第二章 縫い目
小さい頃、よく祖母の家に預けられた。
古い団地の匂いと、柱時計の音。
それに混じって、どこか不思議な空気を醸していたのは、押し入れの中に並ぶ数十体のぬいぐるみたちだった。
「おばあちゃん、、、おばあちゃん、、、」
「ちょっとお腹がやぶけとるだけたい。ちゃんと縫うてやれば、また元気になるけん、安心しときーね。」
白髪まじりの祖母は笑いながらゾウのぬいぐるみを見せてくれた。
くすんだ灰色のゾウのお腹から綿が飛び出していた。
チラリと覗いたゾウの裏地には綺麗な空色が広がっていた。
このゾウも元は綺麗な空色だったのだな...と幼ながらに感傷に浸っていると、あるものに気づいた。
「おばあちゃん、これなあに?」
中にはラベンダーの小袋が一緒に縫い込まれていた。
「よか夢ば見らるっごと、お守り入れとったけんね。」
祖母の声はいつも温かかった。
祖母の内側はきっと綺麗な色で満ちているに違いない。このゾウみたいに。
修繕の方法を教わったのは、小学三年のある晩だった。
妹は大切にしていた猫のぬいぐるみを抱えて泣いていた。
抱えられたぬいぐるみを見ると、片耳が破れて中から綿が覗いていた。
誤って手すりの角に引っ掛けてしまったらしい。
この日は両親が仕事で遅くなると聞いていた。
よりによってこんな日に、厄介なことになってしまった...。
妹を可哀想に思った俺は、祖母に電話をかけた。
針の持ち方、玉止めのやり方を教えてもらいながら、なんとか1人でこの緊急オペを成功させなければならなかった。
泣き疲れて寝ている妹の隣で、俺は震える手で小さな耳を縫った。
「心も一緒に入れちゃらんといかんとよ、そげんのが大事っちゃけん。」
おばあちゃんはこの言葉を口癖のように言っていた。
いつかのゾウにおばあちゃんがお守りを入れてくれたことを思い出し、
俺は妹が好きなラムネの匂い玉を綿に混ぜて入れておいた。
翌朝、妹は笑って飛びついてきた。「お兄ちゃん、すごい!ありがとう!」
その背中越しに、両親が「すごいなぁ!悠真!」と微笑んでいた。
あの瞬間、自分が何か特別な“温かさ”を感じたのを覚えている。
自分のしたことが、世界のどこかを、少しでも良くしたような、そんな気がした。
***
「おい、中里。この報告書、昨日の数値と違ってるぞ。お前、何見てんだよ」
昼休み前の会議室に、乾いた声が響いた。
主任の荒井。
怒鳴る理由はいつも雑で、今日は数値の誤差だった。
資料をチェックしたのは別の担当だと知っていても、名指しされるのは決まって俺だ。
「す、すみません。確認したときには──」
「言い訳すんな。次やったら、係替えも考えるからな」
その瞬間、周囲の空気が凍った。誰も顔を上げない。俺と目を合わせる者はいない。
誤差は0.3%。しかもシステム側の不具合。確認さえすればわかることだ。
でも誰も指摘しない。自分の身を守るのが最優先。それが“大人の対応”。
例に漏れず俺も今まで誰かに"大人の対応"をしてきた。
明日は我が身だ。誰も悪くない。悪いのはこの荒井だ。
いや、荒井だってまた別の誰かに──
──カーンコーン
昼休みのチャイムが鳴った。
この音が鳴ると、機械的に思考が遮断される。
昼食を食べ終えると、自販機でエナジードリンクを買った。
コーヒーよりカフェインが効くからだ。
眠気を抑えてまで、新井という理不尽のサンドバッグに徹しなければいけないのか。
こういう気持ちを情けないというのだろうか。
昼休みから午後の仕事への切り替えはぬるりと始まる。
というより、仕事が休みに侵食しているとった方が正しい。
午後からの事を考えるだけでも気が引けた。
終業のチャイムも、機械的に鳴り響くだけだった。
社内にはいつも残業をしている人が数人いる。
幸いにも、俺は比較的定時に上がれることが多い。
同僚からはたまに嫌味を言われることもあるが、荒井の理不尽から解放されるなら残業の方が幾分マシだとさえ思っている。
むしろ、毎日
会社を出て、自動ドアの向こうに出た瞬間、秋の風が顔を打った。
寒い。マフラーをしていなかった。
そもそも、あんなものを買う気力すらない。
電車の中、俺はただ肩をすくめて立っていた。
窓に映る自分の顔は見ないようにしている。
新卒の頃は何も意識していなかったが、ここ数年は窓を見ていない。
今日一日の結果発表のような気持ちになるからだ。
今日の俺は何点だったのだろう。自分の顔がその答えだ。
日に日に自分が本当の自分ではなくなっていくのを感じる。
そんなことを考えるようになって、気づいたら窓を見ないようになっていた。
家に着いて、鍵を閉める音に、少しだけほっとした。
ようやく、俺に戻れる。
俺は棚の上から、ひとつのぬいぐるみを手に取った。
百円ショップで買った、丸っこい犬のキャラ。名前も知らない。
人気キャラの類だったかもしれないが、俺にとってはただの入れ物に過ぎない。
ビーズの瓶を取り出す。ざらついた赤。スプーン一杯分をすくうと、静かにぬいぐるみの縫い目を解いた。
布を裂く音はほとんどしない。
針先で少しずつ広げて、その中に赤い粒を押し込む。
怒鳴られた言葉、逸らされた視線、飲み込んだ反論。
全部を、このスプーン一杯に閉じ込める。
ふう、と息が漏れた。
「……まあ、今日の分はこれでいいか」
“詰め替え”は、ただの儀式だ。
怒りや憎しみを見える形にして、中に入れて、縫い閉じる。
そうすれば、少しだけ整理できる気がする。少しだけ、軽くなる気がする。
ただの気休めだ。でも、これがないとやっていけない。
縫い終えた犬のキャラは、何も言わずに俺の膝の上に収まった。
あいかわらず、間抜けな顔をしている。でも、いい。
それでいいんだ。
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