第2話
5
「今、看護師さんを呼んでくるからね。」
声は確かに女の子だった。
それも小学生くらいだと思っていたのに
想像してたより年上だぞ。
何でここにいるんだ?
「どうやったらこんな倒れ方をするのかしらねー。」
俺を救出しに来たナースは不思議そうな顔をした。
裏返しになって俺を押さえ付けていた車椅子を元に戻したナースは
「こんなものが挟まっていたわ。」
と言って、車軸が噛んでいた黒い物を引き抜いた。
お袋が使っていたクロミちゃんのハンドタオルだ!
どうりで車輪の動きがおかしかった訳だ。
他人に迷惑をかけるなと言っておいて
自分は息子に大迷惑かけてんじゃねーか。
転倒したおかげで俺はまた緊急でCT検査室に連れて行かれ、要経過観察になった。
看護師たちは俺を目を離してはいけない要注意人物と見なすようになってしまった。
それを聞いたお袋は最初俺に謝ったが、
そのうち“ナースコールをしなかったアンタが悪い”と言い出した。
とにかくさんざんな状況で、
俺を監視するために、ナースステーションに隣接する部屋は、ナースが詰め所に来るたびに覗かれるようになった。
6
夕方、騒しい見舞い客が来た。
「河野、おまえ社長になったのかー?」
「個室なんてスゲーじゃん。」
「もうすぐ大部屋に引っ越しだよ。」
「じゃあ、今日はここで遊べるんだな。」
「大声は禁止だぞ、病院なんだから静かにしていろ。」
「おまえどうしちゃったんだ?」
「隣がナースステーションなんだ。」
「ナース!」
皆んな一斉ににテンションが上がった。
「それって、天国じゃん!」
(俺はその全員から白い目で見られているんだよ。)
西村がやたらとデカいビニール袋を渡してきた。
「みんなで横浜に遊びに行った帰りだ、
これ見舞い。」
「なんだこのデカいサメは?
おまえこれUFOキャッチャーで取ったんだろう。」
あはは
「こっちもちゃんとあるよ。」
西村はコンビニのレジ袋を自慢げに見せた。
「おまえこの暑いのに、肉まんなんかよく食えるよなー」
「肉まんじゃない、ピザまんだ。
西村、売ってる店よく見つけたなぁ。」
「へへ、まあな。」
内海が布団をめくって、目ざとく左足のギプスを見つけた。
「おー、ギブスか、懐かしいなぁ
俺もリトルリーグで骨折して
ずっとやってたわ。」
「応援メッセージとか書いたりしてなー」
「大野、マジック持ってたよな。」
「ああ、」
唯一、女子の大野が返事をした。
この大野と西村は俺の幼なじみだ、
小学生の頃は、2人とも大野によく泣かされていた。
そのせいか俺も西村も大野のことは女だと意識したことはないし、大野も男だけの中に1人でもズカズカ入っていく。
「あっ、おまえら何してるんだ!」
応援メッセージを書いていたはずのギプスは
いつのまにか卑猥なラクガキだらけになっていた。
「俺、おもて歩けないじゃないか!
それでなくても看護師に目を付けられてんだぞ!」
「しょーもな」
大野は片目を細めて、冷たい視線で見下ろした。
「拭けば落ちるよー」
「落ちるわけねーだろ!
油性マジックだぜ!」
「あーそっかー」
あははは
チクショー、
こいつら何にも考えてねー
どうすんだよ!
ナースがドアの向こうから
「河野さん、どうされましたー」
と声をかけてきた。
明らかに騒しいので煙たがられている。
「おまえら、もう帰れ!
さっさと帰れ!」
7
落書きをどうしようかとネットで検索したら、いい方法が見つかった。
アルコールか、
それならお袋が買ってきたでかいボトルが部屋に置いてあるぞ。
夜の看護師の巡回が終わってから
サイドテーブルの上の消毒用アルコールを
ティッシュにスプレーしてラクガキを擦った。
(おー結構落ちるじゃん。)
しかし
『どうせ使うんだから、大きい方がお得なのよ。』
と言って、買ってきたボトルは特大サイズだった。
牛乳パックよりでかい。
つまりどこかに置いた状態でなければスプレーできないタイプだ。
ティッシュをその下に1枚ずつ広げてアルコールを染み込ませるのがまだるっこしい。
直接ギプスにスプレーすればいいんだ、
俺はベッドから降りてボトルを床に置きスプレーポンプを押した。
しかし噴射口は真下に向いていた。
消毒液は、床ばかりビショビショ濡らした。
仕方がない、
俺はノズルキャップを外してアルコールを直接ギプスにボタボタとふりかけ、
そこをティッシュで拭うことにした。
(なかなかいけるじゃん)
床に座り込んで、ずっとこの作業を繰り返していた。
なんだか頭がボーっとしてきた。
(アレおかしいなあ)
ふわふわした頭で消毒液のボトルを持ち上げようとしたら力が入らず
つるっと手が滑った。
そのままボトルは転がって、ベッドの下に入り込み、コポコポとアルコールが床に溢れてきた。
ヤべっ!
俺はベッドの下に頭を突っ込み
右手でボトルを探った。
届くか届かないかの位置にあるボトルを手繰り寄せようとして、ベッドの下に上半身を潜り込ませると、必死に右手を伸ばした。
突然目が霞んできた
息が苦しい。
どうしたんだ?
心臓がドキドキする。
この状況はヤバいんじゃないか?
ナースコールはダメだ、
ギプスのラクガキが見つかる。
とにかく新鮮な空気を吸いたい、
ベッドの下から何とか抜け出して
車椅子に移ろうとして手を掛けたが、腕に力が入らず、そのままズルズルと床に倒れてしまった。
ナースステーションの方から声が聞こえる、
「ごめんなさいねー
気をつけて帰ってね。」
「いいえ、どうせ暇ですから
いつでも呼んでください。」
ドジャースの声だ!
俺は必死で床を這っていき
ドアの隙間から肘から先を出して
「こっち、こっち」
と手招きした。
“ヒアッ”
と小さな悲鳴が聞こえた。
「に、逃げないで、怪しい者ではないんだ。」
(脅かしちゃダメだ。)
「きみひとり?
ち、近くにナースはいないよね?」
妙な間があった。
「...いないわ。」
「ハアハア、そ、それじゃあ、気付かれないようにして部屋に入って来てくれないか?」
「えっ?」
また暫く間があった。
「分かったわ。」
奇跡だ!
ドジャースが俺を救ってくれた!
しかし、開かれた扉の前には、
魔人ブウみたいな体形をした、年配のナースが立ちはだかっていた。
「あなた、女の子を部屋に連れ込もうっての!」
(うわー、最悪だー!)
「顔真っ赤じゃない、
怪我人の癖に、何やってんの!
あら?」
太った看護師はクンクンと鼻をならした。
「何、この匂い?」
看護師はそう言うと、
部屋にズカズカ入り込み、
エアコンを最強にして、窓を開けた。
「なあに、これ、
アルコールの容器ひっくり返したの?」
年配のナースは、拭き取ったティッシュの山を見てそう言った。
「まさか、これを飲もうとしたわけじゃないわよね。」
俺はこれ以上できないほどブンブンと首を横に振った。
もう俺の意識は限界だった。
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