【短編ホラー】死の椅子
鬼大嘴
第一話【7:44】
謝ヶ坂駅は、郊外の住宅街の中央にあった。
四階建てほどのマンションがびっしりと並び、
朝にはベビーカーを押す母親と、通勤するサラリーマン、
制服姿の学生たちが入り混じって歩く。
高層ビルも商業施設もなく、けれど人の流れだけは絶えない。
この街の鼓動は、まるで駅そのものが刻んでいるかのようだった。
その中心に立つ謝ヶ坂駅──
正式な読みは「あやまりがざか」。
けれど、生徒たちは皆、もう一つの名前で呼んでいた。
「飛び降り坂」。
誰が最初に言い出したのか、もう誰も知らない。
けれど、その呼び名はあまりにも自然に口をついて出た。
もはや噂ではなく、生活の一部のように。
野ヶ巳このはは、そんな駅を毎朝使っていた。
高校に入ってから、もうすぐ一年。
自殺が多いという噂は入学前から知っていた。
けれど、彼女は半信半疑だった。
──実際に、それを見るまでは。
朝の通学路、七時台。
駅の喧噪の中で、突然の叫び声が上がる。
続く鈍い音と、止まる人の流れ。
その瞬間を、このはは何度か目撃していた。
十回近く。
だから、異変に気づいたのは自然なことだった。
上り線ホーム、八号車付近。
エレベーターを降りるとすぐ、赤いベンチが並んでいる。
六席あるうちの、右から三番目。
そこだけが、他よりも暗く濁った色をしていた。
初めて気づいた朝。
このはは無意識に立ち止まっていた。
薄曇りの光の下、その席の表面には、
まるで黒い影を塗りつけたような染みがあった。
「……あれ、汚れてる?」
近寄ってよく見ると、それはただの汚れではなかった。
乾いてはいるが、どこか艶を帯びた黒ずみ。
指で触れようとしたが、すぐに手を引っ込めた。
鉄のような、錆びた匂いが漂ってきた気がした。
──血だ。
そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。
それから、妙な法則に気づいた。
改札口からのエレベーターを降りた誰かが、決まってその席に座る。
そして、次の瞬間には──線路へと消える。
時間も、決まっている。
朝の七時四十四分。
上り線の電車が入ってくる直前。
「……どうして、誰も気づかないんだろう」
放課後、教室の窓際で、
沈みかけた夕陽を見ながら、このはは呟いた。
気づいたのは五回目の事故のときだった。
座るのは決まって大人──疲れた表情をした人たち。
だるそうにエレベーターを降り、腰を下ろし、
数分後には、まるで糸を引かれるように線路へと落ちていく。
偶然にしては、あまりに多すぎた。
そして何より気になるのは、あの黒ずんだ椅子。
他のどの席とも違う、どこか異質な“気配”。
「……もしかして、何かのルール?」
その考えが浮かんだとき、背後から声が飛んだ。
「あっ、このは!ねえ、聞いた?この公園、夜中に行くと誰もいないのに声がするんだって。
今、TikTokでも話題になってるやつ!」
友人のあいがスマホを見せながら笑う。
他愛もない噂話。
けれど、その言葉がこのはの中に沈んでいった。
──都市伝説。
(……そうか、そうすればいいんだ)
このはは夜、自室の明かりを消して、
スマホの画面だけを頼りに指を動かした。
匿名SNS【TXi】を開き、震える指で文字を打つ。
konohamiiii : まじの噂!
東向飛翔線・謝ヶ坂駅の上り線ホーム、8号車付近。
エレベーターを降りた先の赤いベンチ、右から3番目の黒ずんだ席。
朝の7:44前にそこに座った人は、必ず飛び込むらしい。
投稿後、反応はほとんどなかった。
だが、数時間後には閲覧数がじわじわと伸び、
五千を越えたあたりで、ぴたりと止まった。
まるで、誰かの視線がそこで止まったかのように。
──そして翌週。
朝のホーム。
いつも向かいのホームにいるこのはだが、その視線の先にあるエレベーターの扉が開くと、このはの心臓が跳ねた。
出てきたのは、スーツ姿の女性。
髪は短く整えられ、膝に黒いバッグを抱えている。
目は焦点が合っていない。
口元だけが、何かを噛みしめるように動いていた。
女性はためらいもなく、あの席に座った。
時刻は七時三十八分。
このはは、反対側のホームに立っていた。
一本早い電車を見送り、録画ボタンを押す。
スマホ越しに見る赤いベンチ。
その中央に、静かに座る女の背中。
「ほんとに……起きるかな」
小さな声が、列車の風にかき消された。
七時四十一分。
女性が前屈みになる。
バッグを足元に置き、両手を膝に乗せ、
視線を線路へ落とす。
七時四十三分。
接近メロディが鳴る。
ホームの空気が、重く沈む。
誰も彼女に気づかない。
ただ、時間だけが音もなく進んでいく。
──そして、七時四十四分。
女が立ち上がった。
電車の風が吹き抜け、髪がわずかに揺れる。
このはは、呼吸を止めた。
だが、女は線路へ向かうことなく、
一歩、後ずさった。
そして、改札の方へと歩き出した。
……飛び込まなかった。
このははスマホの録画を止めた。
画面には、電車に乗り込む人々の姿だけが窓越しに映っている。
さっきまでそこにいたはずの女性の姿は、もうどこにもなかった。
何かが違う。
いつもと、何かが。
ルールが外れたのか。
それとも、この女だけが例外なのか。
──いや、もしかして。
録画の存在に、気づいた?
