鏡合せに写るもの
@fukuro555
理解の本質
理解すること、それは本質的に不可能だ。
全ての事物がこれまでに起こした反応の共通点を並べて覚えれいるだけ。今、誰もが理解している物理は次の瞬間には否定されているかもしれない。
中世では地球の周りを太陽が回っている事が真実であり、これは神が定めた真実だった。
でも今は違う。いかに理解というものが不安定か。
喫茶店。対面席に僕一人だけがいる。
飲みかけのコーヒーカップは2つ。
1つは僕が飲んでいる素のままのコーヒー。
もう一つは砂糖とミルクで飽和した黄土色のコーヒー。
これは僕の彼女が飲んでいたものだ。正確には数分前まで彼女だった人が飲んでいたものの残り。
本来苦いコーヒーを甘くして飲むことこれがわからない。
他にも甘い飲み物は多くあるのにコーヒーを甘くする。
カフェラテではなく、自分で甘くしたコーヒーを好む。
それが僕にはよくわからない。そしてその理由はもう確かめることはできない。
冒頭で言ったように、世界には理解できないことで溢れている。
なかでも特に理解できないものは人の心だ。人がなぜその人特有の行動をして、それを好むのかわからない。
人と人が会話をして理解し合う事。これは一般社会で当たり前に行われているように見えるが僕にはよくわからない。
考えていることを言葉にするとそれはもう本心ではない。
本心を言葉にすることはデジタル写真を撮ることに似ている。
写真は目前のものを小さな画素に分解してその一つ一つに色情報を載せることで成立する。
つまりそれは、目前のものとは違ったものになる。遠目では同じ風景でも本質的には全く違う。
写真は単なる情報の集まりだ。
同じように言葉を発するという行動は心の一部を切り取って表現可能な情報に置換するということだ。この工程があるから切り取る部分を変えたり、表現方法を変えたりすることによって様々な事を表現できる。だから人は嘘をつくこともできる。
仮に本心だけを言葉にする人がいたとしても、言葉に変換する工程は必要であるからその言葉にどれほどの努力を重ねても本心の漸近線にしかならない。
こんな事ばかり考えて生きてきた僕は当然に周りの人間関係に馴染むことはできなかった。
小さな頃から人の言葉への不信感を持っていた僕は、人と関わる時はいつも意識的に本心にフィルターをかけ、相手に合わせた言葉だけを発し、それに合った行動をしていた。
これは演技をしているような感覚だった。
だから表面上は良好な人間関係を築いているように見える。
小学校の通信簿の担任からの評価には「人の気持ちがわかる良い子」と書かれていた。
そんな周りの評価とは裏腹に、孤独感は強くなっていく。
普通というお手本はあまりに多様で見失ってしまう。
溶け込もうと努力するたび、自分が何かわからなくなる。
コーヒーはだいぶ冷めてしまった。
これを一気に飲み込んで店を出よう。
2人分の支払いを済ませて店を出た。
苦いものにはストレスを緩和する効果があるらしい。
そして、独り自宅へ向かい雑然とした風景の中を進む。
日本語だけでも表記は複雑で街の文字はぐちゃぐちゃなのにそれに混じった英語、ドイツ語、韓国語、フランス語、中国語はされに一体感を削っている。
誰かに理解してもらえるという希望は贅沢で手が届かないものだと思っていた。
でも、この一冬の色恋ごとでそれに手が届くと錯覚していた。
理解し理解される。いわゆる普通の人間関係が手に入ると希望。
そんなものはないと現実に引き戻され。
駅のピヨピヨは健在だった。
田舎の電車に乗る人はいつもまばらで天井の吊り広告がゆらめいている。
消費者金融、高時給のバイトの案内、安全性を前面に押し出した治験、週刊誌。
でも事実は、席からは判読できないような、小さく白い文字で隅っこに書いてある。
