沈殿

梨多

沈殿


 

 気分のいい朝だ。昨日の土砂降りの悪天候と打って変わって、今日は雲一つない晴天だ。春にしては少し暑いけれど、それも許してしまえるぐらいきれいな空。薄く平たく透き通っていて、手を伸ばしたらそのまま吸い込まれてしまいそう。賑やかに朝を迎える鳥のさえずりがわたしを囲んでいる。とても美しい。

 車のクラクションの音ではっと我に返り、ぴかりと反射している腕時計を覗き込んだ。もう時間だ。目の前で電車を逃したくない。急がなきゃ。すぐに駅に向かおう。


 わたしは何でも失くしてしまう。昨日は買ってもらったばかりのシャーペンをバスで落としてしまったし、そのまた昨日はお気に入りのストラップがチェーンだけの姿に変わっていた。学校の友達はそんなわたしのことを天然だとかおっちょこちょい、おバカさんだと言う。もっと物を大切にしなさいって言う。子供っぽいって呆れられる。だけどわたしは気にしない。だってすぐにお母さんが代わりのものを買ってくれるから。お父さんだっていつもわたしのことを賢い子って言ってくれる。それだけでもう充分でしょう?

 わたしが失くしてしまうのは物だけではない。ちょっとした記憶も指の隙間からこぼれ落ちてしまう。二日前に授業で習った事や、毎日の登下校での電車の乗り換え、ひどいときは自分の家族の名前も忘れてしまう。だけどもう一回見れば思い出せる。だからそのために忘れちゃいけないことはノートに書き留めている。落としてしまった記憶をすぐに拾い集められるようにね。まあそれを失くしてしまったら、どうしようもないのだけれど。


 イヤホンを耳に挿し、電車に乗り込んだ。今日が三連休明けということもあってか、車両の中は容量の限界を超えている。車窓から容赦なく差し込んでくる陽の光と、肩や背中に当たる他の体温のせいで、ひどく蒸し暑い。季節外れのタイツだけではなく、おろしたての薄いパーカーでさえも邪魔になってくる。髪、上げてくればよかったな。首筋に一つ汗が流れる度に、その生温かさが不快で鳥肌が立つ。手で拭おうとしても、窮屈すぎてそこまで腕が届かない。わたしは諦め、手すりに体をもたせて目を閉じた。


「ゆうくんって運動会で何組だっけ?あたし白組なの!」

 自分の腰よりも低いところから、幼い甲高い声が聞こえた。首を少し捻って見下ろしてみると、灰色の制服を着てランドセルを重たそうに背負っている小学生二人が、押し潰されそうになっていた。ゆうくんと呼ばれた男の子は、女の子に負けじと大きな声で答えた。

「ぼくはね赤組だよ。そう、ぼくねリレー選手になれたの!すごいでしょ」

「ほんとに?いいなー。あかねはね、リレー選手にはなれなかったけどね、ほけつなの。だってね、惜しかったんだよ。もう少しで抜かせたんだけど、お腹痛くてちゃんと走れなかったの。ほんとだよ。だから普通に走れてたらリレー選手なれてたんだよ!」

 思わず口元がほころんだ。身の窮屈さにも全く辟易せずに一生懸命に話している小学生たちが、とても愛おしく、そして羨ましく感じた。暑さと人の多さにイライラしているわたしとは違い、この二人はこんな状況でも無邪気にこの時間を楽しんでいる。

 運動会か。懐かしいな。わたしの頃もリレー選手とかあった…いや、待てよ。思い出せない。リレー選手って初めて聞いたかもしれない。そもそも運動会なんてあったけ?赤組?白組?子供たちが話していた内容を口の内で繰り返してみる。よくよく考えてみると、わたしって小学校に行っていたっけ?ああ、ますます分からない。どうしてもこの子たちみたいにランドセルを背負っていた自分の姿を想像できない。胸にじわりと気味の悪さが広がった。じゃあ今わたしはなんでここにいるの?

