第2話【ルール】
中森先生は、苦手だった。
──いや、正しくは嫌いだった。
でもその理由を、誰かに話すことはできなかった。
「お父さんとよく似ているな!」
そう言われたことがある。
彼は笑いながら、何気ない調子で。
けれどこのはの胸の奥で、何かがはっきりと形を持った。
──ああ、そうだ。
この先生が嫌いなのは、こいつが“父と同じ”だからだ。
機嫌が良いときは、やたらに優しく、褒め言葉を惜しまない。
けれど一度でも気に入らないことが起きると、沈黙と軽蔑で場を支配する。
生徒が授業中に咳をしただけで、刺すような視線を投げる。
「そういうの、授業の質を落とすんだよ」
平然とした声。その冷たさが、父とそっくりだった。
彼がこの街の高校に赴任してきたのは、このはの家が引っ越してくると知った直後のことだ。
まるで、わざと追ってきたように。
「尊敬してるんですよ、野ヶ巳さんのこと。家庭を持って、部下からも信頼があって──理想的な男性像だと思いませんか?」
あの笑い声が、まだ耳の奥に残っている。
中森は「家族ぐるみで仲良くしたい」と言い、何度も夕食に招かれた。
父と中森がビールを飲み、肩を並べて笑っていた夜。
このはは、冷めた味噌汁を箸でかき混ぜただけで、席を立った。
笑い声は、耳の奥でいつまでも止まらなかった。
──その彼が、今、改札の前で彼女に笑いかけている。
「おはよう。あれ? 今日はいつもの時間よりちょっと早いんだね」
「はい。たまたま、ちょっと早く目が覚めたので。先生も?」
「うん、朝の打ち合わせが入っててね。いつもより一本早く乗ろうかと思ってさ」
一瞬の沈黙。
このはは、わざと視線をホームの反対側へと向けた。
「先生、あそこのベンチ……座って待ってる姿、ちょっと見てみたいです」
中森は目を細め、少しだけ笑った。
「ベンチ?」
「はい、なんか……朝の光の中で座ってると、すごく先生らしくて。ちょっとだけでいいので」
ほんの少し首をかしげ、上目遣いで笑う。
この仕草が“効く”ことを、このはは知っていた。
父も、これで簡単に機嫌を直した。
中森は驚いたように一瞬目を見開き、照れ隠しのように肩をすくめた。
「……面白い子だな、君は。わかったよ。写真とか撮っちゃダメだからね?」
「しませんよ、そんなの」
彼は笑いながら、階段を上がっていく。しばらくすると言ってもいないのにエレベーターを使って降りてきた。
そんな出不精な所も父と一緒なのは織り込み済みでもあった。そして中森は赤いベンチの方へ歩き出した。
このはは“どの席に”とは言わなかった。
ただ、自然に視線を滑らせて、右から三番目を指し示すように見ただけ。
中森は、その視線の先に導かれるようにベンチへ向かう。
その様も、いつもの余裕、そして「見られていること」を意識した姿勢。
そのどれもが、吐き気がするほど父に似ていた。
──このはは、向かいの柱に寄りかかり、静かに彼を見つめた。
目を伏せ、口元にわずかな笑み。
満足ではない。優越でもない。
ただ、長い間止まっていた何かが、静かに回り始めたような感覚。
「先生、かっこいいですよ」
それが声になっていたのか、心の中の呟きだったのか、自分でもわからなかった。
構内に、風が流れた。
遠くで列車の走行音が近づいてくる。
鉄と風の唸りが重なり、ホームの空気が震える。
それでも彼女は動かない。
冷たくなった自分の手に気づきながら──
ただ、座る男をホームの反対側から見ていた。
よっこらせ
と、そんな呟きが聞こえるかのように中森は、あっさりと座った。
このはが促した通り──右から三番目、黒ずんだ“あの席”へ。
「中森、お前、妙に素直じゃんか。機嫌でもいいのか?」
ふいに出てくる聞こえようがない中森への悪口。
このはは、からかうような口調で笑ったが、すぐに目を細めた。
彼は少し考えるようにして、背中を軽く動かし──そして、背もたれに深く寄りかかった。
その瞬間だった。
このはの頭の奥で、何かが“結びつく”音がした。
息を吸い込むことさえ忘れる。
──あ、これだ。
いつだったか、父に言われたことを思い出す。
『ちゃんと座れ。背中を背もたれにぴったりつけろ。』
あの言葉。
食卓で。駅のベンチで。車の中で。
叱責のように繰り返された声が、今になって意味を変えて蘇る。
──あの女性は、たしかに座っていた。
でも、背中はつけていなかった。
他の男たちはどうだった?
疲れ切ったサラリーマンたち。大きな体で、深く腰を落とし、重さを背もたれに預けていた。
その“無意識の姿勢”が、みんなを連れて行った。
中森の姿が、重なる。
深く腰を落とした姿勢。まるで“委ねるように”。
このはは、見ていた。
あの席が、ほんのわずかに軋むのを。
次の瞬間、隣の背もたれのあたりで空気が“揺れた”。
見えない熱が立ち上がり、形のない“歪み”が生まれる。
そして──それは現れた。
“何かが来た”のではない。
“もともとそこにいた何か”が、姿を取り戻したのだ。
輪郭のない影。
光ではなく、闇でもない。
ただ、存在そのものの圧だけが、空気の中に浮かび上がっている。
中森の目が、ほんの一瞬だけ虚ろになった。
声も出さず、表情も変えず、ただ立ち上がる。
このはは、動けなかった。
怖かったからではない。
──わかってしまったからだ。
これは、もう止まらない。
そして確信した。
「深く腰掛けた時」
それが、“死の椅子”の条件だった。
なぜ男たちばかりが死ぬのか。
なぜ誰も気づかないのか。
なぜ、あの席だけが黒ずんでいるのか。
重さが伝わった瞬間、背筋までしっかりと背もたれに触れたとき──
“何か”が起動する。
駅のアナウンスが響く。
電車接近の警告音。
その中で、中森の足が線路の方へ進む。
教師の顔ではない。男の顔でもない。
ただ、“選ばれた者”の表情だった。
「先生──」
思わず声が出た。
だが、それは届かない。
中森はホームの端に立ち、線路の向こうをじっと見つめたまま動かない。
そして、電車の到着を測るように──一歩、踏み出した。
瞬間、音が消えた。
世界が息を止める。
風も、車輪の響きも、人の声も、すべて吸い込まれる。
そして次に戻ってきたのは、
鈍い、衝突の音だった。
悲鳴。駆け出す足音。非常停止ボタンを押す音。
ざわめきが、現実を引き戻す。
だが、このはは動かなかった。
まるで、長く狂っていた歯車がようやく“正しい位置に噛み合った”ように。
わたしは、わかってしまった
誰よりも早く。
誰よりも確かに。
──“死の椅子”は、本当に存在する。
そしてそれは、ただ座った者ではなく。
「正しい姿勢で座った者」を選ぶ。
それが、“あの何か”を起こす。
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