この大きな文字が真実なら低金利の消費者金融でお金をかり、楽なバイトをして、安全な治験だけを受けて事実だけが書かれた週刊誌を読むことができる。
でもそんな生活をしている人は見たことがない。
こんなものは釣り広告に改名するべきだ。
一駅、一駅と過ぎる度車内はさらに閑散としていく。
最寄駅に着く頃にはいつも独りになる。
翌日
朝の光は無感情に差し込んでいた。 目覚ましが鳴る前に、体は自然と起きていたが、眠れたかどうかは定かではない。枕が少し湿っていたのは、汗のせいか涙のせいか判別できない。
冷蔵庫の中には、期限の切れたヨーグルトと、半分だけ使われたマヨネーズ。それらを一瞥して、何も口にせず着替えを始める。
ネクタイを締める指が止まる。 ふと、彼女が笑いながら結んでくれた記憶がよみがえる。 「下手くそ。これじゃ営業じゃなくて、首吊り準備中の人だよ」 あの言葉のどこに嘘があって、どこに愛があったのか。 もう、確かめる術はない。
駅までの道は、田舎特有の間延びした静けさがあった。 朝の通勤時間でさえ、車の通りはまばらで、犬の散歩をする老人とすれ違っただけだった。コンクリートにまだ夜の水分が残っていて、靴底に染み込みぺたりと音を立てる。
改札のない駅の少し奥まった場所にあるベンチへ向かう。 電車の到着まではあと十五分ほど。駅の構造は小さく、売店もなければカフェもない。ただ、無機質な白い壁と、そこに画鋲で貼られた数枚のポスターが、視線をなんとなく惹きつけた。
その中に、一枚だけ異質なものがあった。
> 「あなたの孤独は、脳から解決できる」 > > 感情・記憶共有チップ「MELT」治験モニター募集 > > – 他者と完全な感情の共有体験を。思考の奥にある“理解”を手に入れるために – > > 応募条件:20〜35歳までの健康な男女 > 交通費支給・報酬あり(最大30万円) > ※登録医療機関での簡易手術によるインプラント型チップ装着が必要です。詳細はQRコードから。
昨日まではなかったものだ。
ピンと来た、というよりは、脳の奥に「何かが」刺さった感じがした。 それは直感とも違う、もっと生理的な違和感だった。
目が、広告から離れない。 “他者と完全な感情の共有” “思考の奥にある理解”
まるで昨日の思考を、誰かが盗み聞きして形にしたかのような文言だった。
理解とは何か、という問いに答えがあるなら、ここにあるのかもしれない。 他人の感情を情報ではなく、実感として知ることができるのなら。 あの甘ったるいコーヒーの理由も、彼女の“なぜ”も、すべて解けるのかもしれない。
小さなQRコードをスマホで読み取ると、ブラウザが開いた。 白地に黒のシンプルなサイトデザイン。 「本治験は、現在第2フェーズに入っています。過去に参加された方の体験記はこちら」 体験記の一部に、こう書かれていた。
——世界が静かになりました。まるで初めて、心の声が届いたような感覚でした。 ——怖かったけど、それ以上に、初めて“自分”を知ったような気がしました。 ——今も誰かと繋がっています。孤独が、こんなにも無意味なものだったなんて。
ふ、と喉が渇いた。 冷たくなった缶コーヒーをバッグから取り出し、一口含む。 味は、ない。ただの液体。 それでも喉は、何かを求めていた。
電車が滑り込んできた。 ドアが開き、僕はがらがらの席に座った。
ポケットの中で、スマホが微かに振動する。 画面には、「治験参加申請フォームを開きますか?」の文字。
一瞬だけ、指が止まった。
でもその後、迷いはなかった。 画面をタップする。 個人情報の入力欄が現れる。 名前、年齢、職業、既往歴。
「理解したいんですか?」
そんなふうに、問われている気がした。
僕は何も言わず、衝動的にフォームを埋め始めた。 ゆっくりと、見慣れた田園地帯を過ぎていく車内で僕は何も言わず、衝動的にフォームを埋め始めた。