 そう考えて混乱している内に二人は人混みを掻き分けて、電車から降りてしまった。その小さな後ろ姿がこれ以上わたしに教えてくれることはなかった。もう気にするな。わたしは頭を振って、そんな考えを追い出そうとした。くだらない。こんなことどうでもいい。考えたところで、どうせすぐに忘れてしまうのだから。


 終点のアナウンスが響いた。触れ合う肩が少しずつ動き始めた。そしてドアが開くと、我先にと出口へ向かおうとする人々の雪崩が起きた。わたしは、押されて揉まれながらゆっくりと進んだ。急がないで大丈夫。始業の時間までまだまだ余裕があるから。人がごった返している改札を悠々と通り、ひらけた場所に出た。そして立ち止まって、窮屈だった体をほぐした。

今日はどんな日になるかな。わたしは鞄に手を入れ、小さなノートを取り出した。昨日は何があったっけ。ページをめくって、一つ一つ確認し始めた。そうそう、明日駅前のカフェに行こうねって約束したんだ。SNSでバズっていて、若者にすごく人気らしい。あ、一限に英語の小テストあるんだった。今からでも勉強したら間に合うかもしれない。どうしよう。範囲のページ数を書くのを忘れていた。仕方がないから誰かにメールで教えてもらおうと、ポケットからスマホを取り出そうとした。

 だが取り出せなかった。手が思うように動かない。時が止まった。体から力が抜けていく。持っていたノートが指から滑り落ちる。それが床と触れ合う音は遥か遠くで聞こえた。周りの喧騒はわたしを締め出した。奇妙なくらい静寂が広がっている。目が回る。吐きそうなぐらい気持ちが悪い。

 いきなりの出来事に頭は追いついていなかった。体だけは先回りして全てを分かっているみたい。息をゆっくりと吐いた。一旦落ち着こうとした。どうにかして理解しようとした。そして感じようとした。


 二度目に深く息を吸い込んだとき、うっすらと覚えのある匂いがした。ゆったりとしていて温かく、安心する。それでいて危険で雑多で古い。恍惚として何もかも失いそうになる。呼吸をする度に何かを思い出しそうな感覚になる。これはなんだろうと考えると涙が出そうになる。ずっとこの空気を吸っていたいという気になり、その思いはどんどん強くなる。眩暈がする。無性に叫びたくなる。飛び跳ねたくなる。倒れ込みそうになる。喉元に何かつかえている。それを吐き出してしまおうとしても、足りない。まだまだ足りない。この匂いを嗅ぎ続けたい。ずっと傍にいてほしい。全てを埋め尽くしてほしい。…これよりももっと濃くてはっきりとしたものがほしい。

 わたしは走り出した。

 どの方向に行けばいいかなんて、考えなくても分かった。この匂いがわたしを引っ張ってくれる。それ以外はもうどうでもいい。誰かがわたしの名前を呼んだ。そんなことどうでもいい。知らない肩がぶつかってきた。そんなもの痛くも痒くもない。何者かに腕をつかまれた。勢いよくその手を振り払った。わたしは鼻だけに意識を集中させた。そしてその匂いが目に口に耳に、体中の骨に染み渡ると、ありえないほどの力が奥底から湧いてきた。わたしは走った。躓きよろめきながらも、進み続けた。


 足がぴたりと止まった。上半身は急ブレーキをかけたように前のめりになる。突然のことに驚いて、弾んだ息を整えながら周りを見渡してみた。あ、ここって来ちゃいけないところだ。わずかに残っていた理性がわたしにそう伝える。駅からどれくらい離れているのだろうか。ここは毎日車窓から見ていたビル街とは似ても似つかない街並みだ。整然さや品性のかけらもないみたい。狭い路地に酒場が敷き詰められていて、道はでこぼことしてうねっている。店々の看板は古くさく煤で黒く汚れていて、ぶらさがっている灯りは弱々しく点滅している。地面には煙草の吸い殻が散らばっていて、何かわからない液体の水たまりができている。人通りは少ない。電柱を背もたれにして寝ている気の毒な酔っ払いか、怪しげに通りの真ん中を歩く魔女のような老人くらいしかいない。だけどわたし嫌いじゃない。もちろん、こんな若い女子にふさわしい場所ではない。だけど嫌いじゃない。ここは何か人を惹きつける魅力がある。非日常的で危ないものに魅了されるのは人の常でしょう?まさにその通りみたい。

