私は声だけの存在

つだ いかみ

序章 幼き頃の記憶

 白い雲が浮かぶ澄んだ空に,モンシロチョウがひらひらと舞う。


「お母さん、遊園地楽しかった!」


 二階建てのアパートの赤くさびた階段を良くとたん、たん、たんと駆け上がる五、六歳くらいの女の子。肩にはキャラクターものの紙袋が下がっており、サラサラのツインテールをリズミカルに風になびかせる。


「ほんと? うれしいわー!」


 娘に微笑み返しながら二十代半ばの女性が不揃いのボブを揺らす。二人の間に三月のあたたかな風が通った。



 彼女たちはたった今遊園地から自宅へと帰ってきたところだ。階段を上がり終え部屋の前に立つと、母親はごそごそとショルダーバックにバッグにやせ細った手を突っ込んだ。


「ちょっと待ってね、今開けるから」


 鍵を探しながらそう優しく言うが、え、と娘が怪訝な声を出した。母親は手を止め、きょとんとしながら娘のほうを見る。



「もう、開いてるよ?」



 娘はドアノブに手をかけ、ドアを開けていた。瞬間、母親の顔が一気に強張る。


「鍵、かけてたよね?」


 ポツリとつぶやく母親の手が、ガタガタ震えだす。家にいるのが不審者によるものだったら、そして襲い掛かってきたら—―。そんな不安がよぎったのだろうか。しかし母親はすぐさま両手を握り震えを抑え、深呼吸をした。そして、安心させるようににっこりと笑いながら娘に告げた。


「うっかりかけるの忘れちゃったかな。璃花、そこで待ってて」


 とても優しく、やけに明るい声だった。娘はぽかんとしながらただただ話を聞くのみ。母親が続けて言う。


「いいよって言うまで入っちゃダメ」

「うん、分かった!」


 無邪気に頷く娘を確認した後、母親はドアノブに手をかける。


 その時、それまでのほほんとしていた娘の表情がさっと引きつりだした。


「待って母さん!!」


 娘、璃花は思い出したのだ。この後母親がどんな目に遭ってしまうのか。しかし母親は娘の方へ振り向くことすらせず扉の先の暗闇の世界へと入っていく。

 璃花は顔を真っ青にし母親に手を伸ばした。


「だめ、母さん!!!!」





ピピピピピ ピピピピピ ピピピピピピピピ


 璃花はパッと目を開ける。真っ暗な部屋、古い家ならではの独特のにおい。すぐさま目覚まし時計を止め上体を起こした。

 この夢にうなされるのは何回目だろう。七年間たった今でも変わらない生々しさ。ドクン、ドクンと鼓動が波打つ。


 電気をつけ布団を畳み押し入れに入れたあと、シャッと自室のカーテンを開ける。

 十一月の朝五時、まだ朝日は出ていない。窓越しに冷たい空気が流れているのが伝わってくる。

 璃花は窓に手のひらをのせ、静かに告げた。


「待ってて、母さん」


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