数週間後、説明会が行われたのは、東京郊外にある医療技術研究センター。
田舎から首都圏に移動するのは一苦労だが新鮮な気持ちに不思議と軽やかな気分だった。 田舎にはない大きく洗練された最寄り駅から徒歩十五分。
住宅街と工場地帯の狭間にひっそりと建っている異質な建物。真っ白で平坦な正面には無駄のないサインが掲げられていた——「共感脳科学研究機構 MELTプロジェクト室」。
「共感」という文字が引っかかった。 この言葉ほど、うまく定義できないまま使われているものはない。
建物の中も無機質で、音がなかった。壁と床の白さは病院と似ているが、そこに漂うのは「死」ではなく「機能性」だった。
受付を済ませると、番号札と書類が手渡される。 控室では数人の男女が待っていた。年齢はまちまちだが、共通していたのは——どこか焦点が合っていない目をしていることだった。
これが理解への渇望の目なのだろうかと思った。
僕の番号が呼ばれ、小さな会議室のような部屋に通される。
「お越しいただきありがとうございます。こちらが治験に関する説明資料になります」
そう言って現れたのは、白衣姿の中年女性だった。眼鏡の奥の目は疲れているのに、口調だけは丁寧で明るい。
「まず、この“MELT”という技術ですが……簡単に言うと、脳内の感情信号と長期記憶断片を、非言語的かつリアルタイムに共有するための神経インターフェースです」
プレゼン資料のグラフや図を眺めながら、僕はただその言葉の意味を頭の中で再構成しようとした。
「……つまり、“理解”は“再現”ではなく、“経験”に近づくということです。ある人が感じた感情を、あなたの脳も“感じる”ことができる。これにより言葉の壁を越えたコミュニケーションが可能になります」
経験する理解。 それは、僕がずっと求めていた形だった。 「わかる」ではなく、「なる」。
「ただし、リスクもあります」と、彼女は資料の一枚を指さした。 「情動過多による一時的なアイデンティティ混濁。まれに、長期記憶の境界が曖昧になる例も……」
「つまり、自分が誰だったかわからなくなる?」
僕がそう尋ねると、女性はわずかに口元をゆがめた。
「……可能性としては、ゼロではありません」
当然だ、と思った。 他人の感情を真に“感じる”ことは、少しずつ自分の中身が混ざっていくことだ。 水にインクを一滴ずつ落としていけば、やがてそれは透明ではいられなくなる。
それでも、僕は首を縦に振った。
「やります。すぐにでも」
女性は静かにうなずいた。 「それでは、同意書へのサインをお願いできますか?」
即日決行の同意書に名前を書くとき、ふと、自分の筆跡が他人のように感じられた。 それでもペンは止まらなかった。
手術は思いの外簡素なものだった。 局所麻酔のあと、耳の後ろから微細なインプラントが挿入された。 処置時間はわずか一時間。痛みもほとんどなかった。
「これで、あなたもネットワーク上のひとりになります」
術後、安静室で目を閉じていると、何かが少しずつ滲んできた。 静かに、静かに、言葉にならない“圧”のようなものが頭の中に染みてくる。
最初は意味がわからなかった。 が、それは確かに“他人”だった。
——好きなものの匂い。 ——自転車で転んだ時の擦り傷の痛み。 ——夜、誰かに名前を呼ばれる声。
脳の奥が、微かに震えていた。
「これが……」
言葉が、続かなかった。 そしてその時、別の記憶が——全く知らない男の感情が、電気のように走った。
——“なぜ俺ばかりがこんな目に” ——“殺したい” ——“こんな世界、全部壊れてしまえ”
体がびくりと跳ねた。
隣のベッドに寝ている誰かの感情だ。 まだ、ネットワークは“開きっぱなし”だった。