 すると、あの匂いがそよ風に乗せられ漂ってきた。それを深く味わいながら吸い込むと、わたしの足は前へ進んだ。今度はゆっくりとした速さだ。さっきのような乱暴さはもうない。まるで手を差し伸べてきているかのように優しい。こっちにおいで、と言われているみたい。抱きしめられているみたい。


 ここ、見覚えがある気がする。流れていく景色を眺めながら、ぼんやりとそう思った。最初はこんなところに来たことがないから面白いとしか感じなかったが、ふと懐かしさが湧いてきた。昔に来たことがあるかもしれない。わたしがそんなこと覚えているなんて珍しいな。何でもすぐに忘れてしまうのに。あり得ない。多分デジャブじゃないかな。それくらいここは印象が強いっていうことでしょ。

 いや、違う。疑念は確信へ変わった。絶対に来たことのある場所だ。誰かに手を取られてこの道を何度も行き来をしたことがある。この先はどんな道になっているか、ここを曲がったら何があるか、全て記憶している。さっきとは違って、わたし自身が判断をしている。匂いに誘われながら、わたし自身が歩を進めている。この角を左へ曲がろう。そうすれば目的地まで近道だから。もうすぐ着く。この匂いの元へ。いや、わたしが目指している場所に。


 ここだ。わたしは立ち止まった。そして見上げてみると、そこには一軒のアパートがあった。屋根の色は剥げかかっていて、骨組みのあちこちがむき出しになっている。かつては鮮やかな色でしっかりした作りだったのだろう。いやそうだった。わたしが前見たときはそうだった。覚えている。この階段を上れば、すぐそこだ。もうそこまで来ている。

 一段一段踏むごとに、今にも崩れ落ちそうな音がする。床が抜けてしまいそうだ。手すりを持とうとしたが、至る所に棘が飛び出している。壁に触れようと思ったが、何かが飛び散った跡がある。赤茶色だ。もしかして…。そう気づいてしまうと、恐ろしさで体が震え始めた。気味が悪い。変に閑散としているのがとても怖い。誰かに見られている気がする。思わず後ろを振り返った。その弾みで足を踏み外した。ぎしりと嫌な音が響いた。鳥肌が立った。冷たい汗が頬をつたる。ここから逃げ出したい。もう引き返してしまおう。

 あの匂いがまたわたしを取り囲んだ。もう少しだ。あともう少し。もうすぐそこだ。勇気が湧いてきた。わたしは一人じゃない。この匂いを感じられる限り、わたしは一人じゃない。


 二階に着くと、ドアが半分開け放しになっている部屋が見えた。もう分かっていた。あそこだ。わたしが探し求めていた場所だ。鼓動が耳の奥に響く。駆け足になる。あの匂いがわたしをその部屋へと誘う。手を前へ伸ばした。ドアノブを掴み、目一杯に開いた。そして、吸い込まれるように倒れ込んだ。


 そこは暗く狭い部屋だった。陽の光が差し込まないせいか、湿気ていて空気が悪い。匂いが強すぎて酔いそうになる。わたしは咳き込みながら、部屋の中を慎重に探索し始めた。

長い間放置されていたのだろう。数少ない家具が散乱していて、荒れ果てている。壁には引きかかれた跡があり、蜘蛛が二、三匹這っている。物騒で気味の悪さを肌に感じる。もう帰ってしまおうと、脚が一つ切り落とされている机を支えに、立ちあがろうとした。

 その瞬間だった。女の人の声が頭に響いた。悲痛な叫び声だ。誰かに許しを乞うように、縋るように、泣き叫んでいる。助けを求めている。止まない。早く行ってあげなければ。彼女は死んでしまう。別の声が聞こえた。笑い声を立てている。残酷な笑いだ。振り返るとうっすらと大きな男の影が見えた。こっちを見てせせら笑っている。鈍器を振り下ろす音がした。肩に痛みが走った。叫び声を上げた。自分の声と女の人の声がこだました。耳を塞ごうとし、机から手を離した。

