉蔵は徐々に鬼の正体に近付いてきているようだった。しかしあと一歩発見には至っていない。

 言い返せずにいる修司に、廉蔵は何を思ったのか黙り込んだ。

 静寂。

「なあボウズ」

 そこで廉蔵は何かに気付いたらしい。

「今夜、お前にやってほしいことがある」

 まず廉蔵は、ありったけの照明を持ってきた。

 すぐに、筆を突く音が聞こえ出した。


 ※


 その夜になった。

 修司はいつもと同じ夜を過ごしていた。座卓の前に布団を敷いて、姿勢良く横たわっている。しかしいつもと違うのは、修司の枕元に置かれた廉蔵の刀の存在である。包みから放たれてこそいるが、鞘には収められたままだ。

 今夜、この佩刀を抜く気か。

 修司はまだ眠りには就けていない様子だ。やみの不安に抗って、心を落ち着けるように自らに訴える。

 ただ、廉蔵の言葉ゆえか、今宵の修司はいつもよりいくらか気丈であった。

 ──いや、波がある。

 修司は気丈と不安のはざまを右往左往としていた。

 そして、気付けば──、


 


 


 修司はそれを見逃さなかった。

 胸許から一振りの小さな短刀を持ち出して、修司はそれを私に突き立てた。気丈さの正体はこの短刀か──廉蔵に持たされていたようだ。

 激しい痛みと同時に、体が沈むように重く感じられる。満たされた水が流れ出るように、つい寸前まであった力が濤々とうとうと失われゆく。

 それと同時に、廉蔵の「鬼」が私であったことに気付いた。


 あの小僧! 私に気付いていやがったのか!


 私はとうに立っているのも精一杯である。

 しかし、ただ討たれるのを待つ私ではない。

 このままこの修司を食い尽くして、共に果てよう。そうすればあの小僧の思い通りにもなるまい。

 そうだ、そうすればいい──。




「──こりゃあ、話が早くて助かるな」


 開かれた襖に立つ男。廉蔵だ。私はそこで、ようやくその男の存在を認めた。私は修司に気を奪われていたのである。

 いつからいた。

 廉蔵が、一歩私に歩み寄った。一歩、さらにもう一歩。廉蔵の手には、修司の枕元にあったはずの佩刀が握られている。


 廉蔵と修司には見えていないだろう。

 その佩刀の、白々しく光る刃を──。


 よせ──



 ※   ※   ※



 声を上げるな

 

 オニにこの字は見えない


 オニはお前に取りツいてる


 オニはオレをケイカイして現れない


 お前をオトリに使う



 オニの気配を感じたら、迷わず突き刺せ


 あとはオレに任せろ



 ※   ※   ※



 八つの頃だ。僕は酷く周りのものが怖くなった。光の届かない部屋の隅や、見えもしない箱や籠の中──、使われなくなった井戸を覗いたときも、同じように感じた。

 なにより夜が嫌いだった。

 毎夜毎夜が、そのいやらしい手つきで僕の肌中を撫で回すのだ。

 僕は日に日に寝れなくなった。いやしかし寝ずにいることはできないから、そのに目を瞑って眠ろうとしたが、その不快な愛撫に僕は眠れない夜をいつも過ごしていた。

 父は僕のその様子に気付いていた。きっとについても察していたように思える。だから父上は廉蔵を呼んだのだ。


 父が戸を開けると、そこに傘を広げた男がいた。刀を入れているらしい包みを腰に差していたが、髪も髭も不精で、その眼も到底なにか人助けをするためにきた人間のものには見えなかった。

 侍をくびになった山賊みたいだ、と思った。

 だが僕のそんな偏見じみた思いとは裏腹に、彼は見事僕を救ってみせた。恐れこそあったが、僕は結局怪我の一つも負わずにことの始末を迎えたのだった。

 僕に取り憑いた鬼は祓われた。

 しかし鬼がいなくなったその夜──、


「旦那は何考えてんだろうな」


 最後にそれだけを言い残して、廉蔵は僕の家から去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

八雲尤明掌編小説集 八雲尤明 @kkym1ac

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る