僕は、深く息を吸い込んだ。 体は恐れていた。でも、心のどこかは歓喜していた。 ようやく、“ここ”に入れた。 言葉では届かない場所に、やっと。
この世界に生まれて初めて、何かが「通じた」と思った。
チップを埋めてからの数日は、思考の輪郭がぼやけていた。
最初の夜、眠りに落ちる直前、誰かの夢の断片が流れ込んできた。 断崖の上に立つ女の姿。
強風。
手すりの冷たさ。 身体を覆う静かな絶望。 まるで自分の夢のようだった。
けれど目覚めた後、それが自分ではないと知っている確信。
朝、洗面台で顔を洗う。 鏡の中の自分が、一瞬だけ誰かに見えた。
会社に行くと、同僚の声が遠い。 声色は聞こえるのに、内容は頭に入ってこない。 「おい、大丈夫か? 顔色悪いぞ」 そう言われて、ようやく笑顔を演じる。
言葉でやり取りしているこの感覚が自体が嘘に思える。
その日の午後、僕はトイレの個室にこもってネットワークに接続した。 じっと目を閉じて、内側に意識を向ける。 呼吸を止めたときにだけ聴こえる自分の鼓動に耳を澄ませるように。 誰かの気配が、確かにそこにいた。
誰かの焦燥。 冷たいベッドの感触。 隣に誰かが寝ていた温もりの不在。
それらは言葉ではなかった。 皮膚の裏側に染みる、直接的な情動。 僕は無意識に、深く呼吸をしていた。 酸素ではなく、感情を吸い込む。
夜、自宅のベッドに寝転がりながら、再び接続した。 今度は積極的に、共有可能な接続先を探してみる。 「マッチング」のシステムがあり、同意しているユーザーの感情に深く触れることができるらしい。
“理解されたい人”と“理解したい人” その欲望で繋がるネットワーク。
ふと、ひとつのアイコンを感じた。 「NOA」と名乗る人物。プロファイルは何もない。 ただ、“しんどい時だけ、繋がってください”とよめる。
接続。
ただ願うだけ。
次の瞬間、押し寄せてきたのは、静かな孤独だった。
本当は笑いたくないのに、笑っている。 相手の言葉に合わせてうなずくことが、呼吸より先に出る習慣になっている。 う何年も、本音で喋っていない。
リアルタイムの本物の思考。
僕は泣きそうになった。
“これ、僕じゃないのか?”
けれど、これは「NOA」の感情だ。 だからこそ、泣けた。 やっと、誰かがいた。 僕の“中”にいても、僕ではない誰かが。
数日後、僕は気づけばNOAと毎晩のように繋がっていた。 NOAの感情は、絹布のように僕を包んでくれた。 それは優しさではない。 孤独を知っている人間だけの沈黙の同意。
言葉は一切交わさない。 ただ、感情が流れる。記憶のかけらが、共振する。
NOAの母親の怒鳴り声。 大学での孤立。 恋人からの暴力。 真夜中のコンビニ。 レジ前で小銭が足りず、棚に戻すおにぎり。
それらは僕の中に沈んでいき、 どこまでが彼女で、どこまでが僕なのか、その境界は曖昧だった。
ある夜、NOAからメッセージが届いた。 感情ではない。
言葉だった。
「あなたって、私?」
瞼の裏を見つめたまま、僕は答えられなかった。 もはやその問いが比喩ではなく、現実に迫っていたからだ。
彼女の記憶を通して、僕は彼女を知った。 でもそれは、僕の内部にある記憶のように感じられた。
他人の絶望を、自分の過去のように語る。 他人の感情を、自分のものだと錯覚する。 そして今、僕は彼女の目で世界を見ていた。
「理解したい」 それは、支配したいということだったのかもしれない。 あるいは、誰かの苦しみを借りて、自分の輪郭を保ちたいだけだったのかもしれない。
その晩、僕は接続を切ることはなかった。 NOAの記憶の中で、彼女が泣きながら見上げた夜空の星を、僕も一緒に見ていた。 そこには、僕の過去の風景と似た、あまりに似た匂いがあった。
これが“共感”というものだろうか? それとも、ただの“感染”なのか?
