乙巳の変

アサヒ

第1話【虎に翼】

 在位23年、男はその一生を終えようとしていた。血を分けた弟が傍らに寄りそう。


「それでは兄上、私はこれで。くれぐれも一日も早いお体の回復をお祈り

もうしあげます」

「ああ、・・・・娘のことを頼んだ。お前も達者でな」


 答える男の声は冷たく、生気の失せた顔からは感情が感じられない。


 弟と入れ替わるように現れるのは男の腹心。


「これで本当によろしかったので?」


 腹心の声には怒気がまざっており、その言葉からは疑念がかくしきれない。


「ああ、問題ない・・後のことは、すべてそなたにまかせる・・・


 なおも何かいいかけた腹心はだが、ひらきかけた口をとじた。

 主人の瞼はとじている。男の睡眠時間は日ごとに増し、起きている時間との間隔は着実に短くなっている。死期が近づいているのだ。


 春。植物が目を出し、虫たちが土をでて活動をはじめるころ。


 主人の寝所をあとにし、男は屋敷の外に出る。主人が寝たきりの今、政治を行えるのは彼しかいない。


 男の視線の先、沈みゆく夕日がほのかに照らしているのは、男が仕える主人、その弟がひきいる一行であった。

アリのむれのような集団には、走ってもとても追いつけそうにない。


 季節の風を肌に感じながら、消え入るような声で男がつぶやく


「あれではまるで、虎に翼をつけて、野に放つようなものではないか」


 風に消えるその言葉はだれの耳にも届くことはない。


 だが果たして、その言葉が真実となることを、誰も知らない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る