 すると声は止んだ。痛みも消え、何もなかったかのように辺りはしんとしている。自分の他に誰もいない。膝頭が熱くなる。鼓動は速く小刻みになる。

 転がっている椅子の背を持った。その途端、同じ女の人の声が聞こえた。また泣いている。しかし今度はさっきとは違い、一人で静かに泣いている。たまに誤魔化そうとして小さく笑うが、嗚咽は隠しきれていない。わたしの背中をさすり、頬に口付けた。そして優しく抱きしめた。わたしも抱きしめようと手を伸ばしたが、その姿は消え去ってしまった。

 次から次へと記憶が掘り起こされ、混乱してしまった。ひどい頭痛がして倒れそうになり、咄嗟に窓枠を掴んだ。

 断末魔の叫びがした。近くで誰かが倒れる音がした。何が起きたか分からなかった。わたしは泣いていた。隣で事切れた母を求めて泣いていた。その間に大きな影が近づいてきて、その太い手がわたしの首を掴んだ。外の電灯からの光に照らされたその顔は、怒りと憎しみに燃えていた。力を込めてさらに強く掴み、わたしを黙らせようとした。苦しい。もがこうとしたが、無駄だった。気を失った。そしてサイレンが鳴った。その音はだんだんと近づいてくる。気がつくと、わたしは別の腕に抱かれていた。

動悸がする。呼吸が浅くなる。思わず膝から崩れ落ちた。頭を抱えた。もう逃げ出したかった。だがまだこれで終わりではない。わたしの直感がそう告げた。

 部屋の隅に、小さな紙切れが落ちていた。震える指で拾い上げた。そこには折れそうなくらい細く薄い字が並んでいた。


「愛してる、わたしの天使。本当に愛しているわ。ごめんなさい。守りきれなくて。傍にいられなくて。親の役目を果たせなくて。本当にごめんなさい。あなたのこと、置いていきたくないわ。離れたくない。ずっと一緒にいたい。だけどこうするしかない。だってあなたには生き続けてほしいから。あなたにはまだたくさんの未来が待っているから。約束して、幸せになるって。わたしは空の上から見守っているから。絶対に目を離さないわ。だから幸せになって。愛してる」



 もうこれ以上知りたくなかった。全てを理解して認めてしまうのが怖かった。嘘だと言ってほしかった。夢であってほしかった。まさかこんなことが自分の身に起こったなんて信じたくなかった。涙がいくつも流れ、古びた床に点々と模様をつけていた。全て忘れてしまいたい。何もなかったことにしたい。けれど考えれば考えるほど、辻褄が合ってしまう。ひどく忘れっぽいこと、幼い頃の記憶がないこと、 心の底から人に好意を抱けないこと、両親がわたしだけ甘やかしてくれること。全てに説明がつく。

母が殺されたとき、わたしは完全に壊れてしまった。二度と元には戻らないほど、わたしの心は深く傷ついてしまった。わたしは麻痺している。何事も胸に真っ直ぐ響くことはない。あの瞬間、わたしの時はここで止まってしまった。わたしの心はこの荒れた世界に留まり続けている。空っぽの体だけが独り歩きをして、新しい満ち足りた世界に向かったのだ。

 「愛してる」。そんなもの何の価値もない。今となっては何の意味もなさない。その言葉はただ残酷な事実を知らせただけだ。わたしを愛した人はもうここにいないということを。この先現れることはないということを。

 ごめんなさい、お母さん。わたしは幸せになることはできない。全てが消えてしまうまで、わたしがわたしでなくなるまで、わたしは幸せになれない。

 涙がとめどもなく溢れた。この先どうしたらいいのだろう?怖い。今までのわたしの何を信じればいいのか、何が本当だったか分からない。孤独だ。誰に助けを求めても、真の意味で助けてくれる人はいない。わたしはこの苦しみを一生抱えていくのだ。全てを終わりにしたい。消し去ってしまいたい。


 誰かに肩を掴まれた。あの強い力で。


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沈殿 梨多 @snoop5

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