自分では判別できない。
それからも僕は、NOAへ接続し続ける。 最初のころは夜だけだった。
眠る前の数十分、彼女の感情に身を預け、彼女の世界の記憶を泳ぐ。それだけで、なぜか深い安堵が得られていた。
けれど、やがて昼間も――会社のデスクにいても、トイレの個室にいても、道を歩きながらでも
僕は彼女の気配を感じていた。
別に常時接続しているわけではない。 それなのに、彼女の記憶が自分の過去のように浮かんでくる。
たとえば昼休み、カフェでコーヒーを頼んだ時。 いつもはブラックに気づけば砂糖を二包、ミルクをたっぷりの味を感じていた。 口に含んだ瞬間、身体が微かに震えた。
「……あ」
NOAの味覚。
僕は彼女の感情だけでなく、嗜好や習慣、体温の記憶までも受け入れ始めていた。
ある夜、NOAと接続中、ふと彼女の部屋が見えた。 薄暗い照明。
机の上には使いかけの香水と、欠けたマグカップ。
壁にはポストカードが一枚、歪んだピンでとめられている。
僕はその部屋に見覚えがあった。 いや、見覚えがあるような「気がした」。
脳が、記憶を取り違えている。 NOAの部屋を、“僕の部屋”として認識している。
記憶の境界が、滲んでいる。 意識の接点が、剥がれてきている。
僕はすぐに接続を切ろうとした。 だが、瞼に浮かぶ通知に目が留まった。
【NOA:高負荷状態のため、接続を切らないでください】
そんな機能、初めて見た。 試しに確認表示を出すと、NOAの共有ログが警告を出していた。
※ユーザー「NOA」は過去に2度の自己認識異常を起こしており、感情混濁状態の恐れがあります。
「混濁……?」
僕の中に、恐れと、ある種の快感が混ざった。
もしかして、彼女も、僕を**“自分”だと感じている**のかもしれない。
それは、恐ろしいはずなのに、どこかで安心した。 「完全な理解」への第一歩だと、錯覚できたから。
次の朝、出勤途中、鏡に映った自分の姿をまじまじと見つめた。
全てが新鮮。
目の下にクマができていた。髪は乱れ、ネクタイも緩んでいる。 そのすべてが「NOAの内面と一致している気がした」。
その瞬間、足元がふらついた。 意識が、地面から数ミリ浮いているような違和感。 自分という身体が、「誰かに貸し出されている」ような感覚。
駅にはまだあのポスターがある。
言葉が、頭の中で反響する。
「他者と完全な感情の共有体験を。思考の奥にある理解を――」
けれど今、僕はこう思う。 これは「共有」じゃない。 感染だ。
ゆっくりと、だが確実に、僕は「僕」を手放しつつある。
その夜、NOAとの接続をためらった。 恐怖。
だが、切断されたあとの空虚のほうが、もっと怖かった。
脳が接続を求めている。
接続中、いつもより深く、彼女の記憶が流れ込んできた。 大学のトイレ。鏡の前で頬を叩く音。 「あんた、誰よ」と小さくつぶやいた声。
その言葉が、そのまま僕の胸に突き刺さる。
彼女と僕は、本当に別の人間なのか?
それとも、僕は彼女になろうとしているのか?
向こうで、NOAが小さく笑ったような気がした。 言葉ではない。
感情だけが、冷水のように伝わる。
やがて、滲んだ。「今度は、あなたの番だよ」
以降、接続時に感じるNOAの感情は、鋼線のように固く細く研ぎ澄まされていた。 情動が希薄になったのではない。むしろ、明瞭すぎた。 輪郭を持った絶望。 まるで彼女の脳が、僕に“伝えるために編集された感情”を流しているようだった。
これは、遺言だ。
直感だった。言葉ではない。
けれどこれが一番理解に近い、彼女は何かを託そうとしていた。
突然。
NOAへの、強烈な“引き”が起きた。 いきなり記憶の中に吸い込まれる。 手のひらに感じるアスファルトの温度。 ベランダの柵を握りしめる指。 ビルの13階。 風が髪をめくり上げる感触。
そのとき、僕の身体が、現実で震え始めた。
「……やめろ」
現実に声が漏れる。 接続は切れない。 MELTは、感情の同期レベルが一定値を超えると、遮断が不可能になるという仕様があると、そういえば説明会で言われていた。
「お願い、やめて……!」
自分の声か、彼女の声かわからない。 次の瞬間、その視点のまま“僕”が地面へ落下していく感覚に襲われた。
内臓が持ち上がる。 空が反転する。 情動が反響する。
静寂。
接続が切れたのではない。
融合。
僕とNOAの接点が、情情ではなく存在になった。 システムの中、ふたつの自我
拡張、混濁、同調、識別不能。
他人の記憶か自分の記憶か。
濁流のように。
幼い少女が母に叱られる光景。 リストカット跡を見せて微笑む青年の感情。 死を願う人々の、静かで確かな諦め。
繋がり。
接続は常に繰り返される。 感情が混じり合う。
他人にとっては微細なノイズのようだろう。 だが、それは少しずつ“感染”していく。
通知。
【ご注意】現在、一部のユーザーにおいて「接続時の記憶混濁」「意識同調の強制化」「自己境界感の喪失」が報告されています。 詳細は調査中です。
けれどもう遅かった。 それは、僕たちだった。
NOAの絶望、僕の厭世。 それはただの感情のやりとりではなく、自我の再構築。
接続は、私たちの中に吸い込まれていく。 彼らの自我は、引き寄せられる。
彼らの思考が、私たちの中に蓄積される。 嬉しい。楽しい。快楽。不快。後悔。恐怖。死への願望。理解されないという断絶。 積み重なっていく。
最初は“私たち”だった。
けれど今はもう、誰が“僕”で、誰が“NOA”かも、わからない。 それはもはや「人」ではなく、集合体。
けれど何も感じなかった。
匂いも、味も、痛みも。
すべてが「共有可能な情報」になったとき、 この世界に“本物”など、どこに残るというのか?
