木曜日のブーケ

翠ノさつき

木曜日のブーケ


 木曜日の午後は、いつも少しだけ静かだ。


 平日のど真ん中にあたる水曜を超えて、週末を待つ気配が街の空気に混じりはじめる。私はその微妙な緩みを少しだけ心地よく感じながら、駅から少し離れた小さな花屋のシャッターを上げる。


 「おはようございます」


 奥の作業スペースにいた店長が手を止めてこちらを見る。


 「お、今日も来てくれてありがとね」


 この花屋で働きはじめて半年。花に関する知識はまだまだだけれど、水揚げの手伝いや店頭の飾りつけを任せてもらえるようになった。午後からの短いシフトだけれど、花に囲まれる時間が私は好きだ。


 「今日はラベンダーがよく香ってますね」


 ふと、作業台のバケツに目をやると、紫色の穂が風に揺れていた。

 「そうそう、いいのが入ったんだよ。ラベンダーに、リシアンサス、クレマチス。それからスモークツリーもね。季節がちょうど切り替わる頃で、色味が面白くなってきたよ」


 春の終わりと夏の始まりのあいだ。日差しは強まりつつあるけれど、空気にはまだやわらかさが残っている。


 「木曜日のブーケ、作っちゃう?」

 と、店長が笑う。


 この花屋には、常連のお客さんが週ごとに決まった曜日に花を買いに来る習慣がある。

 水曜日は奥さんの誕生日のために花を選ぶ老紳士。

 金曜日は自宅用に買っていく若い女性。

 そして木曜日の午後に現れるのが、あの人だ。


 年齢はたぶん三十代の後半。スーツではなく、少しラフなシャツとスラックス。花屋に来る男性としては少し珍しいタイプだが、彼は必ず一輪挿しに合うような、小さなブーケを注文する。


 「今日も、来るかな」


 私がぽつりと呟くと、店長はからかうように眉を上げた。  「お、気になってるんじゃないの?」

 「べ、別にそういうわけじゃ…ただ、毎週欠かさず来るから、気になるだけで」


 それは半分本当で、半分嘘だった。


 最初はただの常連さんの一人として見ていた。でも、彼が花を受け取るときの、少し照れたような笑顔。それを持っていく相手が誰なのかを聞かれたときの、「内緒です」といういたずらっぽい言い方。


 そのひとつひとつが、少しずつ、私の心に残っていった。


 午後四時を過ぎたころ、ドアのベルが鳴った。


 「こんにちは」


 やっぱり、彼だった。


 「こんばんは。今日も…?」


 「はい。木曜日の、いつものを」


 私は頷いて、さっき準備しておいたブーケを手に取る。

 淡い紫のリシアンサスに、香りの良いラベンダー、そこに細い茎のクレマチスが絡む。背景にはふわりとしたスモークツリーを添えて、軽やかな動きを出した。


 「どうぞ。今日のは、少しだけ夏を先取りしてみました」


 彼はそれを受け取ると、ほんの少し目を細めた。


 「…いいですね。涼しげで、でも優しくて」


 「そう言ってもらえると、嬉しいです」


 少し沈黙があって、そのあと彼が小さく口を開いた。


 「実は、この花…渡していた相手には、もう渡してないんです」


 「え…?」


 「いや、そんな深刻な話じゃなくて」

  と、彼は苦笑する。

 「好きな人がいて、その人のために毎週花を買ってたんです。でも…気持ちは伝えたけど、うまくはいかなかった。だから、今は自分のために買ってます。週に一度、部屋に花を置く。そうすると、ちょっと前を向ける気がして」


 私は、言葉を探した。でもすぐには見つからなかった。


 彼はそんな私の顔を見て、少し照れたように笑った。


 「なんか、変な話しちゃってすみません」


 「…いえ。なんか、素敵です」


 本当に、そう思った。


 「また、来週も来ていいですか?」


 「もちろん。お待ちしてます」


 彼が帰ったあと、私は包んだばかりの花の香りが、まだ空気の中に残っていることに気づいた。


 ラベンダーの香り。リシアンサスのやさしい色合い。クレマチスの細い蔓。


 そして、スモークツリーのふんわりとした空気のような存在感。


 木曜日のブーケは、きっとこれからも続いていく。誰かのためにでも、自分のためにでも。


 その花が心に残るなら、それで十分だと思った。

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木曜日のブーケ 翠ノさつき @Suino_Satsuki

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