ひかりの風

御幸 塁

風が運んできたもの

窓の外では、春が遠ざかっていた。桜の花びらはもう枝にとどまらず、ただ風に舞うだけの存在になっていた。


 ベッドの上で、春野結はひとり、布団を握りしめていた。白く光る天井が、まるで冷たく笑っているように見えた。

 事故のあの日から、もう三週間。医師は告げた——「歩けるようになる見込みは、残念ながらありません」と。

 結は走ることが好きだった。校庭の端から端まで、風と一緒に走っていた。誰よりも速く、誰よりも遠く。風が身体の中を駆け抜ける、その瞬間の高揚感が、生きている実感だった。


 けれど今、その風はもう二度と、自分を通り抜けてはくれない。


「……あのさ」


 声がした。振り返ると、カーテンの向こうから、ひとりの少女が顔を覗かせていた。


「泣いてた?」


 見知らぬ顔。でもその目は、どこか宙を泳いでいた。目が合わない。でも、まっすぐにこちらへ語りかけてくる。


「ごめんね、変なこと言って。でも、泣いてる空気って、ちょっとわかるんだ」


「……誰?」


「この部屋のとなりの子。朝倉ひかり。よろしく」


 ひかりは笑っていた。カーテンをめくってベッドのそばまで来ると、手を伸ばしてそっと結の布団を撫でた。

 その指先の動きに、どこか風を感じた。やさしく、迷いのない動きだった。


「なんで来たの……?」


 結は思わずつぶやいた。答えを返す前に、ひかりが小さく首をかしげる。


「風の音がしたの。あなたから」


「……風?」


「うん。泣いてるときって、心の奥に風が吹くんだよ。誰にも聞こえないけど、わたしにはわかる気がする。だって、世界は風でできてるから」


 ひかりの目は見えていなかった。生まれたときから、色も光も知らないという。


「でもね、わたしには風が見えるんだよ。変なこと言うけど……」


 ひかりは結の手を取って、そっと握った。


「頬に当たる風の感じだけでね、世界が虹みたいにキラキラしてるの、見えるの」


 その声は、まるで春の木漏れ日みたいだった。あたたかくて、触れたらほどけてしまいそうなほど、やさしい。


「たとえば今日の風は、すごくやさしい青。ちょっとだけ黄色も混じってる」


「色なんて、どうやってわかるの……?」


「わからない。でも、感じるの。光は見えないけど、風が教えてくれる。風って、心の中を通ると、色になるんだよ」


 結はそのとき、ぽろりと涙をこぼした。こらえようとしても、胸の奥が震えて止まらなかった。


 私はもう、何もできないと思っていた。

 風も、空も、もう自分には関係のないものだと思っていた。


 でも——。


「……ひかりちゃん」


「なぁに?」


「わたし……今日、初めて希望の色を感じた気がする」


 涙でぼやけた視界の向こうで、風がそっと頬を撫でた。春の終わりの風。あたたかく、やわらかく、やさしかった。


 きっとそれは、走っていた頃の風とはちがう。でも、心の奥を通って、色になって残る風。


 その風の始まりに、今、たしかに立っている気がした。


「明日も来てくれる?」


「うん。風がある限り、わたしはどこにでも行けるから」


 ひかりはそう言って、また笑った。


 窓の外で、桜の花びらが最後の舞いを見せていた。

 風がそれをやさしく包み、空のどこかへと運んでいく。


 その風は、もう恐くなかった。

 それどころか、結の胸の中に、新しい色を灯してくれた。


 ——風の始まりの色は、たぶん、希望の色。


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