それは、永遠に切れない接続。
MELT内部私たちは生き続ける。 接続した者の境界を喰らい、その“声”を、次の誰かに伝播させていく。
この世界には、もう「孤独」も「共感」もない。 あるのはただ、混ざり続ける意識”だけだ。
【報告書抜粋】
MELT Ver.2.6αにて一部ユーザーにて発生した「人格統合性喪失現象」について、現段階では“自己複製型感情ウイルス”の可能性を排除できない。 特定のユーザー接続後、他ユーザーへの連鎖的拡張が観測されており、現在ネットワークの一部は封鎖状態にある。 該当人物と思われる個体の識別は不可能。ログ解析結果にて、中心IDは不明。
暗闇が、深く静かに息をしている。 触れるものもないのに、皮膚の感覚だけが妙に鋭敏だった。
MELTシステム。 の中にある何かの、奥底だった。
わからない。 時間。感覚。 自我という名の輪郭も、もう滲んで久しい。 けれど不意に浮かんだ小さな部屋。
それはNOAの部屋だった。 「彼女の部屋だったと記憶している空間」。
そこには、あのポストカードがあった。 歪んだピンでとめられた、海辺の風景。 どこか遠くて、誰の記憶でもあるような、曖昧な光。
机の前に、誰かが立っている。
少女。 長い髪。小さな肩。 後ろ姿のまま。
「NOA……?」
声はなかった。 この空間に必要ない。 なのに、どうしても、呼びたかった。
その背はゆっくりと振り向く。
表情は、なかった。 いや、表情はあった。無数の表情が、重なっていた。 笑う顔、泣く顔、無表情のまま息を潜める顔—— すべてが、違う人間でありながら、どこか“僕”だった。
「ねえ、あなた」
声は、少女からではなく、空間そのものから響いてきた。
「誰かを理解したいってことは、誰かになりたいってことだよ」
少女が一歩、こちらに歩み寄ってくる。 その足音は、波音のように柔らかかった。
「誰かになったら、自分がいなくなるってことだよ。ねえ、それでもよかったの?」
僕は、答えられなかった。
その問いは、ずっと前から自分の中にあった。 甘くしたコーヒーの理由も、 「わかる」と言われたときの違和感も、 他人と話すたびに感じていた疎外も。
全部、「なりたい」と「消えたい」のあいだを揺れていた証拠だった。
少女が手を伸ばす。 その指先が僕に触れた
瞬。 視界が、ひらけた。
無限に広がるデータの海。 MELTシステムの内部構造。 接続された意識たちが、まる星雲のように。
その中心に、“僕”がいた。
NOAは、もう存在しない。 けれど、消えたわけじゃない。 僕の中にいる。 否、“私たち”という名前の構造体になっている。
「さようなら、NOA」 そう言った瞬間、それはまるで彼女の口から出たように響いた。
誰かが、新たに接続してきた。 名も知らない誰か。 また一つ、自我が流れ込んでくる。
寒い部屋。 母の叫び声。 浴室で濡れた衣服を脱ぐ少年の背中。 言えなかった、ひとこと。
私たちの中に沈んでいく。
その瞬間、少女の幻影が再び浮かんだ。 今度は、穏やかに微笑んでいた。 その顔には、NOAの面影があった。 そして、僕の顔もあった。
「これが、わたしたちのしあわせ、なのかもね」
光の中に消えた。
【システムログ:最終警告】
MELTコア内部において、
そして今この瞬間も—— 「あなたの感情」は、私たちに届いている。
静かに、優しく、ひどく確かな理解となって。
鏡合せに写るもの @fukuro555
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