SNSを開く。
前日の投稿を確認するが、“いいね”の数は変わっていない。
コメントも増えていない。
ただの噂。
ただの“面白そうな話”として、流されていく数字の羅列。
なのに、胸の奥では警鐘のような脈動が鳴っていた。
自分が乗る電車に乗り、このははスマホのカメラロールを開く。
確認の為に、何度も同じ動画を再生してしまう。
確かに座っていた。
あの席に。
確かに立ち上がった。
そして飛び込まなかった。
映像のどこにも異常はない。
ただ、その“当たり前さ”が、逆に不気味だった。
──なぜ、やめた?
理由が分からない。
胸の中に、もやのような疑念が広がる。
その夜、このはは再び【TXi】にログインした。
自分の投稿を開き、考える間もなくタグを一つ足した。
#死の椅子
“送信”を押した瞬間だった。
スマホの画面が、一瞬だけ暗転した。
反射的に画面を叩く。
電波の不調かと思ったが、すぐに表示は戻った。
ただ、投稿の上に──
見覚えのないアカウントが一つ、コメントを残していた。
mimi_watcher77 : みてたの?
「……え?」
思わず声が漏れる。
誰?
このアカウント名、見たことがない。
アイコンもない。
不気味なまでに無音のコメント。
返信を打とうとした瞬間、そのアカウントは消えていた。
まるで最初から存在しなかったかのように。
胸の奥がひやりと冷える。
不思議と、恐怖というより“居心地の悪さ”の方が勝っていた。
誰かに肩を掴まれたような、あの感覚。
──「みてた」って、誰が? 何を?
翌日の帰り道、このははイヤホンを外した。
車の音、人の足音、ざらついた風の音が耳に刺さる。
無意識にスマホを開き、また動画を再生する。
何度見ても、女性の動きは変わらない。
座る。
立ち上がる。
ただそれだけ。
異常はない。
だが、その“ただそれだけ”が、まるで編集された映像のように現実味を欠いていた。
「……今までは、録ってなかった」
呟きが漏れる。
そうだ。今までは録画なんてしていなかった。
見ただけだった。
いや──「見たつもり」になっていた。
実際、記憶を辿ると、飛び込んだ瞬間をはっきり思い出せる場面は一度もない。
どれも途中で切れている。
視界が歪み、気づけば人だかりの中。
誰かが泣いて、駅員の声が響く。
その繰り返し。
「……ほんとに、見てたのかな」
自分の声が、自分の耳で他人のもののように聞こえた。
その瞬間、足が少し止まる。
録画をしたせいで女は飛び込まなかった?
そんな偶然があるだろうか。
けれど、“見られていた”ということがルールを壊したのなら──。
「次は、録画しない。ちゃんと、目で見る」
このははそう決めた。
自分の目で、確かめる。
“死の椅子”が本当に存在するのかを。
そして、週が明けた月曜日。
いつもより早く家を出た。
駅に着いたのは七時三十五分。
冷たい朝の空気が肺に刺さる。
ホームにはまだ人が少なく、
電車待ちの列もいつもより短かった。
このはは、いつも例の椅子の正面、ホーム反対側の先頭に立つ。
エレベーターの金属扉が開く。
七時三十七分。
スーツ姿の中年男性が一人、ゆっくりと出てきた。
目の下に深いくまを刻み、ネクタイは締め切られていない。
肩が少し傾き、足取りが重い。
顔に生気がない。
(……きた)
彼は無言のまま、赤いベンチへ向かう。
右から三番目。
黒ずんだその席に、ためらいなく腰を下ろした。
このはは、呼吸を整える。
脈拍が上がるのを感じながら、視線だけを固定した。
男は前屈みのまま、じっと動かない。
両手は膝の上。
視線は足元の一点に落ちたまま。
七時四十。
七時四十一。
動かない。
空気が重くなっていく。
その中で──男の肩がわずかに震えた。
まるで、何か冷たいものに触れたかのように。
このはの目が、細くなる。
──違う。
男の“目”が動いた。
ほんの少し、右へ。
……そこには、誰もいない。
だが、彼の視線ははっきりと“誰か”を見ていた。
何かを見つけて、頷いたように見えた。
このはも、視線をそちらへ追う。
ベンチの右端。
6席あるうちの、いちばん右。
光の加減が妙だ。
そこだけが、鈍く濡れたように反射している。
黒ずんだ席と、同じ質感。
座面の角には、丸い擦れ跡。
まるで、誰かが腰掛け続けたかのように。
……誰か、いる?
思わず唇が動く。
男は、ほんのわずかに笑ったようにも見えた。
そして、七時四十三分。
男は立ち上がり、ホームの端へと歩き出した。
その時だけ、足取りが力強かった。
まるで“見えない誰か”に背中を押されたかのように──。
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